日本最初の天満宮「水火天満宮」へ
藤田家住宅を出て、上立売通りの信号で堀川通りを渡ります。そして堀川通りの東側の歩道を北に上がります。そしたら2014年に訪れた裏千家 茶道資料館の前を通りました。ここで観光バスを降りて入ったんですね、覚えていました。
信号待ちもあったので、約10分弱ぐらいで、上御霊通りの信号まで来ると、園児達の甲高い声が聞こえてきました。そこには扇町児童公園があるので、子供達を連れて多くの人が来られてました。その公園に隣接しているのが水火天満宮(すいかてんまんぐう)です、季節外れの暑さのため汗だくで着きました。
堀川通り沿いの鳥居から入りました。外は賑やかですが、ここには誰も居なくて・・・静かです。
鳥居を入ると、右手に社務所が見えました。順番が逆であるのは、重々承知してますが、先に呼鈴を押して見ました。
ただ・・・これは見たくなかったんですが・・・「ただいま外出しています」と書いてある張り紙です。要するにお留守でしたので、朱印はいただけませんでした。残念ですが、再訪します
。
ここ水火天満宮には朱印は・・・確実にあるんですけどね・・・少し、残念な気持ちで参拝です。その前に社務所の少し前にあった手水舎に寄りました。
以前から、水火天満宮(すいかてんまんぐう)の存在は知ってましたが、さて・・・どう読むのかなぁ
と思ってました。まぁ・・・普通に読めば良かったんですけどね。そして手前が拝殿、奥に本殿がありお参りさせてもらいました。
天満宮ですで、御祭神は菅原道真公です。先程の社務所が留守だったので、由緒書きもらえなかったのも残念ですが・・・入口に駒札が書いてあったので、参考にすると・・・。
923年(延長元年)延暦寺の天台宗13世座主・尊意僧正(そんいそうじょう)が醍醐天皇の勅願により、水難火難除けの守護神として、菅原道真(すがわらのみちざね)公の神霊を勧請して建立された起源です。醍醐天皇から「水火の社天満大神」という神号の勅許を得て「水火の社天満自在天神宮」を賜りました。このとにより、日本最初の天満宮といわれています。
境内は狭いです。初めて来たのである程度は、想像して来ましたが・・・思ってた以上に狭い・・・そんな感じです。それなのに、境内には沢山の末社がありました。先ずは赤い鳥居が目立つ六玉稲荷大明神社から。
江戸時代まで東本願寺の飛地境内である渉成園内の枳殻亭(きこくてい)にあったものが、明治維新以降に現在地に遷座されました。その前には、「金龍水」と書かれた立札が・・・枯れたとこの無い井戸水で、「眼病」に効く・・・と伝わっています。
境内の東側に末社が並んでいましたので、一つづつ
。その左隣にあったのが秋葉大神社です。御祭神は、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と書いてありました。加火難除けの神様だそうです。
その左隣が白太夫社で、御祭神は、度会春彦(わたらいはるひこ)と書いてありました。御利益は、子授けだとか。
度会春彦は、菅原道真に随行し、最期を看取ったとされる伊勢神宮神主だそうで、度会春彦は、若い頃から白髪だったことで、人々から白太夫というあだ名で呼ばれてたみたいです。
さらに左隣には、弁才天社がありました。ここの立札には、御祭神の名が玉姫弁才天・金玉龍王・福寿大明神と書いてありました。
由緒書きを貰い損ねたので・・・HPでは御利益を、芸能・婦人病さらに雨請(あまごい)、商売繁盛とありました。
雨乞い・・・ここ最近、秋雨前線が大暴れして、京都市は度々の大雨に見舞われてます・・・電車は止まるし・・・散々な目に・・・
。最後は玉子神石です。
祠の中に、丸石が祀られています(もう少し近づいて撮れば良かったです)。妊娠5ケ月目に、この石にお祈りすると安産になると言われています。元々は道真公の御愛石でした。
ここで前途した児童公園から出てみました。境内の南側にあたるこちら側にも鳥居があって、ここから自動公園の中を通って入ることができます。
南側にも立派な鳥居があって、春にはこの辺りで桜が綺麗に咲くそうです。境内は自由散策ですので、早い時間に来てみたいですね。
その鳥居を入って左手に登天石と書かれた岩が・・・ありました。
水火天満宮を建立した尊意僧正(そんいそうじょう)が宮中に向かう際、鴨川に差し掛かると急に増水して川が氾濫すると、神剣を捧げて祈ると水が二分し、中央の岩に菅原道真公の神霊が現れ雷雨がやんだと言います。その石を持ち帰り供養して登天石と名付けられたそうです。
その右隣が出世石です。大願成就・・・文字通り立身出世・・・された方でしょうか
・・・寄贈者の名前が石柱に刻まれてました・・・
。
1950年(昭和25年)堀川通りの拡張に伴い、上京区上天神町(堀川通りを挟んで西側)から移転し鎮座。私が物心ついた頃には堀川通りは五条通りと並んで広かった。祖母は「堀川には市電が走ってたで」と話してましたが、その頃は私は知らないです
。再び上御霊前通りから堀川通りを渡り西へと向かいました。
【水火天満宮 本殿】

信号待ちもあったので、約10分弱ぐらいで、上御霊通りの信号まで来ると、園児達の甲高い声が聞こえてきました。そこには扇町児童公園があるので、子供達を連れて多くの人が来られてました。その公園に隣接しているのが水火天満宮(すいかてんまんぐう)です、季節外れの暑さのため汗だくで着きました。
堀川通り沿いの鳥居から入りました。外は賑やかですが、ここには誰も居なくて・・・静かです。
鳥居を入ると、右手に社務所が見えました。順番が逆であるのは、重々承知してますが、先に呼鈴を押して見ました。
ただ・・・これは見たくなかったんですが・・・「ただいま外出しています」と書いてある張り紙です。要するにお留守でしたので、朱印はいただけませんでした。残念ですが、再訪します

ここ水火天満宮には朱印は・・・確実にあるんですけどね・・・少し、残念な気持ちで参拝です。その前に社務所の少し前にあった手水舎に寄りました。
以前から、水火天満宮(すいかてんまんぐう)の存在は知ってましたが、さて・・・どう読むのかなぁ

天満宮ですで、御祭神は菅原道真公です。先程の社務所が留守だったので、由緒書きもらえなかったのも残念ですが・・・入口に駒札が書いてあったので、参考にすると・・・。
923年(延長元年)延暦寺の天台宗13世座主・尊意僧正(そんいそうじょう)が醍醐天皇の勅願により、水難火難除けの守護神として、菅原道真(すがわらのみちざね)公の神霊を勧請して建立された起源です。醍醐天皇から「水火の社天満大神」という神号の勅許を得て「水火の社天満自在天神宮」を賜りました。このとにより、日本最初の天満宮といわれています。
境内は狭いです。初めて来たのである程度は、想像して来ましたが・・・思ってた以上に狭い・・・そんな感じです。それなのに、境内には沢山の末社がありました。先ずは赤い鳥居が目立つ六玉稲荷大明神社から。
江戸時代まで東本願寺の飛地境内である渉成園内の枳殻亭(きこくてい)にあったものが、明治維新以降に現在地に遷座されました。その前には、「金龍水」と書かれた立札が・・・枯れたとこの無い井戸水で、「眼病」に効く・・・と伝わっています。
境内の東側に末社が並んでいましたので、一つづつ

その左隣が白太夫社で、御祭神は、度会春彦(わたらいはるひこ)と書いてありました。御利益は、子授けだとか。
度会春彦は、菅原道真に随行し、最期を看取ったとされる伊勢神宮神主だそうで、度会春彦は、若い頃から白髪だったことで、人々から白太夫というあだ名で呼ばれてたみたいです。
さらに左隣には、弁才天社がありました。ここの立札には、御祭神の名が玉姫弁才天・金玉龍王・福寿大明神と書いてありました。
由緒書きを貰い損ねたので・・・HPでは御利益を、芸能・婦人病さらに雨請(あまごい)、商売繁盛とありました。
雨乞い・・・ここ最近、秋雨前線が大暴れして、京都市は度々の大雨に見舞われてます・・・電車は止まるし・・・散々な目に・・・

祠の中に、丸石が祀られています(もう少し近づいて撮れば良かったです)。妊娠5ケ月目に、この石にお祈りすると安産になると言われています。元々は道真公の御愛石でした。
ここで前途した児童公園から出てみました。境内の南側にあたるこちら側にも鳥居があって、ここから自動公園の中を通って入ることができます。
南側にも立派な鳥居があって、春にはこの辺りで桜が綺麗に咲くそうです。境内は自由散策ですので、早い時間に来てみたいですね。
その鳥居を入って左手に登天石と書かれた岩が・・・ありました。
水火天満宮を建立した尊意僧正(そんいそうじょう)が宮中に向かう際、鴨川に差し掛かると急に増水して川が氾濫すると、神剣を捧げて祈ると水が二分し、中央の岩に菅原道真公の神霊が現れ雷雨がやんだと言います。その石を持ち帰り供養して登天石と名付けられたそうです。
その右隣が出世石です。大願成就・・・文字通り立身出世・・・された方でしょうか


1950年(昭和25年)堀川通りの拡張に伴い、上京区上天神町(堀川通りを挟んで西側)から移転し鎮座。私が物心ついた頃には堀川通りは五条通りと並んで広かった。祖母は「堀川には市電が走ってたで」と話してましたが、その頃は私は知らないです

【水火天満宮 本殿】