奇祭「玄武やすらい祭」で知られる玄武神社へ

水火天満宮を出て堀川通りの西側を少しだけ北上すると左手に入ります。そして猪熊通りを斜めに北上すること約5分で、玄武神社(げんぶじんじゃ)に着きました。

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建勲通りまで来ると、道が広くなって、そこに鳥居がありました。その前だけ広場のように広くて・・・直ぐに分かりました。

玄武とは、方角を司る「四神」の一つで、北を玄武、東を青龍、南を朱雀、西を白虎が守護する土地として、京都に都が置かれたんですね。多分、それに関係する神社なんだろうと思って来ましたが・・・さて・・・

鳥居を入って右手にあったのが手水舎です。ここでは漫画で、手水の使い方がありました。それにしても、そんなに歴史を感じない・・・最近・・・創建されたのかなぁ・・・と思いました。

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高松塚古墳の壁画にも描かれてた玄武・・・あまりにも有名ですよね。ここの手水舎には、多分・・・水の出口に玄武が・・・居ました(確認したわけでは無いので・・・間違ってたらゴメンナサイです)。

鳥居を入った正面・・・そんなに広い境内では無いので、外からで見えてましたが、本殿で参拝です。

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御祭神の惟喬親王(これたかしんのう)は、文徳天皇の第一皇子として、844年(承和11年)の生まれ。父帝は惟喬親王を寵愛し、皇太子に立てようとしたが、母が紀(き)氏の出身であったことから、母が藤原良房の娘・明子を持つ惟仁親王(これひとしんのう)後の清和天皇が生まれたため実現しなかった。

清和天皇の母が太政大臣・藤原良房の娘であったため、わすが9歳で即位したとか、当時、藤原氏の権力が分かるような気がします。清和天皇・・・清和源氏の祖として知ってました。そしてお参りのあと、右手に見えてた社務所に行きました。何だか留守のような雰囲気が・・・。

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窓は閉まってるのは分かってたので・・・思いっきり・・・呼鈴を押しましたが・・・反応無し・・・でした・・・残念・・・です

878年(元慶2年)惟喬親王(これたかしんのう)の末裔で当時、この地に住んでた星野市正源茂光(ほしのいちのかみみなもとのしげみつ)が惟喬親王寵愛の紀名虎(きのなとら)所蔵の剣を王城北面鎮護とこの地の守護神として、奉祀したのが創祀と伝わっています。

入口の鳥居横にある駒札を読んで、ここの神社の歴史を知りました。結構、古かったんだと・・・その境内左に末社があったので寄ってみました。向かって右手が三輪明神。左手に玄武稲荷大神が祀られています。

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先ずは写真・中の三輪明神から。そして写真・下の玄武稲荷大神へ。由緒なんかは、社務所が閉まっていたので分からないです。

玄武神社では、毎年4月の第2日曜日に斎行される「玄武やすらい祭」は平安時代後期から続く祭事で、国の重要無形民俗文化財に指定されている奇祭で知られています。

今日の予定は、ここまででした。ここから大徳寺前のバス停から帰路に着く予定が、帰りにもう一箇所寄ることにしました。

【玄武神社 本殿】



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