第51回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 壬生寺へ

五條天神社の次ぎに向かったのが、今日の“主役”第51回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 壬生寺です。

壬生で生まれ育った私にとって懐かしさで一杯です。子供の頃に見た風景は変わってしまいましたが、所々今も残る風景があって、ゆっくり歩き懐かしさを楽しみながら壬生寺の南門から境内に入りました。

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壬生寺の正門である東門は帰りに出ます。南門は保育園児だった私を毎日、父がスクーターで送ってくれた・・・懐かしの門なんです。

この日は1月28日(土)で、壬生寺は1月30日(日)から2月5日(日)まで節分祭のため拝観を停止されます。境内は多くの参拝者で賑わいますので、拝観停止は当然でしょうし、境内に入ると節分の準備が進んでいました。

着いたのが9時47分。拝観開始の10時にはまだ時間がありました。本堂の前や境内は、節分祭のためいつもと違う風景がありました。

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本堂内には入るのは、2010年(平成22年)2月20日(土)以来です。当初は、ここに来る予定はしてませんでしたが、久しく行ってないのと、狂言堂も公開されるので来て見た次第です。

京都でも節分になれば一位二位を争うぐらいの人出で賑わうので、境内はすっかり節分モードに入っています。少しだけ時間があるので、懐かしの壬生寺保育園を見に行きました。

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この日も園児の声が賑やかでした。本当は本堂より、ここに入って教室を覗きたかった・・・です。断片的に少しだけ記憶があるので・・・多分・・・見ると涙が出るかも・・・。

10時5分前に受付開始となったので、慌てて本堂に戻り臨時の拝観受付で、拝観料600円と「冬の旅ガイドブック」を100円で購入。冬の旅恒例のスタンプラリーの用紙をいただいて久し振りに堂内に入りました。

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堂内は以前と同じく撮影禁止でした。内陣中央には奈良・唐招提寺から移された地蔵菩薩立像が安置されています。

壬生寺の本堂は、1962年(昭和37年)年7月25日午前2時頃、放火により出火し全焼。本堂の再建は、1970年(昭和45年)に鉄筋コンクリート製で再建されました。壬生寺は奈良・唐招提寺を総本山とする律宗の寺院で、焼失したご本尊も、唐招提寺より藤原時代に造られた現存する最古の地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置。また堂内には友禅画家・あだち幸(さち)氏が“友禅画”の技法で絹に描いた鮮やかな障壁画で飾られています。そして奈良・唐招提寺の国宝「鑑真和上坐像」を小ぶりにした「お身代わり像」が昨年5月に新たに安置されていました。

壬生寺の火災は幼い私でも東の空が真っ赤に染まってたのを覚えています。ただ境内で遊ばされ親が撮った古写真には本堂が写ってないですよね・・・土塀が写ったのは多数あるんですが・・・残念・・・。

次ぎに案内にしたがって、今回初公開された大念佛堂(狂言堂)に向かいます。少し離れていますが、その狂言堂の入口で本堂でのチケットを見せ、門を入って堂内の玄関で靴を脱いで入りました。

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門の入口に立っていたガイドさんに「写真は禁止ですか」と尋ねると「禁止させてもらっています」と。嵯峨狂言堂ではOKでしたので、少し残念です。

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写真はパンフから抜粋です。1階では狂言で使用される衣装か面などの説明を受け、2階に上がります。2階は舞台なんですが扉が閉まってて外は見えません。扉が閉まってたのは本当に残念でしたし、寒い冬場・・・足元が寒すぎて、早々に下に降り外に出ました。(ガイドさんも今年の冬は、寒くて寒くて・・・と泣きそうな・・・そんな感想を聞きました。)

1856年(安政3年)再建。かつて新撰組浪士も見学に訪れたという壬生狂言専用のお堂で重要文化財に指定されてます。今回の公開で、衣装や小道具、安土桃山時代の作を含むお面も初公開されました。壬生狂言はお堂に安置されいる地蔵菩薩像に奉納される無言劇で、演じるのは、壬生大念仏講中の人々。会社員や自営業の人、そして僧侶の方が演じられるそうです。

狂言堂の扉が開いてなかったのは理由があって・・・扉を開けると舞台になって、女性の方が見られないそうです。扉を閉めるとお堂となるので、これなら女性の方にも見ていただけると・・・雑談で聞きましたが、嵯峨狂言堂では女性の方も見学されてたのにね・・・それより、開けると向かいにある壬生保育園の園児が丸見えが要因じゃないかなぁ・・・と私は思っています。

久し振りに壬生寺に来たので少しばかり散策していきます。子供の頃に遊んだ壬生寺の境内は大きく変わりました。

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こちらは北門です。ここを出ると少しばかり子供頃の風景・・・長屋が残っています。それも年々無くなってきてるのは寂しいです。北門の西隣には、三福川稲荷堂があって、稲荷大神が祀られています。

次ぎに壬生寺で唯一残る塔頭、中院です。ここは洛陽三十三ヶ所観音巡礼第28番札所でもあります。ちなみに御朱印は寺務所でいただけます。

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ご本尊は、十一面観音菩薩は、鎌倉時代に壬生寺が再興された際、平政平(たいらのまさひら)の発願で刻れました。洛陽三十三ヶ所観音霊場が再興されたとき、中院の建物も綺麗に修復されたそうです。

現在の建物は、1829年(文政12年)の再建で、古くは中之坊と呼ばれてました。創建は寛永年間(1624~1643)に本良(ほんりょう)律師によって十一面観音菩薩立像をご本尊に創建。明治に入ってからは律宗の修行道場となってからは中院と呼ばれるようになりました。

その中院の西隣に新しいお堂ができてました。近づいて花頭窓の中を覗くと歯薬師如来三尊像が祀られてました。

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案内を読むと、京都十二薬師霊場第4番札所だそうです。歯薬師は、古来より阿弥陀堂の脇仏として祀られてました。名前のとおり歯の病に霊験あらたかだそうです。

その向かいにあるのが阿弥陀堂で、拝観料は200円です。子供の頃には無かった建物で、久し振りに行ってみようと思いつきました。

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子供の頃には無かった・・・ある訳ないです。2002年(平成14年)の再建で、お堂は真新しいです。

ここの奥に壬生塚があって、子供の頃の遊び場だった所が、何と拝観料が必要になりました。何だが複雑な気持ちですが、懐かしさで一杯です

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朱塗りの橋を渡ると、そこは壬生塚と言って、新選組隊士墓所があります。若い女の子に人気があるのでしょうか、寒いのに多くの人が来られてました。

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橋の左手には池があって、中央に龍神像があります。それより子供の頃には多くの亀が居ました。そして・・・今日もです。この池の亀を眺めてたなぁ・・・と、ふと思い出しました

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橋を渡った正面にあるのが、壬生官務家墓塔で、江戸時代初期の頃に建立されたらしいです。詳しい事は分かりませんが、大小2基の五輪塔がありました。

壬生官務家は本性を小槻(おづき)氏といい、平安時代から先祖代々、太政官製における書記官を勤めていました。この五輪塔は、江戸時代初期のものと考えられています。

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その横には、往年の名歌手、故・三橋美智也さんの「あゝ新撰組」の「歌碑」がありましたが・・・さすがに知らないです。帰って聞きましたが・・・やっぱり知らなかっです。1999年(平成11年)に建立されたました。

次が思い切り逆行を浴びた「新撰組隊士慰霊塔」(写真・右)です。京都で活躍している新撰組同好会が、結成30周年を記念し、2005年(平成17年)建立されました。新撰組の諸精霊を慰霊供養する塔です。

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写真左は1995年(平成7年)に建立された「新撰組彰碑」がありました。京都で活躍している新撰組同好会が会の結成20周年を記念し建立されたそうです。

そしてもっとも東側にあるのが、「近藤勇胸像」で、1971年(昭和46年)に建立されました。この壬生塚の目玉でしょう、多くの方が写真撮られてました。

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胸像の左横の塔は「遺髪塔」だそうで、近藤勇の髪が祀られています。2004年(平成16年)に放送されたNHK大河ドラマ『新選組!』(三谷幸喜脚本)では、香取慎吾さんが演じてましたね。

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さらに奥へ進むと「河合耆三郎(かわい きさぶろう)の墓」がありました。勘定方で、帳簿のうえで不始末を起こしため切腹させられたといわれています。前途したNHK大河ドラマ『新選組!』では、大倉孝二さんが演じてました。

最後に、写真左側には「芹沢鴨・平山五郎の墓」が、右側には「隊士7名の合祀墓」がありました。芹沢鴨は佐藤浩市さんが、平山五郎は坂田 聡さんが演じました。ご存じ八木邸で暗殺されたんですよね。

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隊士7名は、阿比原栄三郎(あびるえいざぷろう・矢部太郎)、田中伊織(相島一之)、野口健司(岡本幸作)、奥沢栄助(松島圭二郞)、安藤早太郎(河西祐樹)、新田革左衛門(赤堀二英)、葛山武八郎(かづらやまぶはちろう・平畠啓史)( )内は、NHK大河ドラマ『新選組!』の役者名。

正直、私は殆ど見てなかったんですよね。女房が見ていて・・・それも随分前の話で覚えて無かった・・・ので、 ウィキペディアで調べました。 

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壬生塚の最後は「人丸塚」で、万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂の灰塚だとか。現在の碑は大正時代に建立されました。

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結構、人が入ってたので何周かしました。久し振りに訪れた壬生塚を堪能。それよりもう少し新撰組を知らなくちゃ・・・勉強します

壬生塚を出て、阿弥陀堂の地下に降ります。地階は壬生寺歴史資料室となっており、寺宝や新選組の関連資料が展示されています。残念ながら撮影禁止のためあっさり見て出て行きました。

帰りは坊城通りに出るため壬生寺の正門である東門から出ます。その東門の手前に一夜天神堂があるので見て行きました。

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1852年(嘉永5年)の再建。堂内の中央に一夜天神、向かって右に金毘羅大権現、左に壬生寺の鎮守である六所明神が祀られています。

菅原道真公が流罪となった時に、この壬生の地を訪れ一夜を明かした故事に由来し「一夜天神」の名があります。御利益は学業上達との事で参拝され方も多いといいます。

節分になれば多くの人が行き交う東門です。坊城通りは露店が並ぶので交通規制が引かれますが、この日はまだ大丈夫です。

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1799年(寛政11年)の再建。さすがに正門だけに立派な構えです。子供の頃は夜店も楽しみの一つでしたが、いつの間にか無くなりました。そんな思いだだっぷりの壬生寺を後にしました。

壬生寺には10時48分に出て行きました。壬生寺の正門である東門を出て坊城通りを少しだけ上がると新撰組ゆかりの「八木邸」がありますが、ここは写真撮影禁止のため一度見たら充分です。八木邸をスルーして綾小路通りの角ににある「前川邸」の前を通って、四条大宮に出ます。ここから嵐電に乗れば直ぐに帰れるんですが、今日はもう一箇所寄って行きます。

【壬生寺 狂言堂】



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