日本で唯一の商売繁盛の神社 繁昌神社へ
新玉津嶋神社を出て室町通りを北上し高辻通りに出ます。そしたら高辻通りに面して北側に鳥居が見えています。この神社が本日、二つ目の目的地である繁昌神社(はんじょうじんじゃ)です。(一つ目は市比賣神社)
「繁昌宮」と書かれた扁額が架かる石鳥居をくぐると、想像してた以上に境内は狭いです。
繁昌神社の祭神は、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たきづひめのみこと)の三女神で、海上交通の神様として商品流通の守護から「市の神」として信仰されていました。江戸時代には、功徳院と称してた真言宗の寺院で僧侶が管理してましたが、明治の神仏分離により神社だけ残ることになりました。繁昌神社はもと「班女ノ社」とも、「半女ノ社」とも称し、牛頭(ごず)天王の妃・針才女(はりさいじょ)を祀り、それが転訛し班女になったと伝わります。また、「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」巻三の中に、「長門前司の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」記されています。この塚が繁昌神社の北西方向に現在も残る「班女塚」だと伝わります。後世の書物に「斑女と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願する」と書かれ、縁結びの神として詣でらる他、市杵島姫命は仏教の「辨財天」と解されることから、商売繁盛・諸芸上達の御利益があるという。(駒札より)
私はサラリーマンですので商売繁盛を祈願したことはありませんが、実家は自営業でしたので、年頭の初詣は毎年、伏見稲荷大社に参拝してました。しかし・・・ここは知らなかったですね。
土曜日の早朝に来ましたので、誰も居ないと思いきや、お一人出て来られたのには驚きでした・・・それも若い女性で・・・。
入ると右手に苔生した手水鉢があって、それを見て歴史を感じたところ・・・その手前にあるのが織部灯籠でしょう直ぐに分かりました。
狭い狭い境内で正面が本殿。早々に参拝を済ませました。門前にあった「駒札」を読んで、かつて寺の“辨財天”だったようでした。
ここに来たのは「朱印」が目的でした。実は次ぎに行く神社の周辺を探してて、ここを見つけたんです。しかも“朱印”もあるようで・・・そこで社務所を見ると・・・。
社務所は不在ですが、“書き置き”の“朱印”がありました。書いていただきたかったけど、これでも充分です。300円をお賽銭箱に入れておきました。
ただ由緒書きが無かったです。くまなく探しましたがありませんでした。それで冒頭の由緒を「駒札」から写した訳です。なお、この辺りの町名は京都市下京区繁昌町と言いますが、18世紀の頃から繁昌町と呼ばれるようになったそうです。
ここの社務所が開くであろう9時になるのを「マクドナルド烏丸五条店」で待っていたんです。ただ社務所は不在でしたけど・・・。ここには8時58分に入り、9時1分に出ていきました。滞在・・・3分でしたが、これでも充分です。次はこのまま高辻通りを西に進めば直ぐの所です。
【繁昌神社】
「繁昌宮」と書かれた扁額が架かる石鳥居をくぐると、想像してた以上に境内は狭いです。
繁昌神社の祭神は、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たきづひめのみこと)の三女神で、海上交通の神様として商品流通の守護から「市の神」として信仰されていました。江戸時代には、功徳院と称してた真言宗の寺院で僧侶が管理してましたが、明治の神仏分離により神社だけ残ることになりました。繁昌神社はもと「班女ノ社」とも、「半女ノ社」とも称し、牛頭(ごず)天王の妃・針才女(はりさいじょ)を祀り、それが転訛し班女になったと伝わります。また、「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」巻三の中に、「長門前司の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」記されています。この塚が繁昌神社の北西方向に現在も残る「班女塚」だと伝わります。後世の書物に「斑女と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願する」と書かれ、縁結びの神として詣でらる他、市杵島姫命は仏教の「辨財天」と解されることから、商売繁盛・諸芸上達の御利益があるという。(駒札より)
私はサラリーマンですので商売繁盛を祈願したことはありませんが、実家は自営業でしたので、年頭の初詣は毎年、伏見稲荷大社に参拝してました。しかし・・・ここは知らなかったですね。
土曜日の早朝に来ましたので、誰も居ないと思いきや、お一人出て来られたのには驚きでした・・・それも若い女性で・・・。
入ると右手に苔生した手水鉢があって、それを見て歴史を感じたところ・・・その手前にあるのが織部灯籠でしょう直ぐに分かりました。
狭い狭い境内で正面が本殿。早々に参拝を済ませました。門前にあった「駒札」を読んで、かつて寺の“辨財天”だったようでした。
ここに来たのは「朱印」が目的でした。実は次ぎに行く神社の周辺を探してて、ここを見つけたんです。しかも“朱印”もあるようで・・・そこで社務所を見ると・・・。
社務所は不在ですが、“書き置き”の“朱印”がありました。書いていただきたかったけど、これでも充分です。300円をお賽銭箱に入れておきました。
ただ由緒書きが無かったです。くまなく探しましたがありませんでした。それで冒頭の由緒を「駒札」から写した訳です。なお、この辺りの町名は京都市下京区繁昌町と言いますが、18世紀の頃から繁昌町と呼ばれるようになったそうです。
ここの社務所が開くであろう9時になるのを「マクドナルド烏丸五条店」で待っていたんです。ただ社務所は不在でしたけど・・・。ここには8時58分に入り、9時1分に出ていきました。滞在・・・3分でしたが、これでも充分です。次はこのまま高辻通りを西に進めば直ぐの所です。
【繁昌神社】