義経・辨慶出会いの場所 五條天神社へ
菅大臣神社の西鳥居を出て、西洞院通りに出ます。その西洞院通りを南に下がり、高辻通りを超え松原通まで行き、その松原通を西に少しだけ進むと、目的地の五條天神社があり、9時20分に着きました。
地図をみて、入口がここだと思い松原通り沿いの鳥居から境内に入ろうしたら、神門の右横に興味深い“由緒”が書いてありました。それによると・・・。
源義経こと牛若丸と辨慶の最初の出会いが五條天神社の近辺だったと言う話です。辨慶が笛を吹きつつ歩く牛若丸を見つけてその腰にある黄金の太刀を奪いにかかる。牛若丸は欄干を飛び交い、最後に辨慶は返り討ちに遭ってしまい、降参。そして辨慶は牛若丸の家来になったという ・・・有名な“五条大橋”の伝説・・・。現在の“五条大橋”は鴨川に架かっていますが、当時、五條天神社の東側に流れていた西洞院川の松原橋だといいます。豊臣秀吉によって橋が移されてから平安朝以来の「五条大橋」の名が消え東方の松並木から松原通となって現在に至ったということです。
余談ですが、私にとって松原通は縁の深い通りなんです。主に西は西大路通りから東は大宮通りにかけての話で、壬生に30年住んでたからいろいろな思い出が残っています。一つ一つ取り上げから切りが無いので思い出話は割愛します
。
境内に入ってから正門が西洞院通り沿いだと気が付きました。そのため一旦外に出て鳥居と「五條天神宮」とかかれた「社標」を撮りました。
この前が西洞院通りですので交通量は多いです。歩道から少しだけはみ出たら綺麗に撮れたかと思いますが、無理しません。一枚だけ撮って中に戻りました。そしたら左手に手水盤がありました。
この境内の南側にマンションがあって、何か工事されてました。その関係者がジロジロ見られてて・・・滅多に参拝に来られないのでしょうね、珍しがられたのかも。
その本殿は東向きに建てられてました。ここの朱印は未確認でしたので一応社務所は探しましたが・・・それらしきものは・・・ありませんでした。
御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の三柱。
794年(延暦13年)桓武天皇の平安遷都にあたり、大和国宇陀郡からから天神(あまつかみ)を勧請したのが五條天神社の始まりだと言われています。当初は「天使の宮」(天使社)と称しましたが、後鳥羽天皇時代に“五條天神社”と改めました。創社の頃は社域も広く、社殿も広社でしたが、中世以降は度々火災に見舞われ、1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)で社殿は焼失。現在の社殿は近年の再建です。御祭神の一人、少彦名命(すくなひこのみこと)が薬の神様のため古くから医薬・禁厭(まじない)の祖神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除け祈願のため参詣する人が絶えません。
それなら節分に来て見ようとは思いますが、節分の日は・・・いろいろ行きたい所が多くて・・・困ってしまいます
。それで本殿横を見てみると、まだ奥へ行けそうでしたので、行ってみることにしました。
右から辨財天社(御祭神、辨財天)、猿田彦神社(御祭神、猿田彦大神)、稲荷社(御祭神、稲荷大神)と提灯で確認しましたが・・・由緒書きがないので、多分ですが・・・
。
右から白太夫社(御祭神、渡会晴彦翁)、大國主神社、金刀比羅神社、福部神社(御祭神、十川能福)が。社殿の扁額で分かりました。
以上が本殿の裏側・・・西にあった社殿です。そして本殿の南側にもう一つ・・・筑紫天満宮と書いてありました。
詳しい事は分かりませんが、天満宮ということは御祭神は、菅原道真公でしょう、その証拠に神牛像もありました
。
本殿廻りや境内をくまなく社務所を探しましたが、それらしきものはありませんでした。諦めが早いので、ここには4分で出て行きました。五條天神社を9時24分に再び松原通に出て西に向かいます。堀川通りを渡って懐かしの松原通商店街を歩くと、中学生の時、足繁く通った“まるき製パン”で沢山のパンを買い、大きな袋を持ったまま、大宮通りを渡り、我が母校の前を通って壬生川通り渡り、さらに西に進み坊城通りを北に上がると・・・そこには我が故郷「壬生寺」があり、久し振りに特別公開されたので来て見ました。
【五條天神社】

地図をみて、入口がここだと思い松原通り沿いの鳥居から境内に入ろうしたら、神門の右横に興味深い“由緒”が書いてありました。それによると・・・。
源義経こと牛若丸と辨慶の最初の出会いが五條天神社の近辺だったと言う話です。辨慶が笛を吹きつつ歩く牛若丸を見つけてその腰にある黄金の太刀を奪いにかかる。牛若丸は欄干を飛び交い、最後に辨慶は返り討ちに遭ってしまい、降参。そして辨慶は牛若丸の家来になったという ・・・有名な“五条大橋”の伝説・・・。現在の“五条大橋”は鴨川に架かっていますが、当時、五條天神社の東側に流れていた西洞院川の松原橋だといいます。豊臣秀吉によって橋が移されてから平安朝以来の「五条大橋」の名が消え東方の松並木から松原通となって現在に至ったということです。
余談ですが、私にとって松原通は縁の深い通りなんです。主に西は西大路通りから東は大宮通りにかけての話で、壬生に30年住んでたからいろいろな思い出が残っています。一つ一つ取り上げから切りが無いので思い出話は割愛します

境内に入ってから正門が西洞院通り沿いだと気が付きました。そのため一旦外に出て鳥居と「五條天神宮」とかかれた「社標」を撮りました。
この前が西洞院通りですので交通量は多いです。歩道から少しだけはみ出たら綺麗に撮れたかと思いますが、無理しません。一枚だけ撮って中に戻りました。そしたら左手に手水盤がありました。
この境内の南側にマンションがあって、何か工事されてました。その関係者がジロジロ見られてて・・・滅多に参拝に来られないのでしょうね、珍しがられたのかも。
その本殿は東向きに建てられてました。ここの朱印は未確認でしたので一応社務所は探しましたが・・・それらしきものは・・・ありませんでした。
御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の三柱。
794年(延暦13年)桓武天皇の平安遷都にあたり、大和国宇陀郡からから天神(あまつかみ)を勧請したのが五條天神社の始まりだと言われています。当初は「天使の宮」(天使社)と称しましたが、後鳥羽天皇時代に“五條天神社”と改めました。創社の頃は社域も広く、社殿も広社でしたが、中世以降は度々火災に見舞われ、1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)で社殿は焼失。現在の社殿は近年の再建です。御祭神の一人、少彦名命(すくなひこのみこと)が薬の神様のため古くから医薬・禁厭(まじない)の祖神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除け祈願のため参詣する人が絶えません。
それなら節分に来て見ようとは思いますが、節分の日は・・・いろいろ行きたい所が多くて・・・困ってしまいます

右から辨財天社(御祭神、辨財天)、猿田彦神社(御祭神、猿田彦大神)、稲荷社(御祭神、稲荷大神)と提灯で確認しましたが・・・由緒書きがないので、多分ですが・・・

右から白太夫社(御祭神、渡会晴彦翁)、大國主神社、金刀比羅神社、福部神社(御祭神、十川能福)が。社殿の扁額で分かりました。
以上が本殿の裏側・・・西にあった社殿です。そして本殿の南側にもう一つ・・・筑紫天満宮と書いてありました。
詳しい事は分かりませんが、天満宮ということは御祭神は、菅原道真公でしょう、その証拠に神牛像もありました

本殿廻りや境内をくまなく社務所を探しましたが、それらしきものはありませんでした。諦めが早いので、ここには4分で出て行きました。五條天神社を9時24分に再び松原通に出て西に向かいます。堀川通りを渡って懐かしの松原通商店街を歩くと、中学生の時、足繁く通った“まるき製パン”で沢山のパンを買い、大きな袋を持ったまま、大宮通りを渡り、我が母校の前を通って壬生川通り渡り、さらに西に進み坊城通りを北に上がると・・・そこには我が故郷「壬生寺」があり、久し振りに特別公開されたので来て見ました。
【五條天神社】