丹波路を行く 京都府亀岡市 小幡神社へ
金剛寺(應擧寺)と同じ町内にある、小幡神社は先週も訪れていました。しかし、先程訪れた、金剛寺で朱印があることを教えていただいたので再訪することとなりました。
府道407号線の大堰川に架かる橋の北側の側道を下ると小幡神社の入口があって「延喜式内 小幡神社」の大きな社号標が目印です。
12日(金)は、穴太寺から歩いてきたので、ここを通りましたが、20日(土)は、金剛寺から来たので、ここを通りませんでした。
階段を下りると、大きな石造りの鳥居があり、「小幡神社」と書かれた大きな扁額が架かっています。
先週にお参りしているので、さっそく教えていただいた宮司さん宅の呼鈴を押すことにしました。金剛寺で聞いてなかったら多分・・・来てなかったでしょう。
ここが社務所だとは思いませんでした。ここで御朱印と由緒書きをいただけました。それより先週は誰も居なかった境内に、2名から3名の参拝者が来られているのが驚きでした。
当社は、第10代崇神(すうじん)天皇の命により派遣された※四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、第9代開化天皇を主神として祀っ たことに始まるといわれ、開化天皇の御子 の彦坐王(ひこいますのみこ)とその御子小俣王(おまたのみこ)の3代を奉斎し ています。また社伝等によると、708年(和銅元年) に、丹波国司大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が霊域に社殿 を建立され、927年(延長5年)に編纂さ れた『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。社蔵の棟札によると1442年(文和元年)には管領細川政元の本殿造営とその後、1492年(明応元年)を始めとする修造、屋根 葺替えが行われています。現在の社殿は、1683年(天和3年)に造立された一間社流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に、二重虹梁大瓶束(こうりょうたいへいそく)を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財となっています。また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。 (案内板より)
※四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。(Wikipediaより)
境内の西側の奥に本殿がありますが、その前には拝殿がありました。実は、この下も通れたんですけど・・・。
その右手にあったのが手水舎で、どうやら水道栓をひねるみたいですけど、水道水か地下水か知りませんが・・・私は・・・ひねってません。
京大名誉教授で歴史学者上田正昭宮司の歌碑 「山川も草木も人も共生の いのちかがやけ新しき世に」がありました。20日(土)は天気が良すぎたので、12日(金)を付けました。
本殿は、東向きに一段高い所にあって、昼間でも木立が鬱蒼としており薄暗いです。
御祭神は、第9代開化天皇(かいかてんのう)、配祀に、彦坐王(ひこいますのみこ、第9代開化天皇の第3皇子)、小俣王(おまたのみこ)です。
次ぎに、伏見稲荷大社の千本鳥居を思わせる(思わない)鳥居が並んでいるので奥に進みます。
ここはもっと薄暗いので、天気が良かったのに、フラッシュ使っています。多分・・・稲荷社だと思いますが・・・。
20日(土)は、ここまでで出て行きましたが、13日(金)はもう少し散策したので・・・先ずは本殿石段下の右側からです。
石段下の社殿は、木札から百太夫社と祖霊社だと分かりました。石段上は、多分・・・神馬舎でしょか(それにしては小さすぎる)、中には鞍が入ってました。
写真上が、本殿の右側にあった地主社です。つぎが写真中で、本殿の左手にあった遷之宮で、最後が本殿の左側にあった大原社です。
御朱印をいただいたら、駐車場に戻り10時52分には、出て行きました。今度は、再び園部の方向に向かいますが・・・直ぐの所です。
【小幡神社 本殿】
府道407号線の大堰川に架かる橋の北側の側道を下ると小幡神社の入口があって「延喜式内 小幡神社」の大きな社号標が目印です。
12日(金)は、穴太寺から歩いてきたので、ここを通りましたが、20日(土)は、金剛寺から来たので、ここを通りませんでした。
階段を下りると、大きな石造りの鳥居があり、「小幡神社」と書かれた大きな扁額が架かっています。
先週にお参りしているので、さっそく教えていただいた宮司さん宅の呼鈴を押すことにしました。金剛寺で聞いてなかったら多分・・・来てなかったでしょう。
ここが社務所だとは思いませんでした。ここで御朱印と由緒書きをいただけました。それより先週は誰も居なかった境内に、2名から3名の参拝者が来られているのが驚きでした。
当社は、第10代崇神(すうじん)天皇の命により派遣された※四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、第9代開化天皇を主神として祀っ たことに始まるといわれ、開化天皇の御子 の彦坐王(ひこいますのみこ)とその御子小俣王(おまたのみこ)の3代を奉斎し ています。また社伝等によると、708年(和銅元年) に、丹波国司大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が霊域に社殿 を建立され、927年(延長5年)に編纂さ れた『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。社蔵の棟札によると1442年(文和元年)には管領細川政元の本殿造営とその後、1492年(明応元年)を始めとする修造、屋根 葺替えが行われています。現在の社殿は、1683年(天和3年)に造立された一間社流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に、二重虹梁大瓶束(こうりょうたいへいそく)を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財となっています。また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。 (案内板より)
※四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。(Wikipediaより)
境内の西側の奥に本殿がありますが、その前には拝殿がありました。実は、この下も通れたんですけど・・・。
その右手にあったのが手水舎で、どうやら水道栓をひねるみたいですけど、水道水か地下水か知りませんが・・・私は・・・ひねってません。
京大名誉教授で歴史学者上田正昭宮司の歌碑 「山川も草木も人も共生の いのちかがやけ新しき世に」がありました。20日(土)は天気が良すぎたので、12日(金)を付けました。
本殿は、東向きに一段高い所にあって、昼間でも木立が鬱蒼としており薄暗いです。
御祭神は、第9代開化天皇(かいかてんのう)、配祀に、彦坐王(ひこいますのみこ、第9代開化天皇の第3皇子)、小俣王(おまたのみこ)です。
次ぎに、伏見稲荷大社の千本鳥居を思わせる(思わない)鳥居が並んでいるので奥に進みます。
ここはもっと薄暗いので、天気が良かったのに、フラッシュ使っています。多分・・・稲荷社だと思いますが・・・。
20日(土)は、ここまでで出て行きましたが、13日(金)はもう少し散策したので・・・先ずは本殿石段下の右側からです。
石段下の社殿は、木札から百太夫社と祖霊社だと分かりました。石段上は、多分・・・神馬舎でしょか(それにしては小さすぎる)、中には鞍が入ってました。
写真上が、本殿の右側にあった地主社です。つぎが写真中で、本殿の左手にあった遷之宮で、最後が本殿の左側にあった大原社です。
御朱印をいただいたら、駐車場に戻り10時52分には、出て行きました。今度は、再び園部の方向に向かいますが・・・直ぐの所です。
【小幡神社 本殿】