前田利家が伏見城屋敷内で手厚く祀った桃山天満宮へ
御香宮神社の境内に桃山天満宮があって学問の神様で知られる菅原道真が祀られています。しかし、桃山天満宮は御香宮神社の摂末社ではありません。1966年(昭和44年)に現在地に遷されて鎮座しています。
場所は御香宮の表門入って直ぐの右手に桃山天満宮の鳥居があって、少し奥まった所にあります。
ここに来た目的は朱印です。過去2回とも社務所が閉まって貰えませんでした。そして・・・今日は“松の内”だし開いてるだろう・・・と・・・思いきや今日も閉まってました・・・。しかし・・・よくよく見ると「桃山天満宮の朱印は御香宮の社務所で」と書いてありました。それで先日アップした“京都十六社朱印巡り”の朱印と一緒に頂いたわけです。
鳥居を入って右手に社務所(多分・・・いつも不在)があってその手前に水盤がありました。
“七草粥の振る舞い”があって境内は大変賑やかでしたが、ここには数名の方が参拝に来られてましたし、受験生の姿も見受けられました。
鳥居をくぐると拝殿、幤殿、そして奥に本殿があって参拝します。御祭神は前途したとおり菅原道真です。学問の神様だけに若い子も参拝に来られてました。
先程御香宮神社の社務所にて朱印をいただいた時に由緒書きも付いてました。それによると・・・。
1394年(応永元年)室町時代。御香宮の東に木幡山の辺りに蔵光庵(ぞうこうあん)と言う名の禅宗寺院がありました。このお寺で前の学問に励んでいた伴僧・月渓(げっけい)の夢枕に、唐の服装をして手に梅の小枝を持っている人が立って「あなたの学問を守護しましょう」と仰せられ、姿を消されました。その後、月渓は同門の僧から天満天神(菅原道真)の画を贈られ、見ると夢枕に出て来た神と同じ姿が描かれてました。この話を聞いた蔵光庵の庵主はいたく感激し蔵光庵の守護神として天満天神(菅原道真)を祀ったのが始まりといわれています。後に豊臣秀吉の伏見城築城時に蔵光庵は移築されますが、この場所に屋敷を構えたのが初代加賀藩主・前田利家で、利家は菅原道真の子孫と称し同宮を手厚く祀りました。そして伏見城は廃城となり荒廃していきます。1841年(天保12年)には現在の近鉄桃山御陵前駅近くに移転され、その後1966年(昭和44年)現在地に遷されて現在に至っています。
天満宮でのお馴染みの神牛もありました。撫でて御利益を得られた良いでしょうけど・・・北野天満宮などの神牛とは少し姿が違って見えました。先程、伏見城廃城のあと荒廃したと・・・その続きがあって・・・。
現在の社殿は天保年間に、伏見の街に移そうと大工・阪田岩次郎が約20年の歳月をかけて造営したものです。その岩次郎は、この造営に使った大工道具を奉納しました。その江戸時代の大工道具を現在、神戸の竹中大工道具館にて展示されています。そのあと昭和の時代になって伏見の区画整理のため現在の地に遷宮された経緯がありました。
次ぎに狭い境内を散策しますが、境内北側に鳥居があるこを知りました。ただ“竹田街道の車石・車道”が鳥居の右手にあったんですが・・・撮り損ねました。
鳥居の前には「天満宮社」の社標もありました。ここから入られる方も見かけました。それにして今日は天気が・・・良いです。
境内にひっそりと佇む歌碑がありました。江戸中期の俳人向井去来の“梅の香に のっと日の出る 山路かな”と・・・天神さんでお馴染みの梅の花・・・ですね。
ここで境内末社巡りです・・・すごく狭い境内ですが・・・北門を入って左手・・・本殿の左奥にはあった祠ですが、御祭神は分かりませんでした。
また奥の碑文ですが、読み肉文字を読むと・・・この地に神宮寺の大善院・正徳院・金蔵院があったようで、明治時代の“悪法”である廃仏毀釈によって無くなった云々と書いてあるように読み取れました。最後の文字で御香宮神社の宮司さんが書かれたようですが・・・。
境内の北側に三社あって扁額から神社名が分かりました。右から「紅梅殿」「白太夫社(しろだゆうしゃ)」「老松社(おいまつしゃ)」です。
御祭神は、北野天満宮の摂社を参照にしました。紅梅殿は分かりません。白太夫社の祭神は度会晴彦翁。ご神徳は子授け・安産の神。老松社の祭神は島田忠興翁。ご神徳は植林・林業の神。
最後は「厳島社」で、御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神でしょう・・・多分。
鳥居を入って左手には大きな石がゴロゴロ・・・「伏見城跡残石」と書いてありましたが、崩れて“危険”なため立入禁止です。
碑文は、1902年(明治35年)菅原道真千年祭にあたり,1841年(天保12年)の再興の経緯を記して記念としたものだそうです。
かつての伏見城は現在の明治天皇陵あたりだそうですね、この辺りを散策すると伏見城の遺構と言われる建造物を見つけることができます。最後に「大杉大明神」です。御香宮神社の末社かも知れません。
こちらには手水鉢もありました。御神木だったんでしょうか・・・わかりませんが・・・。次回は中根金作が復元した小堀遠州の庭を見るため再訪します。
ここで時間を取り過ぎてしまい・・・時計の入りはもうすぐ11時30分になってて慌てて予約している魚三楼に行った次第です。
【桃山天満宮 本殿】
場所は御香宮の表門入って直ぐの右手に桃山天満宮の鳥居があって、少し奥まった所にあります。
ここに来た目的は朱印です。過去2回とも社務所が閉まって貰えませんでした。そして・・・今日は“松の内”だし開いてるだろう・・・と・・・思いきや今日も閉まってました・・・。しかし・・・よくよく見ると「桃山天満宮の朱印は御香宮の社務所で」と書いてありました。それで先日アップした“京都十六社朱印巡り”の朱印と一緒に頂いたわけです。
鳥居を入って右手に社務所(多分・・・いつも不在)があってその手前に水盤がありました。
“七草粥の振る舞い”があって境内は大変賑やかでしたが、ここには数名の方が参拝に来られてましたし、受験生の姿も見受けられました。
鳥居をくぐると拝殿、幤殿、そして奥に本殿があって参拝します。御祭神は前途したとおり菅原道真です。学問の神様だけに若い子も参拝に来られてました。
先程御香宮神社の社務所にて朱印をいただいた時に由緒書きも付いてました。それによると・・・。
1394年(応永元年)室町時代。御香宮の東に木幡山の辺りに蔵光庵(ぞうこうあん)と言う名の禅宗寺院がありました。このお寺で前の学問に励んでいた伴僧・月渓(げっけい)の夢枕に、唐の服装をして手に梅の小枝を持っている人が立って「あなたの学問を守護しましょう」と仰せられ、姿を消されました。その後、月渓は同門の僧から天満天神(菅原道真)の画を贈られ、見ると夢枕に出て来た神と同じ姿が描かれてました。この話を聞いた蔵光庵の庵主はいたく感激し蔵光庵の守護神として天満天神(菅原道真)を祀ったのが始まりといわれています。後に豊臣秀吉の伏見城築城時に蔵光庵は移築されますが、この場所に屋敷を構えたのが初代加賀藩主・前田利家で、利家は菅原道真の子孫と称し同宮を手厚く祀りました。そして伏見城は廃城となり荒廃していきます。1841年(天保12年)には現在の近鉄桃山御陵前駅近くに移転され、その後1966年(昭和44年)現在地に遷されて現在に至っています。
天満宮でのお馴染みの神牛もありました。撫でて御利益を得られた良いでしょうけど・・・北野天満宮などの神牛とは少し姿が違って見えました。先程、伏見城廃城のあと荒廃したと・・・その続きがあって・・・。
現在の社殿は天保年間に、伏見の街に移そうと大工・阪田岩次郎が約20年の歳月をかけて造営したものです。その岩次郎は、この造営に使った大工道具を奉納しました。その江戸時代の大工道具を現在、神戸の竹中大工道具館にて展示されています。そのあと昭和の時代になって伏見の区画整理のため現在の地に遷宮された経緯がありました。
次ぎに狭い境内を散策しますが、境内北側に鳥居があるこを知りました。ただ“竹田街道の車石・車道”が鳥居の右手にあったんですが・・・撮り損ねました。
鳥居の前には「天満宮社」の社標もありました。ここから入られる方も見かけました。それにして今日は天気が・・・良いです。
境内にひっそりと佇む歌碑がありました。江戸中期の俳人向井去来の“梅の香に のっと日の出る 山路かな”と・・・天神さんでお馴染みの梅の花・・・ですね。
ここで境内末社巡りです・・・すごく狭い境内ですが・・・北門を入って左手・・・本殿の左奥にはあった祠ですが、御祭神は分かりませんでした。
また奥の碑文ですが、読み肉文字を読むと・・・この地に神宮寺の大善院・正徳院・金蔵院があったようで、明治時代の“悪法”である廃仏毀釈によって無くなった云々と書いてあるように読み取れました。最後の文字で御香宮神社の宮司さんが書かれたようですが・・・。
境内の北側に三社あって扁額から神社名が分かりました。右から「紅梅殿」「白太夫社(しろだゆうしゃ)」「老松社(おいまつしゃ)」です。
御祭神は、北野天満宮の摂社を参照にしました。紅梅殿は分かりません。白太夫社の祭神は度会晴彦翁。ご神徳は子授け・安産の神。老松社の祭神は島田忠興翁。ご神徳は植林・林業の神。
最後は「厳島社」で、御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神でしょう・・・多分。
鳥居を入って左手には大きな石がゴロゴロ・・・「伏見城跡残石」と書いてありましたが、崩れて“危険”なため立入禁止です。
碑文は、1902年(明治35年)菅原道真千年祭にあたり,1841年(天保12年)の再興の経緯を記して記念としたものだそうです。
かつての伏見城は現在の明治天皇陵あたりだそうですね、この辺りを散策すると伏見城の遺構と言われる建造物を見つけることができます。最後に「大杉大明神」です。御香宮神社の末社かも知れません。
こちらには手水鉢もありました。御神木だったんでしょうか・・・わかりませんが・・・。次回は中根金作が復元した小堀遠州の庭を見るため再訪します。
ここで時間を取り過ぎてしまい・・・時計の入りはもうすぐ11時30分になってて慌てて予約している魚三楼に行った次第です。
【桃山天満宮 本殿】