第51回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 妙心寺塔頭 養徳院へ
轉法輪寺から帰る予定を急遽変更して次ぎに向かったのが、妙心寺です。今回“京の冬の旅”で三箇所特別公開されてました。
妙心寺には北門から入り、入って直ぐに左に行けば台数は少ないですが、駐車場があって1台分だけ空いてたので止められました。
そこから向かった先には、第51回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 妙心寺塔頭 養徳院で、近年、特別公開された形跡もありませんし、「京の冬の旅」でも初公開・・・極めて珍しい貴重な寺院の公開で楽しみにしていました。
晴れの日に来たかったけど、仕方ないですね。傘を差して山門までやってきました。ここに来てもう一つの心配は団体さんですが・・・さて・・・。
山門を入ると正面に庫裏があって、どうやらそこが拝観受付のようです。山門の中から写真撮りましたが、雨で少し煙っています。
庫裏を入って右手に拝観受付所があって、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を出して入りました。これで2枚いただいた招待券は・・・使い切りました。
靴を脱いで上がると正面に納経所があって、そこで朱印をいただきます。噂では、ここには4種類の朱印があってすべて住職さんが書かれるため、すごく時間がかかると・・・風の便りで聞きました。確かに私の前に2人並ばれてて、約5分強待ちました。
朱印で並んでる前に韋駄天像が祀られてて、これより奥は撮影禁止です。5分以上も寒い廊下で待ちました。そして私も4種類の朱印・・・いただきました。書かれている間・・・住職さん(副住職さんかも)と談笑・・・「お隣の大雄院行かれましたか」「昨年の春の京都禅寺一斉拝観で行ったので予定はありません」「今回は十一面観音象も公開されてる是非」と言われたので、このあと行くことにしました。
4枚も書いてもらっているので、結構な時間・・・かかります。上記の談笑は・・・ほんの一部分です・・・余談ですが、待っている間に、団体さんが入ってこられました。その団体さんの添乗員さん「朱印はこちらでいただけます」と案内されましたがどなたも並ばなかったですね、もし全員並ばれたら20分ぐらいかかったかも・・・。
写真は、織田信長の帰依を受けた禅僧・蘭叔玄秀(らんしゅくげんしゅう)が記した「酒茶論」の掛軸ですが、正直難しくて・・・読めませんし・・・興味も無かった・・・。
方丈に入ると最初の部屋でガイドさんより案内を受けました。団体さんは既に次の間に移動されてて、私らだけで話を聞くことに・・・。そして最初に「酒茶論」の掛軸の案内でした。
寺宝「酒茶論(しゅちゃろん)」は、妙心寺五十三世をつとめた高僧・蘭叔玄秀(らんしゅくげんしゅう)が1576年(天正4年)に著した漢文体の掛軸で、酒好きな忘憂君(ぼうゆうくん)と下戸(げこ)で茶を好む滌煩子(じょうはんし)が、酒と茶の功徳について中国の故事を引き合いに論争した短編。論争の最後に一人の閑人が出て「酒は酒、茶は茶」と引き分けるという内容です。
次ぎに仏間に移動します。ご本尊は、釈迦如来三像(中央に釈迦如来像と右に白像に乗られた普賢象菩薩像と、左に獅子に乗られた、文殊菩薩像)が祀られてて、その左横に石河家代々の位牌、右には住職代々の位牌が安置されてました。
妙心寺塔頭寺院である養徳院は、織田信長や豊臣秀吉に仕えた重臣の石河光重(いしこみつしげ)が、父・光延(みつのぶ)の菩提を弔うため1583年(天正11年)に創建されました。開祖は妙心寺六十七世・功沢宗勲(こうたくそうくん)で、宗勲も光延の子で、光重とは兄弟でした。功沢宗勲のあとを継いだ水庵宗掬(すいあんそうきく・妙心寺七十三世)(心華霊明禅師)も石河(いしこ)氏出身でした。石河家は美濃鏡島城(かがしまじょう)の城主でした。しかし現在、城は残っていませんが、石河家の菩提寺であった乙津寺(おっしんじ)は現存しています。その乙津寺住職で、妙心寺五十三世をつとめたのが蘭叔玄秀(らんしゅくげんしゅう)でした。
こちらは桃山時代に活躍した曽我直庵(そがちょくあん)筆の白と黒の「鷹の図」2幅で、看板の写真はこれでした。
曽我直庵は、安土桃山時代から江戸初期にかけての画家で、堺では蛇足六世と名乗って活躍されました。北野天満宮の宝物館には代表作「曳馬図絵馬」があるそうです。粗豪な筆致で、漢画の手法を取り入れた花鳥画を多く描いたといわれています。
あと寺宝として、鑑真和上請来と伝わる「鉄鉢」や、鉄庵道生(てつあんどうしょう)の山水画が展示してあり、ガイドさんから案内を受けました。また襖絵は昭和の絵師「渡辺泰河(わたなべたいが)」(養徳院の檀家)によるものと説明を受けました。
最後に庭園の説明を受けましたが、これは庭園の写真で説明します。ここには14時38分に入って、15時20分に出て行きました。朱印で並んだこともありますが、丁寧に案内していただいたこともあって、さほど広くない堂内でも長居してしまいました。
山門から入って左手に近年整備されたであろう黒砂を使った枯山水庭園があり、細い露地の奥を進んで行きます。
雨の参道を奥に進むと、参道の両側に綺麗な庭園がありました。参考までに、この奥を進めば墓地にあたるので、ここに行くには無料で行けるんでしょうね。
そのまま進めば左手に十三重石塔を目にします。四面には石仏が彫られているという案内を堂内で受けました。
先程、さほど暖かくない堂内で庭の案内も簡単に受けました。案内するほどの庭じゃないのは見たら分かりますよね。残念ながら、ここから春日灯籠は見えません(変形の春日灯籠だそうです)。
梅の花も一輪だけ咲いていますが、本当に小さな庭で参道横にある苔生した庭、それに巨石、それらを眺めてながら元の山門に戻ります。
この庭に団体さんと出会うのは叶わない所、だれとも出会いませんでした。行きも帰りもです。そんなに長居して見とれてしまう庭園ではないので、すぐに出て行かれたのでしょう。
かつてこの養徳院は大規模な寺領を要していましたが、次第に縮小し1856年(安政6年)に再興。1935年(昭和10年)に現在地に移転し現在に至っています。
ここには40分弱ほど滞在してました。滅多に公開されない寺院で、4種もの朱印もいただけて大満足してここを出ました。願わくば堂内の写真は撮りたかったのが本音ですが・・・。このあとお隣の大雄院の前を通りました・・・。
【妙心寺塔頭 養徳院 庫裏】
妙心寺には北門から入り、入って直ぐに左に行けば台数は少ないですが、駐車場があって1台分だけ空いてたので止められました。
そこから向かった先には、第51回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 妙心寺塔頭 養徳院で、近年、特別公開された形跡もありませんし、「京の冬の旅」でも初公開・・・極めて珍しい貴重な寺院の公開で楽しみにしていました。
晴れの日に来たかったけど、仕方ないですね。傘を差して山門までやってきました。ここに来てもう一つの心配は団体さんですが・・・さて・・・。
山門を入ると正面に庫裏があって、どうやらそこが拝観受付のようです。山門の中から写真撮りましたが、雨で少し煙っています。
庫裏を入って右手に拝観受付所があって、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を出して入りました。これで2枚いただいた招待券は・・・使い切りました。
靴を脱いで上がると正面に納経所があって、そこで朱印をいただきます。噂では、ここには4種類の朱印があってすべて住職さんが書かれるため、すごく時間がかかると・・・風の便りで聞きました。確かに私の前に2人並ばれてて、約5分強待ちました。
朱印で並んでる前に韋駄天像が祀られてて、これより奥は撮影禁止です。5分以上も寒い廊下で待ちました。そして私も4種類の朱印・・・いただきました。書かれている間・・・住職さん(副住職さんかも)と談笑・・・「お隣の大雄院行かれましたか」「昨年の春の京都禅寺一斉拝観で行ったので予定はありません」「今回は十一面観音象も公開されてる是非」と言われたので、このあと行くことにしました。
4枚も書いてもらっているので、結構な時間・・・かかります。上記の談笑は・・・ほんの一部分です・・・余談ですが、待っている間に、団体さんが入ってこられました。その団体さんの添乗員さん「朱印はこちらでいただけます」と案内されましたがどなたも並ばなかったですね、もし全員並ばれたら20分ぐらいかかったかも・・・。
写真は、織田信長の帰依を受けた禅僧・蘭叔玄秀(らんしゅくげんしゅう)が記した「酒茶論」の掛軸ですが、正直難しくて・・・読めませんし・・・興味も無かった・・・。
方丈に入ると最初の部屋でガイドさんより案内を受けました。団体さんは既に次の間に移動されてて、私らだけで話を聞くことに・・・。そして最初に「酒茶論」の掛軸の案内でした。
寺宝「酒茶論(しゅちゃろん)」は、妙心寺五十三世をつとめた高僧・蘭叔玄秀(らんしゅくげんしゅう)が1576年(天正4年)に著した漢文体の掛軸で、酒好きな忘憂君(ぼうゆうくん)と下戸(げこ)で茶を好む滌煩子(じょうはんし)が、酒と茶の功徳について中国の故事を引き合いに論争した短編。論争の最後に一人の閑人が出て「酒は酒、茶は茶」と引き分けるという内容です。
次ぎに仏間に移動します。ご本尊は、釈迦如来三像(中央に釈迦如来像と右に白像に乗られた普賢象菩薩像と、左に獅子に乗られた、文殊菩薩像)が祀られてて、その左横に石河家代々の位牌、右には住職代々の位牌が安置されてました。
妙心寺塔頭寺院である養徳院は、織田信長や豊臣秀吉に仕えた重臣の石河光重(いしこみつしげ)が、父・光延(みつのぶ)の菩提を弔うため1583年(天正11年)に創建されました。開祖は妙心寺六十七世・功沢宗勲(こうたくそうくん)で、宗勲も光延の子で、光重とは兄弟でした。功沢宗勲のあとを継いだ水庵宗掬(すいあんそうきく・妙心寺七十三世)(心華霊明禅師)も石河(いしこ)氏出身でした。石河家は美濃鏡島城(かがしまじょう)の城主でした。しかし現在、城は残っていませんが、石河家の菩提寺であった乙津寺(おっしんじ)は現存しています。その乙津寺住職で、妙心寺五十三世をつとめたのが蘭叔玄秀(らんしゅくげんしゅう)でした。
こちらは桃山時代に活躍した曽我直庵(そがちょくあん)筆の白と黒の「鷹の図」2幅で、看板の写真はこれでした。
曽我直庵は、安土桃山時代から江戸初期にかけての画家で、堺では蛇足六世と名乗って活躍されました。北野天満宮の宝物館には代表作「曳馬図絵馬」があるそうです。粗豪な筆致で、漢画の手法を取り入れた花鳥画を多く描いたといわれています。
あと寺宝として、鑑真和上請来と伝わる「鉄鉢」や、鉄庵道生(てつあんどうしょう)の山水画が展示してあり、ガイドさんから案内を受けました。また襖絵は昭和の絵師「渡辺泰河(わたなべたいが)」(養徳院の檀家)によるものと説明を受けました。
最後に庭園の説明を受けましたが、これは庭園の写真で説明します。ここには14時38分に入って、15時20分に出て行きました。朱印で並んだこともありますが、丁寧に案内していただいたこともあって、さほど広くない堂内でも長居してしまいました。
山門から入って左手に近年整備されたであろう黒砂を使った枯山水庭園があり、細い露地の奥を進んで行きます。
雨の参道を奥に進むと、参道の両側に綺麗な庭園がありました。参考までに、この奥を進めば墓地にあたるので、ここに行くには無料で行けるんでしょうね。
そのまま進めば左手に十三重石塔を目にします。四面には石仏が彫られているという案内を堂内で受けました。
先程、さほど暖かくない堂内で庭の案内も簡単に受けました。案内するほどの庭じゃないのは見たら分かりますよね。残念ながら、ここから春日灯籠は見えません(変形の春日灯籠だそうです)。
梅の花も一輪だけ咲いていますが、本当に小さな庭で参道横にある苔生した庭、それに巨石、それらを眺めてながら元の山門に戻ります。
この庭に団体さんと出会うのは叶わない所、だれとも出会いませんでした。行きも帰りもです。そんなに長居して見とれてしまう庭園ではないので、すぐに出て行かれたのでしょう。
かつてこの養徳院は大規模な寺領を要していましたが、次第に縮小し1856年(安政6年)に再興。1935年(昭和10年)に現在地に移転し現在に至っています。
ここには40分弱ほど滞在してました。滅多に公開されない寺院で、4種もの朱印もいただけて大満足してここを出ました。願わくば堂内の写真は撮りたかったのが本音ですが・・・。このあとお隣の大雄院の前を通りました・・・。
【妙心寺塔頭 養徳院 庫裏】