日本で唯一交通安全の神様がまつられている交通神社・須賀神社へ

本家西尾八ッ橋 本店を出て金戒光明寺がある東に向かってあること約3分で、交通神社・須賀神社に着きました。

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西側にある“須賀神社”の鳥居です。扁額には「須賀神社」と書かれており、西から来たので先ずはこちらの鳥居をくぐりました。

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こちらは、先程くぐった“須賀神社”より数歩先の東側にある“交通神社”の鳥居で、扁額は「交通神社」とあります。帰りにはこちらから出てから撮りました。

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手水盤は、境内の西側・・・須賀神社の鳥居前にありました。この時間だし誰か参拝に来られてるかなぁ・・・と思いましたが・・・誰も居ません・・・ここまでは

社殿は東側にあって西に向いています。それで境内に入って東側に行くともう一つ鳥居があって、写真はありませんが右手に社務所がありました。

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鳥居の扁額には「須賀神社交通神社」と書いてあります。私は、ここに来るまで須賀神社と別名が交通神社だと思ってましたが・・・どうも違うようです・・・。

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聖護院氏神」と石標には書いてあります。あとで社務所朱印をいただいたときに由緒書きを貰って、氏神の意味が分かりましたが・・・。

少しだけ高い位置にある社殿の中に本殿がありました。こちらも須賀神社と交通神社に社殿が別れてました。

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2社ともに鈴を鳴らし、お賽銭をしてお参りしました。いつも参拝する時は“無”の心境を心がけていますが、交通神社には交通安全をお願いしました。

御祭神は、須賀神社が素戔嗚尊(すさのおのみこと)、櫛稲田比売命(くしなだひめのみこと)。交通神社が八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比賣神(やちまたひめのかみ)、久那斗之神(くなどのかみ)でした。

また、境内の北側には末社があって、稲荷社といいます。目立ちませんが、足元には狛狐も安置されていました。

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稲荷大明神と白龍大明神が祀られており、看板には商売繁盛と金運向上に御利益があるとか書いてありました。

ここで社務所に行くと、お留守のようで・・・探すと呼鈴があったので呼ぶと中から人が出てこられ朱印をお願いしました。「ここに須賀神社と交通神社がありますが、どちらにされますか」と聞かれたので、両方ともいただいた次第です。この件で、須賀神社と交通神社が別々であることを知りました。

須賀神社は869年(貞観11年)播磨国・広峰神社より神様をお迎えして創建されたのが始まりです。古くは西天王社(にしてんのうしゃ)と呼ばれ現在の平安神宮の地にお祀りされていました。後の南北朝時代に戦乱を避け後醍醐天皇の命により吉田山に遷座、聖護院の里の鎮守として信仰され、1924年(大正13年)に元の御旅所である現在地に社殿が建てられ、還座されました。交通神社は1964年(昭和39年)に、須賀神社から社を分けて、「交通神社」として創建されました。

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この須賀神社は節分祭が有名で、2月2日と3日だけ“懸想文(けそうぶみ)売り”が登場し、その日にしか授与されないのが「懸想文」なのです。(石碑とは何の関係もありせん還座記念と書いてあるように読み取れます。)

懸想文とは、元々公家の“ラブレターの代筆文“でした。現在は商売繁昌や良縁の願いを叶えてくれるとかでタンスの中に終うそうです。こんな面白いことが看板に書いてありました。ここはに約7分ぐらい滞在して、12時21分に出て、金戒光明寺に向かいました。

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  • 西天王社「交通神社・須賀神社」にお参り

    Excerpt: 積善院凖提堂を出たら、向かいが交通神社・須賀神社です。最近、車に乗る機会が多いので、寄っていくことにしました。 Weblog: 古寺とお城の旅日記Ⅱ racked: 2019-05-21 02:58