京都浄土宗寺院 特別大公開 地蔵院 安胎寺へ
勝念寺を出て、京阪「丹波橋駅」から特急に乗って、「祇園四条駅」まで乗ります。そこから鴨川を渡って、阪急「河原町駅」まで行き、準急にのり「西京極駅」までやって来ました。
西京極は、J2京都サンガF.C.の本拠地「京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場」が近くにありますし、時たま阪神タイガースが西京極球場(わかさスタジアム京都)で試合しますが、私が子供頃には阪急ブレーブスの試合をよく見に行ったものです。
そんな懐かしい西京極を背に、南に下がります。すると七条通りに出るので、西に進み天神川通りを渡り、ほどなく西に進んだあと、右手に「サカエ」と書いてあるコーヒーショップがあり、それが目印でした。その前の狭い露地を南に入って直ぐの道を右手に進めば、京都浄土宗寺院 特別大公開 地蔵院 安胎寺がありました。
地図を頭に入れてやって来ましたが、いざ着いてみたら・・・ここで間違いないのと思ってしまうほど豪華な表門でした。ここに着いたのか11時ちょうど。勝念寺を10時過ぎに出たので約1時間で着きました。ここの公開は、9日(日)10時~13時の一日だけだし、次の寺院が12時~15時・・・微妙な時間に着いた事になりました。
お寺に似合わないほどの表門。知らなかった女房は「ここ料亭とちゃうの」と聞く始末。その表門、入ると本堂に住職さんがおられて、「どうぞ玄関から入って下さい」と言ってもらいました。
書院の玄関でしたが、ここもお寺の玄関には見えないですよね。どうやら堂内には誰も居ないので、入ると早速案内していただきました。
椅子は何席か用意されてたので座って話を聞きました。なお先に写真撮影についても聞いてみたら、OKでした。先程の勝念寺と同じく嬉しい話です。
正式には、浄土宗幡松山地蔵院安胎寺といいます。ご本尊は、玉帯地蔵大菩薩で阿弥陀如来像ではありませんでした。
第55代文徳天皇の后・染殿皇后が出産予定日を過ぎても出産の兆しがなかったところ、この地蔵菩薩に祈願したところ、無事に男の子が生まれ、その時の皇子が惟仁親王で、後の清和天皇となられました。 これ以降、染殿皇后は高僧・慈覚大師に地蔵菩薩像を彫らせたのが玉帯地蔵大菩薩で、日々信仰されるようになりました。 染殿皇后は900年(昌泰3年)に亡くなられますが、この玉帯地蔵大菩薩を譲り受けた女官は名を光乗比丘尼と改め仏門に入り、902年(延喜2年)に現在地に安置し祀られたのが、この地蔵院の創建となりました。
お堂の右手には千手観音菩薩像がお祀りされていましたが、住職さの話では、ここに安置されてた経緯は不明だとか。
本堂の左側、内陣の手前には涅槃図も掛かってました。特に傷みが激しいとかは無かったです、猫を探しましたが・・・。
ここで住職さんの話を聞いてた時、ちょうどブログで玄武神社の記事を書いてた時でした。そのため文徳天皇や染殿皇后を聞き、その子が清和天皇になることが、話の途中で分かりました。ちょうどタイムリーな話題でした。
暫く何方も来られなかったので、前庭のお話も・・・。あの豪華な表門、屋根が茅葺きになっています。最近、その屋根をカラスが突いて困っていると、苦笑いされてました。
そうこうしてたら、参拝者も来られたので、次ぎに書院に行くように言われたので、そちらに向かいました。本堂と書院の間も素敵な中庭があるので見て行きます。
庭に小川が流れています。素敵な演出は・・・聞きました。井戸水を汲み上げてて流されてるそうです。いつも綺麗な水が流れるようになっていました。
ここに入る時に「茶道教室」の張り紙を目にしました。そして住職さんの話でも茶道教室の話が出てきました。広い書院に通されたら奥は、茶室になっていました。
ここも本堂と同時期に建てられたので大変、綺麗です。ここで奥様が出て来られてお茶と和菓子の接待を受けました。伏見から西京極へ移動してきて、お昼はまだ食べてません。この羊羹、大変美味しかったです。
まさかお茶と和菓子をいただけるとは思ってもみなかったので、再び本堂に戻ってお賽銭で志納・・・しておきました。このあと数名が入って来られたので住職さんは忙しそう。奥様にお礼を言って、ここを出ました。
本堂前には庭があって、そこには「授かり地蔵尊」なるものがありました。ここは安産祈願の寺として知られてたんですよね。
ここを出たのが11時23分です。次の寺院が前途のとおり12時からとなってて、まだ早いですが、何処がでお昼でも頂こうと思いそちらに向かいました。私らが出て行くと数名が、また入って行かれます。多分、次の寺院を考えると11時30分~12時30分頃に訪問したら、次の寺院とセットで行けるので、皆さんそれが狙いでしょうし、私もそうでしたが、少しづつ早く着いてしまい・・・さて、次の寺院は開いてるでしょうか。
【地蔵院 安胎寺 本堂】
西京極は、J2京都サンガF.C.の本拠地「京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場」が近くにありますし、時たま阪神タイガースが西京極球場(わかさスタジアム京都)で試合しますが、私が子供頃には阪急ブレーブスの試合をよく見に行ったものです。
そんな懐かしい西京極を背に、南に下がります。すると七条通りに出るので、西に進み天神川通りを渡り、ほどなく西に進んだあと、右手に「サカエ」と書いてあるコーヒーショップがあり、それが目印でした。その前の狭い露地を南に入って直ぐの道を右手に進めば、京都浄土宗寺院 特別大公開 地蔵院 安胎寺がありました。
地図を頭に入れてやって来ましたが、いざ着いてみたら・・・ここで間違いないのと思ってしまうほど豪華な表門でした。ここに着いたのか11時ちょうど。勝念寺を10時過ぎに出たので約1時間で着きました。ここの公開は、9日(日)10時~13時の一日だけだし、次の寺院が12時~15時・・・微妙な時間に着いた事になりました。
お寺に似合わないほどの表門。知らなかった女房は「ここ料亭とちゃうの」と聞く始末。その表門、入ると本堂に住職さんがおられて、「どうぞ玄関から入って下さい」と言ってもらいました。
書院の玄関でしたが、ここもお寺の玄関には見えないですよね。どうやら堂内には誰も居ないので、入ると早速案内していただきました。
椅子は何席か用意されてたので座って話を聞きました。なお先に写真撮影についても聞いてみたら、OKでした。先程の勝念寺と同じく嬉しい話です。
正式には、浄土宗幡松山地蔵院安胎寺といいます。ご本尊は、玉帯地蔵大菩薩で阿弥陀如来像ではありませんでした。
第55代文徳天皇の后・染殿皇后が出産予定日を過ぎても出産の兆しがなかったところ、この地蔵菩薩に祈願したところ、無事に男の子が生まれ、その時の皇子が惟仁親王で、後の清和天皇となられました。 これ以降、染殿皇后は高僧・慈覚大師に地蔵菩薩像を彫らせたのが玉帯地蔵大菩薩で、日々信仰されるようになりました。 染殿皇后は900年(昌泰3年)に亡くなられますが、この玉帯地蔵大菩薩を譲り受けた女官は名を光乗比丘尼と改め仏門に入り、902年(延喜2年)に現在地に安置し祀られたのが、この地蔵院の創建となりました。
お堂の右手には千手観音菩薩像がお祀りされていましたが、住職さの話では、ここに安置されてた経緯は不明だとか。
本堂の左側、内陣の手前には涅槃図も掛かってました。特に傷みが激しいとかは無かったです、猫を探しましたが・・・。
ここで住職さんの話を聞いてた時、ちょうどブログで玄武神社の記事を書いてた時でした。そのため文徳天皇や染殿皇后を聞き、その子が清和天皇になることが、話の途中で分かりました。ちょうどタイムリーな話題でした。
暫く何方も来られなかったので、前庭のお話も・・・。あの豪華な表門、屋根が茅葺きになっています。最近、その屋根をカラスが突いて困っていると、苦笑いされてました。
そうこうしてたら、参拝者も来られたので、次ぎに書院に行くように言われたので、そちらに向かいました。本堂と書院の間も素敵な中庭があるので見て行きます。
庭に小川が流れています。素敵な演出は・・・聞きました。井戸水を汲み上げてて流されてるそうです。いつも綺麗な水が流れるようになっていました。
ここに入る時に「茶道教室」の張り紙を目にしました。そして住職さんの話でも茶道教室の話が出てきました。広い書院に通されたら奥は、茶室になっていました。
ここも本堂と同時期に建てられたので大変、綺麗です。ここで奥様が出て来られてお茶と和菓子の接待を受けました。伏見から西京極へ移動してきて、お昼はまだ食べてません。この羊羹、大変美味しかったです。
まさかお茶と和菓子をいただけるとは思ってもみなかったので、再び本堂に戻ってお賽銭で志納・・・しておきました。このあと数名が入って来られたので住職さんは忙しそう。奥様にお礼を言って、ここを出ました。
本堂前には庭があって、そこには「授かり地蔵尊」なるものがありました。ここは安産祈願の寺として知られてたんですよね。
ここを出たのが11時23分です。次の寺院が前途のとおり12時からとなってて、まだ早いですが、何処がでお昼でも頂こうと思いそちらに向かいました。私らが出て行くと数名が、また入って行かれます。多分、次の寺院を考えると11時30分~12時30分頃に訪問したら、次の寺院とセットで行けるので、皆さんそれが狙いでしょうし、私もそうでしたが、少しづつ早く着いてしまい・・・さて、次の寺院は開いてるでしょうか。
【地蔵院 安胎寺 本堂】