大手筋の妙見さん 本教寺へ
キザクラカッパカントリーの北門を出て、最初東に進んで最初の道を北に上がります。そしたら大手筋商店街に出ました。噂では聞いてましたが、すごく賑やかな商店街ですね大手筋は・・・そんな事を思い浮かべてたら5分ぐらいで“大手筋の妙見さん”で親しまれてる本教寺に着きました。
商店が建ち並ぶ中、少し奥まった所に鉄扉があって、その先の露地を進んだ所に山門がありました。
事前に地図を見て大手筋商店街から入るのは分かってましたが、アーケードもあって、お昼時だったこともあって人出の多いこと・・・しかし、山門からお寺に来られる人は皆無でした。
この伏見界隈を散策するのに伏見観光協会の伏見散策MAPを見てたら、徳川家康の次女・督姫(とくひめ)ゆかりの寺があることを知りました。戦国歴史ファン・・・特に家康ファンの私は、それを知り是非行って見ようと・・・訪れた次第です。
督姫は、徳川家康の次女として1565年(永禄8年)生まれ。母は家康最初の側室・西郡局。19歳の時、小田原の北条氏直に輿入れするも、豊臣秀吉の小田原征伐あと1591年(天正19年)氏直が病死。1594年(文禄3年)29歳の時、当時・三河吉田城主、後の播磨姫路藩の初代藩主・池田輝政に再嫁。輝政の死後、1615年(慶長20年)姫路城内で死去、51歳でした。
山門を入った右手に「洛陽十二支妙見めぐり」の妙見宮があります。堂内は暗くて窺い知ることはできませんが、北辰妙見大菩薩が祀られてるとか。
1690年代(元禄年間)の建築のお堂は、開運厄除けとして信仰を集められています。“妙見めぐり”の札所になっているので、「朱印」はあるでしょう・・・あとから寺務所を探します。
山門を入った正面には本堂がありました。この勇壮な本堂は、1716年(享保元年)関白近衛家の堀川御殿から寄進移築されたものです。
後程、朱印をいただきましたが、本堂内には入れませんでした。由緒書きを読むと、加藤清正の木像や良正院督姫の自画像など祀られてるようですね、入りたかったです。
本教寺は、山号を福昌山(ふくしょざん)といい、159年(文禄3年)日新上人の法孫・教行院の日受上人により創建。当初は西浜堺町(伏見区)に小庵を創建しましたが、徳川家康の次女・督姫が姫路城主・池田輝政に嫁ぐことになった際に、その敷地を寄進されて現在地に移転しました。
督姫の菩提寺である良正院は、2014年の京都浄土宗寺院大公開の初年に行きました。それにしても伏見を歩くと、戦国時代の遺跡に行き当たります。益々散策が楽しくなりそです。
山門から本堂との間の石畳には鐘楼もありましたが、それよりなにより・・・ここは蚊が多い。私も女房も数カ所、蚊に刺されました。
督姫は幼少時より、豊臣秀吉に寵愛されてて、太閤秀吉の仲介によって池田輝政と輿入れ。当時秀吉から督姫が賜ったという伏見城の牡丹は、現在も境内で花を咲かせていることから、「慶長牡丹の寺」として親しまれています。(毎年4月中旬頃に開花)
ここは手水舎が無いだと思ってたら、山門の裏側に手水盤がありましたが、これは気が付かないです。
また、何処かか猫ちゃんも登場。こんなに蚊が多いところで寝てて大丈夫かなぁ・・・と近づくと・・・逃げちゃいました。
ここは“大手筋の妙見さん”として「洛陽十二支妙見巡り」の7伴目「午(南)」の寺として信仰を集めています。そのため朱印所もあったので寄りました。朱印をお願いすると住職さんが出て来られて、その場で書いていただきました。「どうして来られましたか」と聞かれたので、「徳川家康に興味があって、督姫ゆかりと聞いたからです」と答えると、「その由緒書きにも書いてあるので参考にしてください」と。督姫ゆかりで来る人は少ないでしょうね。
ちなみに、洛陽十二支妙見めぐりは以下のとおりです。
子 善行院(西陣の妙見宮)、丑 本満寺(出町の妙見宮)、寅 道入寺(修学院の妙見さん)、卯 霊鑑寺(鹿ケ谷の妙見さん)、辰 満願寺(岡崎の妙見さん)、巳 日體寺(清水の鎮宅妙見宮)、午 本教寺(伏見大手筋の妙見さん)、未 法華寺(未の方の妙見さん)、申 慈雲寺(島原の妙見さん)、酉 常寂光寺(小倉山の妙見宮)、戌 三宝寺(鳴滝の妙見宮)、亥 圓成寺(鷹峯の岩戸妙見宮)
ここを出たのが12時37分でした。次の所は、ここから近いのですが・・・それなら13時からのが間に合わない・・・ので、再びキザクラカッパカントリーの前を通って、本日2度目の京都浄土宗寺院大公開の寺院に向かいました。
【本教寺 朱印所】
商店が建ち並ぶ中、少し奥まった所に鉄扉があって、その先の露地を進んだ所に山門がありました。
事前に地図を見て大手筋商店街から入るのは分かってましたが、アーケードもあって、お昼時だったこともあって人出の多いこと・・・しかし、山門からお寺に来られる人は皆無でした。
この伏見界隈を散策するのに伏見観光協会の伏見散策MAPを見てたら、徳川家康の次女・督姫(とくひめ)ゆかりの寺があることを知りました。戦国歴史ファン・・・特に家康ファンの私は、それを知り是非行って見ようと・・・訪れた次第です。
督姫は、徳川家康の次女として1565年(永禄8年)生まれ。母は家康最初の側室・西郡局。19歳の時、小田原の北条氏直に輿入れするも、豊臣秀吉の小田原征伐あと1591年(天正19年)氏直が病死。1594年(文禄3年)29歳の時、当時・三河吉田城主、後の播磨姫路藩の初代藩主・池田輝政に再嫁。輝政の死後、1615年(慶長20年)姫路城内で死去、51歳でした。
山門を入った右手に「洛陽十二支妙見めぐり」の妙見宮があります。堂内は暗くて窺い知ることはできませんが、北辰妙見大菩薩が祀られてるとか。
1690年代(元禄年間)の建築のお堂は、開運厄除けとして信仰を集められています。“妙見めぐり”の札所になっているので、「朱印」はあるでしょう・・・あとから寺務所を探します。
山門を入った正面には本堂がありました。この勇壮な本堂は、1716年(享保元年)関白近衛家の堀川御殿から寄進移築されたものです。
後程、朱印をいただきましたが、本堂内には入れませんでした。由緒書きを読むと、加藤清正の木像や良正院督姫の自画像など祀られてるようですね、入りたかったです。
本教寺は、山号を福昌山(ふくしょざん)といい、159年(文禄3年)日新上人の法孫・教行院の日受上人により創建。当初は西浜堺町(伏見区)に小庵を創建しましたが、徳川家康の次女・督姫が姫路城主・池田輝政に嫁ぐことになった際に、その敷地を寄進されて現在地に移転しました。
督姫の菩提寺である良正院は、2014年の京都浄土宗寺院大公開の初年に行きました。それにしても伏見を歩くと、戦国時代の遺跡に行き当たります。益々散策が楽しくなりそです。
山門から本堂との間の石畳には鐘楼もありましたが、それよりなにより・・・ここは蚊が多い。私も女房も数カ所、蚊に刺されました。
督姫は幼少時より、豊臣秀吉に寵愛されてて、太閤秀吉の仲介によって池田輝政と輿入れ。当時秀吉から督姫が賜ったという伏見城の牡丹は、現在も境内で花を咲かせていることから、「慶長牡丹の寺」として親しまれています。(毎年4月中旬頃に開花)
ここは手水舎が無いだと思ってたら、山門の裏側に手水盤がありましたが、これは気が付かないです。
また、何処かか猫ちゃんも登場。こんなに蚊が多いところで寝てて大丈夫かなぁ・・・と近づくと・・・逃げちゃいました。
ここは“大手筋の妙見さん”として「洛陽十二支妙見巡り」の7伴目「午(南)」の寺として信仰を集めています。そのため朱印所もあったので寄りました。朱印をお願いすると住職さんが出て来られて、その場で書いていただきました。「どうして来られましたか」と聞かれたので、「徳川家康に興味があって、督姫ゆかりと聞いたからです」と答えると、「その由緒書きにも書いてあるので参考にしてください」と。督姫ゆかりで来る人は少ないでしょうね。
ちなみに、洛陽十二支妙見めぐりは以下のとおりです。
子 善行院(西陣の妙見宮)、丑 本満寺(出町の妙見宮)、寅 道入寺(修学院の妙見さん)、卯 霊鑑寺(鹿ケ谷の妙見さん)、辰 満願寺(岡崎の妙見さん)、巳 日體寺(清水の鎮宅妙見宮)、午 本教寺(伏見大手筋の妙見さん)、未 法華寺(未の方の妙見さん)、申 慈雲寺(島原の妙見さん)、酉 常寂光寺(小倉山の妙見宮)、戌 三宝寺(鳴滝の妙見宮)、亥 圓成寺(鷹峯の岩戸妙見宮)
ここを出たのが12時37分でした。次の所は、ここから近いのですが・・・それなら13時からのが間に合わない・・・ので、再びキザクラカッパカントリーの前を通って、本日2度目の京都浄土宗寺院大公開の寺院に向かいました。
【本教寺 朱印所】