第51回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 建仁寺塔頭 久昌院へ
今年も冬の京都のイベントである、第51回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開が1月7日(土)から始まり、早速1月28日(土)に壬生寺を訪れました。本当は、もっと早く行く予定が、週末に数年に一度の大寒波の襲来もあって行けず。それで例年どおり2月3日(金)に節分や特別拝観、そして家族の会食を予約していたところ・・・愛猫が天国に旅立ってしまいました。
3日の予定を全てキャンセルしても週末は気分が落ち込んで、まったく外出する気になれず・・・。翌週の11日(祝・土)は、以前からレストランを予約していたこともあって久々に外出するつもりでいました。しかし・・・再び寒波襲来の天気予報が出て・・・京都南部には大雪警報が発令されました。再び大雪のニュース・・・気分が晴れないので行くのやめようと思いましたが、いつまでも落ち込んでても愛猫に笑われるので、無理してでも行くことにした訳です。雪は心配でしたが、当日、朝起きたら積雪は公式には4㎝・・・それほどでもなく、予定どおり家を出ることができました。
家を予定どおり出られたのは良かったんですが、足元は凍ってて・・・予定していた電車に乗り遅れる始末。寒い駅で20分も待って次の電車に乗り込み、JRと地下鉄を乗り継いで「三条京阪駅」で下車。そこから歩いて向かったのが建仁寺塔頭 久昌院(きゅうしょういん)です。
9時50分に山門前に着きました。まだ10分前でしたが、どうしても最初に入りたかったので待つことにしました。道には雪はありませんが、無茶苦茶寒いです。
5分前に山門の柵を外され中に入ることが出来ました。そして右手にある臨時の拝観受付所で、京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を見せて中に入ります。
その時、「京の冬の度・スタンプラリー」の用紙に今回で2個目のスタンプを押してもらいました。雪の残る庭を見ながら方丈入口にある唐門をくぐると・・・。
目の前に雄大な方丈が東向きにありました。5分前に入れれてもらったので、ガイドさんはスタンバイです。私らが入ってきたので所定の位置に向かうガイドさんも居ましたね。
方丈の右側から靴を下駄箱に入れて上がります。ガイドさんより「9時になったら案内します」と言われたので、暫くは庭の写真を撮ることにしました。
それより“朱印”が気になってガイドさんに尋ねると方丈の右側にある寺務所と言うか納経所と言うか・・・要するに受付を案内されました。
朱印は書き置きしかありません。特別拝観では仕方ないですね。朱印は、本尊の「薬師如来」と書院「高松軒」があり、2種類ともいただきました。
そしたら、そこそこ人が集まったので久昌院の案内が始まりました。方丈の中には入れないので雪が残る庭を見ながら聞きました。
久昌院(きゅうしょういん)は、建仁寺の塔頭寺院で、1608年(慶長13)に徳川家康に仕えた勇将、奥平信昌により、建仁寺二百九十五世の三江紹益(さんこうじょうえき)を開山として招いて創建された奥平家の菩提寺です。“久昌院”の名は、信昌の法名から名付けられたもので、仏間には信昌の妻、亀姫(徳川家康の娘)の念持仏であった薬師如来坐像と開基である三河和尚の木造が安置されています。また、方丈前庭園は、心字池を中心に、二段に刈り込まれた生垣の奥に、山内の法堂と東山を借景とした規模の大きな池泉観賞式方庭園となっています。
ガイドさんの話で“奥平信昌”の名前が出てきました。織田・徳川連合軍Vs武田軍による「長篠の戦い」で功績をあげたことで知られていますが、その「長篠合戦図」を間近で見ることができました。
江戸時代後期の復古大和絵派の宇喜多(浮田)一惠(いっけい)によって描かれた障壁画です。宇喜多秀家から7代目の子孫だと名乗っていたそうですが・・・真意は分かりません。
ここでガイドさんから・・・「長篠の戦い」の前、長篠城を取り囲んだ武田軍の大軍に対して、城内は奥平信昌率いる兵士500名が籠城してました。信昌は岡崎城に居る徳川家康に援軍を要請するため、鳥居強右衛門に託します。強右衛門は川沿いに武田軍の網をかいくぐり、家康と信長に会って城内の様子を伝え、一足早く「援軍来たる」の朗報を届けに長篠城に戻りますが途中で、武田軍に捕らわれます。武田方から「“援軍は来ない”と言えば命は助ける」との申し出に城内から見渡せる場所に連れていかれ強右衛門は「援軍は来る」と大声で叫びます。武田軍は強右衛門を処刑しますが、この行動の結果、戦いの場は「設楽・長篠の戦い」へと舞台を移すことになりました。・・・と、話を聞きました。徳川家康ファンである私は、このエピソードは知ってましたし、懐かしい思いで聞いてました・・・と言うのも以前、長篠城を訪れてたからです。
2009年(平成21年)4月3日に長篠城を訪れた時、その処刑された場所を実際に見に行きました。そこには「鳥居強右衛門死之趾」と書かれた石標がありました・・・。
どうしても戦国歴史ファンの私は、このエピソードを来たら脱線してしまいます。ガイド本に載ってませんが、鳥居強右衛門も描かれてました。話が終わったので、次ぎに向かいますが、その前に方丈前庭園です。庭には雪が残ってて貴重な写真が撮れました。
心字池を中心に綺麗な庭園です。庭に降りることはできないのが残念ですが、借景の法堂は見えていました。今は残念ながら、東山連峰はを見ることはできません。
この庭園は東に向いているため、心字池に写る名月を愛でたらしいです。前途のとおり庭に降りることが出来ないので、南がわに屋根しか見えませんが、霊屋があって信昌と亀姫がの墓碑があるそうです。
写真右側の奥にゆきを被った屋根が見えてますが、それが霊屋です。内部には五輪石塔が二基安置されてるそうです。
方丈の南側の庭園です。こちらの庭も雪が積もっていますが、そろそろ雪が溶けそうな・・・そんな感じがしました。こちらには手水鉢もありましたが、その訳は・・・。
方丈南側から出ると、室中の間(仏間)の裏側に出ます。そこには6畳の茶室が設けられてました。天井は竿ぶち天井、床柱は磨き丸太を使用。名前を尋ねましたが特に無いようです。こんな所に茶室があるなんて・・・と思いました。
次ぎに書院「高松軒(こうしょうけん)」に移動します。少しだけ渡り廊下を通りますが、両側には雪が残ってて寒いです。
書院内部は撮影禁止です。遠目から“上段の間”が見えています。特に見所は書院内にある茶室でしょうか。
書院内が撮影禁止のため、茶室も撮れません。「遠州別好ノ席(えんしゅうべつこのみのせき)」と呼ばれる茶室内部には入れないので、外からじっくり観察しました。
書院「高松軒」には上段の間がある12畳の座敷と、8畳台目の座敷が設けられており、隣には「遠州別好ノ席」と呼ばれる3畳の茶室が残されています。躙口が塀とのわずかな隙間にあり、天井は舟底型になっていました。
こちらは寺宝として公開された「牧童笛吹図」(指頭画)長沢芦雪筆。筆を用いず指・爪・掌によって描かれたそうですが、何故“久昌院”に・・・。分からないまま、ポストカード買いました。
数年前まで、会社の事務所が祇園にあったので、この久昌院の前は数え切れないほど通りました。その時から一時は見てみたいと思っていたので、やっと念願が叶い嬉しかったです。さほど広くないので一通り説明を聞き終わったので、ここを出ることにしました。
ここを出る時には東向きの屋根に積もった雪は溶け始めてましたが、庭はまだまだ残っています。入った時はスルーした禅宗寺院らしい庫裏を帰りにはしっかり撮りました。
そして、こちらは鐘楼です。鐘楼の頭だけ外から見ることはできるんですが、こうして中から撮れ良かったです。
1627年(寛永4年)奥平信昌13回忌にあたり、大和郡山城主・松平忠明が財を施し建立したとか。
最後は、山門入って右手にあった神社です。多分、鎮守社だと思います。特に近寄って見てる人は居ませんでしたね。
久昌院には10時21分に出て行きました。寒い寒い土曜日の朝でしたが、次から次から結構入って来られます。“京の冬の旅”20年振りの公開ですからね、しっかり見せて貰いました。電車に乗り遅れてなかったら、ここに来る前、建仁寺本坊に入ってたんですけど、時間が無いので次ぎの特別公開の寺院に向かいました。
【建仁寺塔頭 久昌院 書院「高松軒」】
3日の予定を全てキャンセルしても週末は気分が落ち込んで、まったく外出する気になれず・・・。翌週の11日(祝・土)は、以前からレストランを予約していたこともあって久々に外出するつもりでいました。しかし・・・再び寒波襲来の天気予報が出て・・・京都南部には大雪警報が発令されました。再び大雪のニュース・・・気分が晴れないので行くのやめようと思いましたが、いつまでも落ち込んでても愛猫に笑われるので、無理してでも行くことにした訳です。雪は心配でしたが、当日、朝起きたら積雪は公式には4㎝・・・それほどでもなく、予定どおり家を出ることができました。
家を予定どおり出られたのは良かったんですが、足元は凍ってて・・・予定していた電車に乗り遅れる始末。寒い駅で20分も待って次の電車に乗り込み、JRと地下鉄を乗り継いで「三条京阪駅」で下車。そこから歩いて向かったのが建仁寺塔頭 久昌院(きゅうしょういん)です。
9時50分に山門前に着きました。まだ10分前でしたが、どうしても最初に入りたかったので待つことにしました。道には雪はありませんが、無茶苦茶寒いです。
5分前に山門の柵を外され中に入ることが出来ました。そして右手にある臨時の拝観受付所で、京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を見せて中に入ります。
その時、「京の冬の度・スタンプラリー」の用紙に今回で2個目のスタンプを押してもらいました。雪の残る庭を見ながら方丈入口にある唐門をくぐると・・・。
目の前に雄大な方丈が東向きにありました。5分前に入れれてもらったので、ガイドさんはスタンバイです。私らが入ってきたので所定の位置に向かうガイドさんも居ましたね。
方丈の右側から靴を下駄箱に入れて上がります。ガイドさんより「9時になったら案内します」と言われたので、暫くは庭の写真を撮ることにしました。
それより“朱印”が気になってガイドさんに尋ねると方丈の右側にある寺務所と言うか納経所と言うか・・・要するに受付を案内されました。
朱印は書き置きしかありません。特別拝観では仕方ないですね。朱印は、本尊の「薬師如来」と書院「高松軒」があり、2種類ともいただきました。
そしたら、そこそこ人が集まったので久昌院の案内が始まりました。方丈の中には入れないので雪が残る庭を見ながら聞きました。
久昌院(きゅうしょういん)は、建仁寺の塔頭寺院で、1608年(慶長13)に徳川家康に仕えた勇将、奥平信昌により、建仁寺二百九十五世の三江紹益(さんこうじょうえき)を開山として招いて創建された奥平家の菩提寺です。“久昌院”の名は、信昌の法名から名付けられたもので、仏間には信昌の妻、亀姫(徳川家康の娘)の念持仏であった薬師如来坐像と開基である三河和尚の木造が安置されています。また、方丈前庭園は、心字池を中心に、二段に刈り込まれた生垣の奥に、山内の法堂と東山を借景とした規模の大きな池泉観賞式方庭園となっています。
ガイドさんの話で“奥平信昌”の名前が出てきました。織田・徳川連合軍Vs武田軍による「長篠の戦い」で功績をあげたことで知られていますが、その「長篠合戦図」を間近で見ることができました。
江戸時代後期の復古大和絵派の宇喜多(浮田)一惠(いっけい)によって描かれた障壁画です。宇喜多秀家から7代目の子孫だと名乗っていたそうですが・・・真意は分かりません。
ここでガイドさんから・・・「長篠の戦い」の前、長篠城を取り囲んだ武田軍の大軍に対して、城内は奥平信昌率いる兵士500名が籠城してました。信昌は岡崎城に居る徳川家康に援軍を要請するため、鳥居強右衛門に託します。強右衛門は川沿いに武田軍の網をかいくぐり、家康と信長に会って城内の様子を伝え、一足早く「援軍来たる」の朗報を届けに長篠城に戻りますが途中で、武田軍に捕らわれます。武田方から「“援軍は来ない”と言えば命は助ける」との申し出に城内から見渡せる場所に連れていかれ強右衛門は「援軍は来る」と大声で叫びます。武田軍は強右衛門を処刑しますが、この行動の結果、戦いの場は「設楽・長篠の戦い」へと舞台を移すことになりました。・・・と、話を聞きました。徳川家康ファンである私は、このエピソードは知ってましたし、懐かしい思いで聞いてました・・・と言うのも以前、長篠城を訪れてたからです。
2009年(平成21年)4月3日に長篠城を訪れた時、その処刑された場所を実際に見に行きました。そこには「鳥居強右衛門死之趾」と書かれた石標がありました・・・。
どうしても戦国歴史ファンの私は、このエピソードを来たら脱線してしまいます。ガイド本に載ってませんが、鳥居強右衛門も描かれてました。話が終わったので、次ぎに向かいますが、その前に方丈前庭園です。庭には雪が残ってて貴重な写真が撮れました。
心字池を中心に綺麗な庭園です。庭に降りることはできないのが残念ですが、借景の法堂は見えていました。今は残念ながら、東山連峰はを見ることはできません。
この庭園は東に向いているため、心字池に写る名月を愛でたらしいです。前途のとおり庭に降りることが出来ないので、南がわに屋根しか見えませんが、霊屋があって信昌と亀姫がの墓碑があるそうです。
写真右側の奥にゆきを被った屋根が見えてますが、それが霊屋です。内部には五輪石塔が二基安置されてるそうです。
方丈の南側の庭園です。こちらの庭も雪が積もっていますが、そろそろ雪が溶けそうな・・・そんな感じがしました。こちらには手水鉢もありましたが、その訳は・・・。
方丈南側から出ると、室中の間(仏間)の裏側に出ます。そこには6畳の茶室が設けられてました。天井は竿ぶち天井、床柱は磨き丸太を使用。名前を尋ねましたが特に無いようです。こんな所に茶室があるなんて・・・と思いました。
次ぎに書院「高松軒(こうしょうけん)」に移動します。少しだけ渡り廊下を通りますが、両側には雪が残ってて寒いです。
書院内部は撮影禁止です。遠目から“上段の間”が見えています。特に見所は書院内にある茶室でしょうか。
書院内が撮影禁止のため、茶室も撮れません。「遠州別好ノ席(えんしゅうべつこのみのせき)」と呼ばれる茶室内部には入れないので、外からじっくり観察しました。
書院「高松軒」には上段の間がある12畳の座敷と、8畳台目の座敷が設けられており、隣には「遠州別好ノ席」と呼ばれる3畳の茶室が残されています。躙口が塀とのわずかな隙間にあり、天井は舟底型になっていました。
こちらは寺宝として公開された「牧童笛吹図」(指頭画)長沢芦雪筆。筆を用いず指・爪・掌によって描かれたそうですが、何故“久昌院”に・・・。分からないまま、ポストカード買いました。
数年前まで、会社の事務所が祇園にあったので、この久昌院の前は数え切れないほど通りました。その時から一時は見てみたいと思っていたので、やっと念願が叶い嬉しかったです。さほど広くないので一通り説明を聞き終わったので、ここを出ることにしました。
ここを出る時には東向きの屋根に積もった雪は溶け始めてましたが、庭はまだまだ残っています。入った時はスルーした禅宗寺院らしい庫裏を帰りにはしっかり撮りました。
そして、こちらは鐘楼です。鐘楼の頭だけ外から見ることはできるんですが、こうして中から撮れ良かったです。
1627年(寛永4年)奥平信昌13回忌にあたり、大和郡山城主・松平忠明が財を施し建立したとか。
最後は、山門入って右手にあった神社です。多分、鎮守社だと思います。特に近寄って見てる人は居ませんでしたね。
久昌院には10時21分に出て行きました。寒い寒い土曜日の朝でしたが、次から次から結構入って来られます。“京の冬の旅”20年振りの公開ですからね、しっかり見せて貰いました。電車に乗り遅れてなかったら、ここに来る前、建仁寺本坊に入ってたんですけど、時間が無いので次ぎの特別公開の寺院に向かいました。
【建仁寺塔頭 久昌院 書院「高松軒」】