葵祭の斎王行列発祥の地「櫟谷七野神社」へ
西陣の住宅街の中に櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)があります。千本寺之内にある浄光寺を訪れた時に行きました。
ここは地図を見ていて偶然見つけました。それで浄光寺から寺之内通りを東へ東へ進み、通り名もない細い道をスマホの地図で確認しながら歩いて行くと、ようやく鳥居が見えてきました。
ここが神社の入口かなぁ・・・と思うぐらい狭い道を進み階段を上がると、人一人通れるぐらいの通路を通ると本殿に出ました。
西側の鳥居から境内に入りましたが、本来は南側の鳥居から入るんですね。地図だけは分からなかったです。帰りは南側の鳥居から出ましたが・・・。
境内は駐車場でした。どの神社でも最近は多いですよね。やっぱりここから入るべきでした・・・西側は狭すぎます。
鳥居をくぐると左側に小さな祠があって、境内社でしょうど、ここでは分かりません。
しかし、本殿近くまでくると・・・御神木の“クロガネモチ”で樹齢500年もあるそうです。心願成就のパワーをいただけるみたいですけど・・・。
その御神木の“クロガネモチ”の直ぐ横に社務所はありましたが、どう見ても人が居そうでは無いので、そのままスルーしました。
本殿は数段の階段を上がった所にあります。先程、あの本殿左側の通路路から出てきたんです。
手水舎は探したけど無かったですね、坂ほど降りた階段を再び上がろうとしたら、階段左横に気になる物が・・・。
「パンフレット 1部 100円 料金はお賽銭箱に」と書いてありました。プラスチックケースを開けるとカラーの綺麗な由緒書きがあって、あとでお賽銭と一緒に入れて置きました。
それより、書き置きの朱印は・・・いくら探しても無かったです。それと石標には「春日神社」の文字が・・・奈良の春日大社か西院 春日神社の関係かなぁ・・・と。
その“春日神社”の関係でしょうか、本殿への階段の右側には「鹿の銅像」がありました・・・ということは・・・奈良の春日大社・・・のことでしょうか
平安時代の文徳天皇(第55代天皇)が850年(嘉祥3年)皇后藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、後の清和天皇(第56代天皇)を出産されたと伝わっています。社名の“櫟谷”は、その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)であったためと、“七野”は、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野や北野・平野などの“七野”の惣社として祀られたことの由来となっています。
階段を再び上がって、本殿前でお参りしました。手前が拝殿で、ガラス戸の奥に本殿が見えていました。
御祭神は、高沙大神・春日大神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)他19柱。例祭日は、10月16日と由緒書きには書いてありました。
その本殿の右側に、「賀茂斎院跡」と書かれた石碑がありました。葵祭の斎王(代)行列発祥の地でもあるんてすね。
この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、“紫野斎院”とも称された。
最後に、末社の稲荷社です。上記石碑の対面にあって、本殿の左側にありました。由緒書きにも書いてなくて、駒札もありませんが、狛狐が安置されてたので間違いないでしょう。
朱印が無かったのは残念でしたが、ここから再び車を止めてる千本寺之内に戻りました。《参拝日 2016年(平成28年)10月14日》
【櫟谷七野神社 南鳥居】
ここは地図を見ていて偶然見つけました。それで浄光寺から寺之内通りを東へ東へ進み、通り名もない細い道をスマホの地図で確認しながら歩いて行くと、ようやく鳥居が見えてきました。
ここが神社の入口かなぁ・・・と思うぐらい狭い道を進み階段を上がると、人一人通れるぐらいの通路を通ると本殿に出ました。
西側の鳥居から境内に入りましたが、本来は南側の鳥居から入るんですね。地図だけは分からなかったです。帰りは南側の鳥居から出ましたが・・・。
境内は駐車場でした。どの神社でも最近は多いですよね。やっぱりここから入るべきでした・・・西側は狭すぎます。
鳥居をくぐると左側に小さな祠があって、境内社でしょうど、ここでは分かりません。
しかし、本殿近くまでくると・・・御神木の“クロガネモチ”で樹齢500年もあるそうです。心願成就のパワーをいただけるみたいですけど・・・。
その御神木の“クロガネモチ”の直ぐ横に社務所はありましたが、どう見ても人が居そうでは無いので、そのままスルーしました。
本殿は数段の階段を上がった所にあります。先程、あの本殿左側の通路路から出てきたんです。
手水舎は探したけど無かったですね、坂ほど降りた階段を再び上がろうとしたら、階段左横に気になる物が・・・。
「パンフレット 1部 100円 料金はお賽銭箱に」と書いてありました。プラスチックケースを開けるとカラーの綺麗な由緒書きがあって、あとでお賽銭と一緒に入れて置きました。
それより、書き置きの朱印は・・・いくら探しても無かったです。それと石標には「春日神社」の文字が・・・奈良の春日大社か西院 春日神社の関係かなぁ・・・と。
その“春日神社”の関係でしょうか、本殿への階段の右側には「鹿の銅像」がありました・・・ということは・・・奈良の春日大社・・・のことでしょうか
平安時代の文徳天皇(第55代天皇)が850年(嘉祥3年)皇后藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、後の清和天皇(第56代天皇)を出産されたと伝わっています。社名の“櫟谷”は、その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)であったためと、“七野”は、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野や北野・平野などの“七野”の惣社として祀られたことの由来となっています。
階段を再び上がって、本殿前でお参りしました。手前が拝殿で、ガラス戸の奥に本殿が見えていました。
御祭神は、高沙大神・春日大神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)他19柱。例祭日は、10月16日と由緒書きには書いてありました。
その本殿の右側に、「賀茂斎院跡」と書かれた石碑がありました。葵祭の斎王(代)行列発祥の地でもあるんてすね。
この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、“紫野斎院”とも称された。
最後に、末社の稲荷社です。上記石碑の対面にあって、本殿の左側にありました。由緒書きにも書いてなくて、駒札もありませんが、狛狐が安置されてたので間違いないでしょう。
朱印が無かったのは残念でしたが、ここから再び車を止めてる千本寺之内に戻りました。《参拝日 2016年(平成28年)10月14日》
【櫟谷七野神社 南鳥居】