丹波路を行く 京都府亀岡市 臨済宗天龍寺派 金剛寺へ
生身天満宮を出発し、再び9号線を京都に向けて走ります。次の目的地は先週も訪れてましたが、お留守のため、本日“午前中の訪問を予約”してました。あまり遅くなっては失礼になるため、次の次のを飛ばして向かった所は、圓山應擧ゆかりの臨済宗天龍寺派 金剛寺で、應擧と所縁が深いことから「応挙寺」とも呼ばれています。
この門前に10時15分頃に着きました。本当は、先週と同じく穴太寺の駐車場(500円)に入れるつもりが、ナビがとんでもない狭い道を案内して四苦八苦したので、ここまで車で来てしまいました。
先週の門前は、躑躅が咲いていましたが、一週間たってすっかり・・・全て落ちてました。ちなみに、ここまで車で来るのはお勧めできません。(道が狭いです)
境内に入る山門は、鐘楼を兼ねています。1771年(明和8年)盤山(ばんざん)和尚の時代に建立され、「亀岡の自然100選」に指定されています。
圓山應擧は、1733年(享保18年)5月1日に、丹波国穴太村(現在の亀岡市曽我部町穴太)の農家、圓山藤左衛門の次男・岩次郎として誕生し、8歳の頃から菩提寺である金剛寺の住職玉堂和尚のもとで小僧生活をおくりました。
山門を入ると正面に、1999年(平成11年)に再建れさた本堂があって、右手前には「平和観音菩薩」が祀られています。
本堂の右手には、本堂と同じ時期に再建された庫裏の玄関があって、今日は予約していたので、安心して呼鈴を押せました。
玄関を入って、長い廊下を通って本堂に通されました。普段は用心が悪いので閉められていますが、私らが来たので本堂を開放してもらいました。
堂内に入るとお寺の方より説明をしていただきました。ここは天龍寺派の末寺だったんですね、それならご本尊は釈迦如来像だと思います。
圓山應擧は、小僧生活で当時の住職玉堂和尚によって、類い希な絵の才能を見いだされ、和尚の勧めにより京都へ出て絵の勉強をするこになりました。その後、画家として圓山應擧は大成し、1788年(天明8年)56歳の時、金剛寺に襖と壁面57面に「山水図」「波濤図」「群仙図」を描き寄進しました。現在は国の重要文化財に指定されています。
堂内には「波濤図」の内8幅が複製ですが常に公開されています(事前予約要)。本物は、東京国立博物館に寄託されてるそうです。
現在の本堂は老朽化により前途のとおり再建されましたが、圓山應擧が寄進した当時の本堂の模型も展示してあり、襖絵の位置なんか分かるようにしてあります。
簡単に・・・でもなった・・・していただいたら、御朱印をお願いしました。後は自由に堂内を見て回りました。
圓山應擧が33歳の時に描いた「玉堂和尚肖像画」・・・小僧生活を送った時の住職を描いたものです。また「圓山應擧の書簡」もありました。
直木賞作家・水上勉さんの色紙の展示があって、確かに説明されたように思いますが・・・覚えていません。
水上勉さんの出身が福井県の貧しい農家で生まれ食扶持減らしいのため等持院に預けられ8歳で得度されるも17歳で還俗。その後、転職を繰り返し作家になられました。また、金剛寺第14世譲山和尚も福井県の出身で、水上勉さんと同じ境遇だったことから、水上勉さんとは小僧時代に交流があったようです。そして1985年(昭和60年)に亀岡市で仏教会の講演会に、水上勉さんが駆けつけられた時、金剛寺に宿泊され、酒を酌み交わし昔話に花を咲かせたようで、その時に何枚か色紙を書かれたものです。
拝観料をお尋ねしましたが、「いただいてません」との事で、丁寧に説明していただいたのに申し訳ないので、圓山應擧の色紙を購入しました。
金剛寺では、毎年11月3日の「文化の日」に「応挙作品特別公開」として、予約不要で一般無料公開されます。
お寺の方の話では、毎年400名から500名も来られるそうで、駐車場も普段は止められない、近くの小幡神社駐車場も使えるそうです。もちろん金剛寺も駐車場ありますが、道が大変狭いです。
ここで小幡神社の話が出たので、「小幡神社には、朱印ありますか」と尋ねてみたら、「宮司さんは亡くなられたけど、奥様がご在宅なら貰えます」と。先週も訪問したんですけど、人が常駐しているとは思えなかったので・・・聞いてみるものです。
堂内に、30分弱滞在して、ゆっくり複製品ですが、圓山應擧の作品を見せて貰い、朱印帳と色紙を受け取り外に出ました。
出ると本堂前の庭園を撮りました。手前が地蔵堂で、後方は築山(つきやま)と十三重の塔が見えています。
圓山應擧は、ここで小僧生活を送りましたが、昨年の秋には、京都太秦にある悟眞寺に行き、應擧のお墓を見て来ました。そんなことを思い出しながら、次の小幡神社に向かいましたが、そこは歩いて2分ぐらいでしょう、しかし車で来たので狭い道をバックして5分もかかってしまいました。
【金剛寺(應擧寺)】
この門前に10時15分頃に着きました。本当は、先週と同じく穴太寺の駐車場(500円)に入れるつもりが、ナビがとんでもない狭い道を案内して四苦八苦したので、ここまで車で来てしまいました。
先週の門前は、躑躅が咲いていましたが、一週間たってすっかり・・・全て落ちてました。ちなみに、ここまで車で来るのはお勧めできません。(道が狭いです)
境内に入る山門は、鐘楼を兼ねています。1771年(明和8年)盤山(ばんざん)和尚の時代に建立され、「亀岡の自然100選」に指定されています。
圓山應擧は、1733年(享保18年)5月1日に、丹波国穴太村(現在の亀岡市曽我部町穴太)の農家、圓山藤左衛門の次男・岩次郎として誕生し、8歳の頃から菩提寺である金剛寺の住職玉堂和尚のもとで小僧生活をおくりました。
山門を入ると正面に、1999年(平成11年)に再建れさた本堂があって、右手前には「平和観音菩薩」が祀られています。
本堂の右手には、本堂と同じ時期に再建された庫裏の玄関があって、今日は予約していたので、安心して呼鈴を押せました。
玄関を入って、長い廊下を通って本堂に通されました。普段は用心が悪いので閉められていますが、私らが来たので本堂を開放してもらいました。
堂内に入るとお寺の方より説明をしていただきました。ここは天龍寺派の末寺だったんですね、それならご本尊は釈迦如来像だと思います。
圓山應擧は、小僧生活で当時の住職玉堂和尚によって、類い希な絵の才能を見いだされ、和尚の勧めにより京都へ出て絵の勉強をするこになりました。その後、画家として圓山應擧は大成し、1788年(天明8年)56歳の時、金剛寺に襖と壁面57面に「山水図」「波濤図」「群仙図」を描き寄進しました。現在は国の重要文化財に指定されています。
堂内には「波濤図」の内8幅が複製ですが常に公開されています(事前予約要)。本物は、東京国立博物館に寄託されてるそうです。
現在の本堂は老朽化により前途のとおり再建されましたが、圓山應擧が寄進した当時の本堂の模型も展示してあり、襖絵の位置なんか分かるようにしてあります。
簡単に・・・でもなった・・・していただいたら、御朱印をお願いしました。後は自由に堂内を見て回りました。
圓山應擧が33歳の時に描いた「玉堂和尚肖像画」・・・小僧生活を送った時の住職を描いたものです。また「圓山應擧の書簡」もありました。
直木賞作家・水上勉さんの色紙の展示があって、確かに説明されたように思いますが・・・覚えていません。
水上勉さんの出身が福井県の貧しい農家で生まれ食扶持減らしいのため等持院に預けられ8歳で得度されるも17歳で還俗。その後、転職を繰り返し作家になられました。また、金剛寺第14世譲山和尚も福井県の出身で、水上勉さんと同じ境遇だったことから、水上勉さんとは小僧時代に交流があったようです。そして1985年(昭和60年)に亀岡市で仏教会の講演会に、水上勉さんが駆けつけられた時、金剛寺に宿泊され、酒を酌み交わし昔話に花を咲かせたようで、その時に何枚か色紙を書かれたものです。
拝観料をお尋ねしましたが、「いただいてません」との事で、丁寧に説明していただいたのに申し訳ないので、圓山應擧の色紙を購入しました。
金剛寺では、毎年11月3日の「文化の日」に「応挙作品特別公開」として、予約不要で一般無料公開されます。
お寺の方の話では、毎年400名から500名も来られるそうで、駐車場も普段は止められない、近くの小幡神社駐車場も使えるそうです。もちろん金剛寺も駐車場ありますが、道が大変狭いです。
ここで小幡神社の話が出たので、「小幡神社には、朱印ありますか」と尋ねてみたら、「宮司さんは亡くなられたけど、奥様がご在宅なら貰えます」と。先週も訪問したんですけど、人が常駐しているとは思えなかったので・・・聞いてみるものです。
堂内に、30分弱滞在して、ゆっくり複製品ですが、圓山應擧の作品を見せて貰い、朱印帳と色紙を受け取り外に出ました。
出ると本堂前の庭園を撮りました。手前が地蔵堂で、後方は築山(つきやま)と十三重の塔が見えています。
圓山應擧は、ここで小僧生活を送りましたが、昨年の秋には、京都太秦にある悟眞寺に行き、應擧のお墓を見て来ました。そんなことを思い出しながら、次の小幡神社に向かいましたが、そこは歩いて2分ぐらいでしょう、しかし車で来たので狭い道をバックして5分もかかってしまいました。
【金剛寺(應擧寺)】