平成29年度 春季 京都非公開文化財特別公開 厭離庵へ
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の大文字屋で「あぶり餅」を食べてから、「平成29年度 春季 京都非公開文化財特別公開」の厭離庵に行きました。
清涼寺の西門を出たら、愛宕街道に出るので暫く西に進むと、街道沿いに看板が出ています。この看板が無いと殆どの人は分からないでしょうね。
その露地を進むと表門があり、その手前の左手に臨時の拝観受付がありました。受付は学生さんがされてて、こでこも京都市文化観光資源保護財団からいただいた拝観券を出しました。この厭離庵は、紅葉の名所で、毎年11月中は公開されますが、最近は行けてません。紅葉が色づく前の拝観料が600円、色づいたら800円だったと記憶しています。
秋には、真っ赤に染まる境内も、今は青モミジが一杯です。この時、既に10時を回っていたので結構な人が来られていました。
余談ですけど、誰も居ない厭離庵を知りたかったら、11月上旬に行けば本当に誰も居ません。モミジも色づいていませんので青モミジですし、拝観料もお得なんですけど・・・。
表門を入って右手には、槙の生垣が続き、その正面には茅葺きの中門と腰掛待合があり入っていきます。
この趣ある、茅葺きの中門と腰掛待合。これも通常拝観と同じですが、せっかく来たので写真に納めてみました。(写真は、少しだけ石段を上がって撮りました。)
この腰掛待合か急なら石段を上がると、茶室「時雨亭」に通じているんでしょうけど、ここからは上がれません。それは後程・・・。それにしても下から見ると斜面から迫り出して建っていますね。
さらに左手奥に進めば、藤原定家が筆を洗う水を汲んだとされる「柳の水(柳の井)」があり、今も湧き水が絶えないとか・・・。
下から茶室「時雨亭」を見上げたあと、奥にも行って見ましたが、通常拝観と同様、行けません。そしたら石段を上がることにしました。
石段を上がりきると、庭園の入口に中門がありますが、特にくぐらなくても大丈夫です、書院にも行けますし、皆さんそうされました。
私は、何度か来てるので、書院の手前に茶室「時雨亭」があるの知っていました。それで見学に行くと、そこには学生さんが暇そうにスタンバスされてて、案内をしてくれました。
先ずは、茶室の前の蹲踞です。先程の腰掛待合から石段を上がり、飛び石を伝って歩いていけば、この蹲踞の前に出てくるんでしょう。
ここも特別公開のように思われるかも知れませんが、通常拝観でも見られます。ただ解説はありませんが・・・。
時雨亭は、「百人一首」を選定した藤原定家の山荘“時雨亭”の名を付けた茶室で、1923年(大正12年)に裏千家に出入りしていた数寄屋大工の岡田永斉によって建てられました。櫛形窓は桂離宮を模したもの。また、天井は三畳分は化粧屋根裏、手前坐の上は小さい丸竹を並べて編んでいます。これは高台寺の傘亭を模したもので、広縁の二畳大の吹放しの月見台は、苔寺の湘南亭を模して建てられています。なお、床の間の掛け軸は、「山岡鉄舟」筆のものが掛けてありました。
皆さん書院に行かれたので、誰も茶室には入って来られません。ゆっくり観賞できました。そして初めて書院に上がります。紅葉時には、広縁に腰を降ろして座ることはできますが・・・記憶では上がれなかったように・・・思います。
それて、古い写真を確認すると・・・2010年(平成22年)11月には書院に・・・上がっていました。ここも特別じゃ・・・なかったです。
ここで厭離庵の沿革について学生が案内されました。ただ棒読みでしたが・・・。この日訪れた遍照寺もそうですが、まぁ・・・正直、何を話されているのか分かりませんでした。
厭離庵は、臨済宗天龍寺派に属する寺院です。小倉百人一首を編纂した藤原定家の山荘の旧蹟でしたが、久しく荒廃していたのを冷泉家が修復し、霊元法皇から「厭離庵」の寺号を賜り1772年(安永元年)から白隠禅師の高弟霊源禅師が開山となりましたが、明治期に廃仏毀釈により再び荒廃。1910年(明治43年)貴族議員白木屋社長・大村彦太郎が仏堂と庫裏を建立し、山岡鉄舟の娘・素心尼が住職となり、以降尼寺として現在に至っています。
書院で案内を聞いたあと、再び庭園の入口まで戻り庭園を散策しました。真っ赤な紅葉も良いですけど、綺麗な杉苔と青モミジも美しいです。
庭園には、誰の歌碑か分かりませんが、百人一首なんでしょうか・・・。それに、「楠の化石の橋」なんかもありました。長らく公開されなかったので、庭は傷みが無くこのように苔生す庭となったとのことです。
最後に本堂に上がりますが、その本堂に上がる階段の右側に、「定家塚」があります。鎌倉時代の歌聖、藤原定家を偲ぶ“五輪塔“がひっそりと佇んでいました。
最後に本堂です。ここは紅葉の時期でも内部に入ることはできません。ここだけ特別に今回は入れるので楽しみにしていました。
本尊は、如意輪観音像で、天井画の“飛天”は、東京芸術大学名誉教授・西村公朝氏によるものです。この本堂は1950年(昭和25年)ジェーン台風で倒壊しましたが、1953年(昭和28年)に再建されました。
堂内の写真は、断られたので2010年(平成22年)訪問時のものを使いました。私は、西村公朝氏と聞いて直ぐに愛宕念仏寺を思い浮かべましたが、ガイドさんは知らなかったようです。
本堂に入って、直ぐに出ました。外からみたとおり予想外のことはなかったです。ただご本尊は間近でお参りさせて貰いました。
「特別公開」と謳われていましたが、秋の紅葉時と比べて・・・本堂内に入れるぐらいでしたね、その本堂も、そんなに広くないので・・・。あまり期待せずに来ましたが、予想通りでした。今年の「平成29年度 春季 京都非公開文化財特別公開」は、普段から公開されてる寺院が、寺宝を見せる・・・そんなパターンで、ドキドキ・ワクワク感が皆無でした。ですから“招待券”だけで回った次第です。(残り1枚は、予告ですが鹿王院で使いました。)
【厭離庵 本堂】
清涼寺の西門を出たら、愛宕街道に出るので暫く西に進むと、街道沿いに看板が出ています。この看板が無いと殆どの人は分からないでしょうね。
その露地を進むと表門があり、その手前の左手に臨時の拝観受付がありました。受付は学生さんがされてて、こでこも京都市文化観光資源保護財団からいただいた拝観券を出しました。この厭離庵は、紅葉の名所で、毎年11月中は公開されますが、最近は行けてません。紅葉が色づく前の拝観料が600円、色づいたら800円だったと記憶しています。
秋には、真っ赤に染まる境内も、今は青モミジが一杯です。この時、既に10時を回っていたので結構な人が来られていました。
余談ですけど、誰も居ない厭離庵を知りたかったら、11月上旬に行けば本当に誰も居ません。モミジも色づいていませんので青モミジですし、拝観料もお得なんですけど・・・。
表門を入って右手には、槙の生垣が続き、その正面には茅葺きの中門と腰掛待合があり入っていきます。
この趣ある、茅葺きの中門と腰掛待合。これも通常拝観と同じですが、せっかく来たので写真に納めてみました。(写真は、少しだけ石段を上がって撮りました。)
この腰掛待合か急なら石段を上がると、茶室「時雨亭」に通じているんでしょうけど、ここからは上がれません。それは後程・・・。それにしても下から見ると斜面から迫り出して建っていますね。
さらに左手奥に進めば、藤原定家が筆を洗う水を汲んだとされる「柳の水(柳の井)」があり、今も湧き水が絶えないとか・・・。
下から茶室「時雨亭」を見上げたあと、奥にも行って見ましたが、通常拝観と同様、行けません。そしたら石段を上がることにしました。
石段を上がりきると、庭園の入口に中門がありますが、特にくぐらなくても大丈夫です、書院にも行けますし、皆さんそうされました。
私は、何度か来てるので、書院の手前に茶室「時雨亭」があるの知っていました。それで見学に行くと、そこには学生さんが暇そうにスタンバスされてて、案内をしてくれました。
先ずは、茶室の前の蹲踞です。先程の腰掛待合から石段を上がり、飛び石を伝って歩いていけば、この蹲踞の前に出てくるんでしょう。
ここも特別公開のように思われるかも知れませんが、通常拝観でも見られます。ただ解説はありませんが・・・。
時雨亭は、「百人一首」を選定した藤原定家の山荘“時雨亭”の名を付けた茶室で、1923年(大正12年)に裏千家に出入りしていた数寄屋大工の岡田永斉によって建てられました。櫛形窓は桂離宮を模したもの。また、天井は三畳分は化粧屋根裏、手前坐の上は小さい丸竹を並べて編んでいます。これは高台寺の傘亭を模したもので、広縁の二畳大の吹放しの月見台は、苔寺の湘南亭を模して建てられています。なお、床の間の掛け軸は、「山岡鉄舟」筆のものが掛けてありました。
皆さん書院に行かれたので、誰も茶室には入って来られません。ゆっくり観賞できました。そして初めて書院に上がります。紅葉時には、広縁に腰を降ろして座ることはできますが・・・記憶では上がれなかったように・・・思います。
それて、古い写真を確認すると・・・2010年(平成22年)11月には書院に・・・上がっていました。ここも特別じゃ・・・なかったです。
ここで厭離庵の沿革について学生が案内されました。ただ棒読みでしたが・・・。この日訪れた遍照寺もそうですが、まぁ・・・正直、何を話されているのか分かりませんでした。
厭離庵は、臨済宗天龍寺派に属する寺院です。小倉百人一首を編纂した藤原定家の山荘の旧蹟でしたが、久しく荒廃していたのを冷泉家が修復し、霊元法皇から「厭離庵」の寺号を賜り1772年(安永元年)から白隠禅師の高弟霊源禅師が開山となりましたが、明治期に廃仏毀釈により再び荒廃。1910年(明治43年)貴族議員白木屋社長・大村彦太郎が仏堂と庫裏を建立し、山岡鉄舟の娘・素心尼が住職となり、以降尼寺として現在に至っています。
書院で案内を聞いたあと、再び庭園の入口まで戻り庭園を散策しました。真っ赤な紅葉も良いですけど、綺麗な杉苔と青モミジも美しいです。
庭園には、誰の歌碑か分かりませんが、百人一首なんでしょうか・・・。それに、「楠の化石の橋」なんかもありました。長らく公開されなかったので、庭は傷みが無くこのように苔生す庭となったとのことです。
最後に本堂に上がりますが、その本堂に上がる階段の右側に、「定家塚」があります。鎌倉時代の歌聖、藤原定家を偲ぶ“五輪塔“がひっそりと佇んでいました。
最後に本堂です。ここは紅葉の時期でも内部に入ることはできません。ここだけ特別に今回は入れるので楽しみにしていました。
本尊は、如意輪観音像で、天井画の“飛天”は、東京芸術大学名誉教授・西村公朝氏によるものです。この本堂は1950年(昭和25年)ジェーン台風で倒壊しましたが、1953年(昭和28年)に再建されました。
堂内の写真は、断られたので2010年(平成22年)訪問時のものを使いました。私は、西村公朝氏と聞いて直ぐに愛宕念仏寺を思い浮かべましたが、ガイドさんは知らなかったようです。
本堂に入って、直ぐに出ました。外からみたとおり予想外のことはなかったです。ただご本尊は間近でお参りさせて貰いました。
「特別公開」と謳われていましたが、秋の紅葉時と比べて・・・本堂内に入れるぐらいでしたね、その本堂も、そんなに広くないので・・・。あまり期待せずに来ましたが、予想通りでした。今年の「平成29年度 春季 京都非公開文化財特別公開」は、普段から公開されてる寺院が、寺宝を見せる・・・そんなパターンで、ドキドキ・ワクワク感が皆無でした。ですから“招待券”だけで回った次第です。(残り1枚は、予告ですが鹿王院で使いました。)
【厭離庵 本堂】