丹波路を行く 京都府南丹市 園部城跡へ
5月20日(土)は、前週に拝観できなかった寺院を予約しました。その寺院は亀岡市ですが、その前に旧園部町・・・現在の京都府南丹市にある園部城跡を見学に行きました。
園部城は、明治維新後晴れて新築された「日本最後の城郭建築」なんです
。
京都府立園部高校の校門として使われているのが、櫓門です。園部城を見学するには、その園部高校に入る必要がありますが、事前に調べて見学は自由たとか。
土曜日の8時40分頃に着きましたが、部活に来られる生徒さんや、何かの試合で来られてたであろう他校の生徒さんは多かったです。
それでも黙って入るのは気が引けるので、事務所に声を掛けようと、生徒さんに事務所の場所を聞くと他校の生徒さんでした
。女房は、ここの卒業生ですが、随分変わってしまったらしく分からずウロウロしてたら先生が出勤されてきて、「自由に見学して下さい」と。それと園部城の資料もいただきました
。
こちらが巽櫓(たつみやぐら)です。願わくば内部も見たかったです。校内から撮りましたが、思い切り逆光で・・・超眩しい・・・です。
櫓門、巽櫓、そして番所。すべて、明治維新後に新築された建物で、前途のとおり「日本最後の城郭建築」と言えます。ただ園部城は、その3年後に建物の大部分は取り壊されてしまいました。
小出吉親(こいでよしちか)が1619年(元和5年)但馬国出石より、園部藩主として赴任しましたが、園部城の築城を幕府に願い出た所、既に「泰平の世に」となり許可が下りませんでした。そのため園部城は、天守閣や櫓を持たない「園部陣屋」を建設し藩政を執り行いました。そして時代は幕末へと進み、京都も武力衝突が頻発し政情不安のおり、10代藩主・小出 英尚(こいで ふさなお)は明治維新後に園部城の大改修に着手し、1869年(明治2年)8月に上棟式が行われましたが、これは朝廷の命によるものでした。
こちらが多分・・・園部高校の事務所だと思います。女房が在学中に比べて、校内の様子が随分変わったみたいで、事務所も探しました
。
左から、巽櫓・番所・櫓門です。見学は土曜と日曜が良いかと思います。平日では通学でこの門を使われるでしょうしね
。
自宅を7時30分頃に出たので、1時間以上はかかりました。やっぱり亀岡と違って遠いです。車は、お隣の園部公園の駐車場に止めました。ここは広いの何台でも止められます。その園部公園から気になる建物が・・・
。
園部城天守閣が、こんな所に・・・園部城の本丸は現在は園部高校の校舎が建っているのに・・・それより園部城って、幕末まで櫓さえ無かった筈なのに・・・
。
南丹市役所に隣接する南丹市立会館国際交流会館の建物で、京都縦貫道から見た事がありましたが、ここにあったんですね。少しばかり散策していくこしました。
先に隣接する園部公園を散策しました。何か城跡が見つかるかなぁ・・・と期待したんですが、それより面白い動物の置物が気になりました。
園部公園の片隅で見つけた古びた石碑です。この時は、何も知りませんでしたが、三祟社(さんすうしゃ)と言い、最後の藩主・小出 英尚(こいで ふさなお)が設置したものです。
1853年(嘉永6年)に最後の藩主・小出 英尚(こいで ふさなお)が、初代藩主・小出吉親が亡くなってから185後に、吉親の祖父・小出秀政の250回忌にあたる年に設置しました。秀政は“本光(もとてる)大明神”、吉政(吉親ひの父)は“雲龍(くもた)大明神”、吉親は“福源(よしもと)大明神”という神となって祀られ、祠は「三崇社」と呼ばれました。
園部高校でいただいた資料に書いてありました
。帰って資料を読んで分かったことですが、昨年の秋はライトアップもされたようですね、今年もしてくれないかなぁ・・・。
そして、もう一つの石碑「生身天満宮跡」と書いてあります。予定では、この後に行くつもりにしているので、この石碑の意味を見て来ます。
次は、やっぱり城型の施設「南丹市立会館国際交流会館」を目指して向かいます。1992年(平成4年)に完成した、まだ新しい施設です。
調べると、入館料は無料でしたが、この時は分からなかったので、外観だけ見て帰りました。会館の前には「園部町国際交流会館 野中一二三町長」と書いてあります。
自民党で、陰の総理と言われた、野中広務元幹事長の実弟である野中一二三元町長さんは、姪の結婚披露宴会場に来られ、乾杯の挨拶をされましたが、そのスピーチが尋常じゃなく長くて
、ビールを持つ手が疲れてたのを覚えています
。
船井郡園部町の時に、建てられた施設で、野中さんが尽力されたのでしょう。園内には、啄木鳥の大きなモニュメントもあり、充分楽しみながら駐車場に戻りました。
ここには8時38分に着いて、9時過ぎに出ていきました。次は、ここからほど近い生身天満宮に行く予定にしてました。ナビは不要です、何故なら女房が園部町の地理には詳しいからです。
【園部城跡 巽櫓】

園部城は、明治維新後晴れて新築された「日本最後の城郭建築」なんです

京都府立園部高校の校門として使われているのが、櫓門です。園部城を見学するには、その園部高校に入る必要がありますが、事前に調べて見学は自由たとか。
土曜日の8時40分頃に着きましたが、部活に来られる生徒さんや、何かの試合で来られてたであろう他校の生徒さんは多かったです。
それでも黙って入るのは気が引けるので、事務所に声を掛けようと、生徒さんに事務所の場所を聞くと他校の生徒さんでした


こちらが巽櫓(たつみやぐら)です。願わくば内部も見たかったです。校内から撮りましたが、思い切り逆光で・・・超眩しい・・・です。
櫓門、巽櫓、そして番所。すべて、明治維新後に新築された建物で、前途のとおり「日本最後の城郭建築」と言えます。ただ園部城は、その3年後に建物の大部分は取り壊されてしまいました。
小出吉親(こいでよしちか)が1619年(元和5年)但馬国出石より、園部藩主として赴任しましたが、園部城の築城を幕府に願い出た所、既に「泰平の世に」となり許可が下りませんでした。そのため園部城は、天守閣や櫓を持たない「園部陣屋」を建設し藩政を執り行いました。そして時代は幕末へと進み、京都も武力衝突が頻発し政情不安のおり、10代藩主・小出 英尚(こいで ふさなお)は明治維新後に園部城の大改修に着手し、1869年(明治2年)8月に上棟式が行われましたが、これは朝廷の命によるものでした。
こちらが多分・・・園部高校の事務所だと思います。女房が在学中に比べて、校内の様子が随分変わったみたいで、事務所も探しました

左から、巽櫓・番所・櫓門です。見学は土曜と日曜が良いかと思います。平日では通学でこの門を使われるでしょうしね

自宅を7時30分頃に出たので、1時間以上はかかりました。やっぱり亀岡と違って遠いです。車は、お隣の園部公園の駐車場に止めました。ここは広いの何台でも止められます。その園部公園から気になる建物が・・・


園部城天守閣が、こんな所に・・・園部城の本丸は現在は園部高校の校舎が建っているのに・・・それより園部城って、幕末まで櫓さえ無かった筈なのに・・・

南丹市役所に隣接する南丹市立会館国際交流会館の建物で、京都縦貫道から見た事がありましたが、ここにあったんですね。少しばかり散策していくこしました。
先に隣接する園部公園を散策しました。何か城跡が見つかるかなぁ・・・と期待したんですが、それより面白い動物の置物が気になりました。
園部公園の片隅で見つけた古びた石碑です。この時は、何も知りませんでしたが、三祟社(さんすうしゃ)と言い、最後の藩主・小出 英尚(こいで ふさなお)が設置したものです。
1853年(嘉永6年)に最後の藩主・小出 英尚(こいで ふさなお)が、初代藩主・小出吉親が亡くなってから185後に、吉親の祖父・小出秀政の250回忌にあたる年に設置しました。秀政は“本光(もとてる)大明神”、吉政(吉親ひの父)は“雲龍(くもた)大明神”、吉親は“福源(よしもと)大明神”という神となって祀られ、祠は「三崇社」と呼ばれました。
園部高校でいただいた資料に書いてありました

そして、もう一つの石碑「生身天満宮跡」と書いてあります。予定では、この後に行くつもりにしているので、この石碑の意味を見て来ます。
次は、やっぱり城型の施設「南丹市立会館国際交流会館」を目指して向かいます。1992年(平成4年)に完成した、まだ新しい施設です。
調べると、入館料は無料でしたが、この時は分からなかったので、外観だけ見て帰りました。会館の前には「園部町国際交流会館 野中一二三町長」と書いてあります。
自民党で、陰の総理と言われた、野中広務元幹事長の実弟である野中一二三元町長さんは、姪の結婚披露宴会場に来られ、乾杯の挨拶をされましたが、そのスピーチが尋常じゃなく長くて


船井郡園部町の時に、建てられた施設で、野中さんが尽力されたのでしょう。園内には、啄木鳥の大きなモニュメントもあり、充分楽しみながら駐車場に戻りました。
ここには8時38分に着いて、9時過ぎに出ていきました。次は、ここからほど近い生身天満宮に行く予定にしてました。ナビは不要です、何故なら女房が園部町の地理には詳しいからです。
【園部城跡 巽櫓】