2017年(平成29年) 京都十六社朱印めぐり 今宮神社へ
1月7日(土)から「京の冬の旅」が始まりました。今回も何カ所か回る予定にしていたところ、13日(金)は通院日で病院の混み具合によりますが、午前中から時間が空くので、その日に行くことにしてましたが・・・
。
その翌日の土日に“京都十六社朱印巡り”の残りを回る計画を立てていました。しかし、14日から15日にかけて数年に一度の大寒波襲来
の天気予報が出てました。京都も大雪になるようなことを言ってたので、「京の冬の旅」を諦め“京都十六社朱印巡り”に行くことに急遽予定を変更した次第です
。
朝の冷え込んだ空気に手が痺れる中、7時30分に病院に入って(それでも3番目でした)、9時30分には診察と会計、そして薬も貰い終え病院の駐車場を車で、今日最初の訪問地“京都十六社朱印巡り”の今宮神社神社に向かって出発しました
。
着いたのが10時前・・・ほぼ狙い通りです
。門前にある“あぶり餅”の店は開店準備されてました。なお、今宮神社神社の駐車場は100円で、“あぶり餅”の店を利用すると“無料”になります
。
昨年は昼から来たので“あぶり餅”の店は行列が出来てました。今日は、開店直ぐに入る予定で・・・狙い通りの意味は・・・それでした
。
昨年と同じく東門から境内に入りました。9時40分頃でしたが団体さんも居ないので、今年は境内を散策したいです。
東門をくぐり境内に入ると朱塗りの神橋があって、渡ります。約1年振りに来ましたが、その日は母が腰の骨を圧迫骨折した日で・・・この時は単なる打撲程度だと思ってました・・・。
そんな事を思い出しましたが、母も今はすっかりとは言い切れませんが良くなりました。この神橋は元禄の遺構だそうで、渡ると左手には“お玉の井”と呼ばれている手水舎がありました。
1694年(元禄7年)に桂昌院によって寄進されたもので、長らく枯渇していたそうですが、水盤を東向きから北向きに復元した時に、水の流れが復活したそうです。
最近は手水舎で手と口を清めるのが定着したようですね、素通りする人は少なくなりました。冷たい水で赤くなった手を摩りながら本殿に向かいますが、広い境内見渡しても・・・空いてるようです
。
昨年は、母の怪我のこともあって、写真だけ撮って直ぐに帰ったので・・・それより、この囲い・・・何だろう・・・
。
その先を進むと拝殿がありますが、その前に狛犬が並んで安置されています。そして・・・その下を見ると・・・苦しそうに天邪鬼(あまのじゃく)が台座を支えてました。
先に拝殿に寄りました。神職さんが正月飾りを後片付されてましたが、その隙に撮りました
。その拝殿の内側を覗くと三十六歌仙の歌が掲げられていました。
何気なく上を見るとありました。昨年は気がつかなかったことです。こうして落ち着いて参拝できるも良いですよね。
ここで社務所を見ると、混んでました
。それならと(当たり前の話ですが)本殿に向かい参拝しました。ここでは本社と摂社の疫社が並んで建っています。
本社の御祭神は、中御座:大己貴命(おおなむちのみこと)、東御座:事代主命(ことしろぬしのみこと)、西御座:奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)。疫社が素盞鳴命(すさのをのみこと)で、御利益が本社が健康長寿・良縁開運。疫社が厄除・健康長寿でした。
一条天皇(第66代天皇)の時代、平安以前より疫神を祀るこの地に、994年(正暦5年)以前から祀られてた疫神を船岡山に遷し奉って安置し、悪疫退散を祈ったのが創祀といわれています。京都三大奇祭「やすらい祭」で知られる鎮疫・健康・長寿の社、西陣の氏神として人々の尊崇を集めており、近年は開運良縁を求めて多くの人が集まる神社です。
ここで今宮神社を語る時、外せない境内社があって、昨年も並びました・・・阿呆賢(あほかし)さんです。今年は私の前に先客がお一人・・・少し待って「神占石(かみうちいし)」を持ち上げると・・・。
今宮神社の“奇石”と呼ばれるもので、持ち上げた感想は・・・“重かった”ように感ずるし“軽かった”ようにも感じました・・・どっち
・・・答えは・・・でした
。
ここはテレビでも取り上げられるので人気がありますね。続いて昨年も回りましたが末社巡りです。
昨年と同じく織姫社から。名前のとおり七夕伝説の織姫彦星にゆかりがあるとか。御祭神は、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、西陣織物の祖神とされているそうです。
次が八社で、左から(南側から)諏訪社・鏡作社・香取社・熱田社・八幡社・住吉社・事代主命社・大國主命社の順に並んでて、お一人一社ずつ鈴を鳴らしてお参りされてました。
上から八幡社、次が平安京の守護神・大将軍社で元は大徳寺の門前に祀られてました。最後が日吉社で、奇祭“やすらい祭”はここでも踊られるとか。
その向かいには、少しだけ小高い所にある紫野稲荷社と織田稲荷社です。
稲荷社は、伏見稲荷大社と同じ御祭神の、宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)。織田稲荷社は、墓所寺町 阿弥陀寺の移転跡地、西陣元伊佐町から1987年(昭和62年)に遷し祀られました。
次が拝殿もある若宮社で“賀茂斎院“ゆかりの社だと言われています。しかし、昨年訪れた櫟谷七野神社で知った“賀茂斎院“の名が出てくるとは・・・。
御祭神は、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。今宮祭の牛車で巡行するお社はここだそうです。
今宮神社の末社で昨年、時間が無かったから行かなかった月読社に向かいます。この先・・・何があるか・・・実は楽しみにしていました。
石鳥居があって、石畳の参道を階段では無く、少しづつ上がって行くと途中(右手に)・・・赤鳥居があって・・・。
今宮神社を守護する地主神として地主稲荷社がありました。御祭神として倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が祀られていました。
多分、今宮神社で一番高い所にあるでしょう月読社です。伊勢神宮の別宮月読宮(つきよみのみや)の御祭神、月読尊(つきよみのみこと)が祀られています。
ここで大正時代創建の歴史が浅い南楼門から外に出てみます。空いてる間に写真を撮りたかったんですが、ここで神職さんが、ここでも正月飾りの撤去をされ初めて・・・。
楼門右端に飾ってあって正月の“絵馬”。この写真を撮った後に撤去されてしまいました。本当にラッキーです
。
“玉の輿”の語源でもある“お玉さん“は、今宮神社ゆかりの神社でもあります。先程行った紫野稲荷社と織田稲荷社の前に「桂昌院レリーフ」がありました。
江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院(,お玉の方)は、西陣の八百屋の次女として生まれ名を“玉”と言いました。後に公家の二条家に出入りの本庄宗利の娘ととなり関白家の高司孝子に仕えていたが、やがて孝子が江戸幕府3代将軍・家光に入嫁する伴い江戸城に入り大奥で仕えていた所、春日局に認められ家光の側室となり、後に綱吉の生母となるわけです。晩年には従一位に叙さられ79歳で没しました。桂昌院は当時、西陣の産土の神を祀る今宮社が荒れ放題になっているのを嘆き、1694年(元禄7年)から社殿を造営するのを寄進。長らく途絶えていた“やすらい祭”も復活させました。従一位の高位まで上り詰めた事から「玉の輿」の言葉の起源ともいわれています。
月読社へ上がる手前左手にあるのが絵馬舎です。ところで今宮神社で重要文化財の建物を探してもありませんでした。本社殿も1896年(明治29年)に焼失し、1902年(明治35年)の再建で、まだ歴史が浅いからでしょうね。
特に急がなかったので、空いた頃合いを見て社務所にて“京都十六社朱印巡り”の朱印をいただきました。
社務所前には手水鉢や石碑もありましたが・・・。昨年は、ここで満願を達成し記念品をもらいました。今年はあと3箇所です
。
時計の針は、ようやく10時を回りました。ここで20分も費やしたのは10時を待っていたからです。もうお分かりでしょうけど
。そのため東門を目指して歩いていると・・・。
昨年も訪れた宗像社がひっそりと佇んでいます。御祭神は宗像三女神でしょうけど・・・この社殿の台座には“鯰の彫り物”が駒札に書いてあるのに・・・今年も撮り損ねました
。
【2018年(平成30年)1月7日 追記】 台座の“鯰の彫り物”今年は、忘れず撮りました。それで追記しておきます
。
境内の最後の最後は、東門の手前にある神馬舎です。中には“白馬
”も居ました
。
これで今宮神社をコンプリートできたと思い帰りましたが例の“鯰”を忘れました
。それより“やすらい祭”見てみたいですね。そうこう思いながら東門を出て、今日の目的の店に行きました。
【今宮神社 本社】


その翌日の土日に“京都十六社朱印巡り”の残りを回る計画を立てていました。しかし、14日から15日にかけて数年に一度の大寒波襲来


朝の冷え込んだ空気に手が痺れる中、7時30分に病院に入って(それでも3番目でした)、9時30分には診察と会計、そして薬も貰い終え病院の駐車場を車で、今日最初の訪問地“京都十六社朱印巡り”の今宮神社神社に向かって出発しました

着いたのが10時前・・・ほぼ狙い通りです


昨年は昼から来たので“あぶり餅”の店は行列が出来てました。今日は、開店直ぐに入る予定で・・・狙い通りの意味は・・・それでした

昨年と同じく東門から境内に入りました。9時40分頃でしたが団体さんも居ないので、今年は境内を散策したいです。
東門をくぐり境内に入ると朱塗りの神橋があって、渡ります。約1年振りに来ましたが、その日は母が腰の骨を圧迫骨折した日で・・・この時は単なる打撲程度だと思ってました・・・。
そんな事を思い出しましたが、母も今はすっかりとは言い切れませんが良くなりました。この神橋は元禄の遺構だそうで、渡ると左手には“お玉の井”と呼ばれている手水舎がありました。
1694年(元禄7年)に桂昌院によって寄進されたもので、長らく枯渇していたそうですが、水盤を東向きから北向きに復元した時に、水の流れが復活したそうです。
最近は手水舎で手と口を清めるのが定着したようですね、素通りする人は少なくなりました。冷たい水で赤くなった手を摩りながら本殿に向かいますが、広い境内見渡しても・・・空いてるようです

昨年は、母の怪我のこともあって、写真だけ撮って直ぐに帰ったので・・・それより、この囲い・・・何だろう・・・

その先を進むと拝殿がありますが、その前に狛犬が並んで安置されています。そして・・・その下を見ると・・・苦しそうに天邪鬼(あまのじゃく)が台座を支えてました。
先に拝殿に寄りました。神職さんが正月飾りを後片付されてましたが、その隙に撮りました

何気なく上を見るとありました。昨年は気がつかなかったことです。こうして落ち着いて参拝できるも良いですよね。
ここで社務所を見ると、混んでました

本社の御祭神は、中御座:大己貴命(おおなむちのみこと)、東御座:事代主命(ことしろぬしのみこと)、西御座:奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)。疫社が素盞鳴命(すさのをのみこと)で、御利益が本社が健康長寿・良縁開運。疫社が厄除・健康長寿でした。
一条天皇(第66代天皇)の時代、平安以前より疫神を祀るこの地に、994年(正暦5年)以前から祀られてた疫神を船岡山に遷し奉って安置し、悪疫退散を祈ったのが創祀といわれています。京都三大奇祭「やすらい祭」で知られる鎮疫・健康・長寿の社、西陣の氏神として人々の尊崇を集めており、近年は開運良縁を求めて多くの人が集まる神社です。
ここで今宮神社を語る時、外せない境内社があって、昨年も並びました・・・阿呆賢(あほかし)さんです。今年は私の前に先客がお一人・・・少し待って「神占石(かみうちいし)」を持ち上げると・・・。
今宮神社の“奇石”と呼ばれるもので、持ち上げた感想は・・・“重かった”ように感ずるし“軽かった”ようにも感じました・・・どっち


ここはテレビでも取り上げられるので人気がありますね。続いて昨年も回りましたが末社巡りです。
昨年と同じく織姫社から。名前のとおり七夕伝説の織姫彦星にゆかりがあるとか。御祭神は、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、西陣織物の祖神とされているそうです。
次が八社で、左から(南側から)諏訪社・鏡作社・香取社・熱田社・八幡社・住吉社・事代主命社・大國主命社の順に並んでて、お一人一社ずつ鈴を鳴らしてお参りされてました。
上から八幡社、次が平安京の守護神・大将軍社で元は大徳寺の門前に祀られてました。最後が日吉社で、奇祭“やすらい祭”はここでも踊られるとか。
その向かいには、少しだけ小高い所にある紫野稲荷社と織田稲荷社です。
稲荷社は、伏見稲荷大社と同じ御祭神の、宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)。織田稲荷社は、墓所寺町 阿弥陀寺の移転跡地、西陣元伊佐町から1987年(昭和62年)に遷し祀られました。
次が拝殿もある若宮社で“賀茂斎院“ゆかりの社だと言われています。しかし、昨年訪れた櫟谷七野神社で知った“賀茂斎院“の名が出てくるとは・・・。
御祭神は、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。今宮祭の牛車で巡行するお社はここだそうです。
今宮神社の末社で昨年、時間が無かったから行かなかった月読社に向かいます。この先・・・何があるか・・・実は楽しみにしていました。
石鳥居があって、石畳の参道を階段では無く、少しづつ上がって行くと途中(右手に)・・・赤鳥居があって・・・。
今宮神社を守護する地主神として地主稲荷社がありました。御祭神として倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が祀られていました。
多分、今宮神社で一番高い所にあるでしょう月読社です。伊勢神宮の別宮月読宮(つきよみのみや)の御祭神、月読尊(つきよみのみこと)が祀られています。
ここで大正時代創建の歴史が浅い南楼門から外に出てみます。空いてる間に写真を撮りたかったんですが、ここで神職さんが、ここでも正月飾りの撤去をされ初めて・・・。
楼門右端に飾ってあって正月の“絵馬”。この写真を撮った後に撤去されてしまいました。本当にラッキーです

“玉の輿”の語源でもある“お玉さん“は、今宮神社ゆかりの神社でもあります。先程行った紫野稲荷社と織田稲荷社の前に「桂昌院レリーフ」がありました。
江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院(,お玉の方)は、西陣の八百屋の次女として生まれ名を“玉”と言いました。後に公家の二条家に出入りの本庄宗利の娘ととなり関白家の高司孝子に仕えていたが、やがて孝子が江戸幕府3代将軍・家光に入嫁する伴い江戸城に入り大奥で仕えていた所、春日局に認められ家光の側室となり、後に綱吉の生母となるわけです。晩年には従一位に叙さられ79歳で没しました。桂昌院は当時、西陣の産土の神を祀る今宮社が荒れ放題になっているのを嘆き、1694年(元禄7年)から社殿を造営するのを寄進。長らく途絶えていた“やすらい祭”も復活させました。従一位の高位まで上り詰めた事から「玉の輿」の言葉の起源ともいわれています。
月読社へ上がる手前左手にあるのが絵馬舎です。ところで今宮神社で重要文化財の建物を探してもありませんでした。本社殿も1896年(明治29年)に焼失し、1902年(明治35年)の再建で、まだ歴史が浅いからでしょうね。
特に急がなかったので、空いた頃合いを見て社務所にて“京都十六社朱印巡り”の朱印をいただきました。
社務所前には手水鉢や石碑もありましたが・・・。昨年は、ここで満願を達成し記念品をもらいました。今年はあと3箇所です

時計の針は、ようやく10時を回りました。ここで20分も費やしたのは10時を待っていたからです。もうお分かりでしょうけど

昨年も訪れた宗像社がひっそりと佇んでいます。御祭神は宗像三女神でしょうけど・・・この社殿の台座には“鯰の彫り物”が駒札に書いてあるのに・・・今年も撮り損ねました

【2018年(平成30年)1月7日 追記】 台座の“鯰の彫り物”今年は、忘れず撮りました。それで追記しておきます

境内の最後の最後は、東門の手前にある神馬舎です。中には“白馬


これで今宮神社をコンプリートできたと思い帰りましたが例の“鯰”を忘れました

【今宮神社 本社】