臨済宗唯一の尼僧修行道場であった圓光寺へ

八大神社を9時37分に出て、次の圓光寺まで徒歩で向かいました。理由は近いのと(約3分程度)、圓光寺の前の道が狭いことにつきます。

今まで天気は良かったんですが、ここに来て曇ってきました。圓光寺の門前には9時40分に着きましたが、ここは紅葉の名所・・・青モミジで来る人は少ないだろうと、たかをくくってましたが、そんな事はありません。数名の人が来られてました。

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表門には「瑞巌山 圓光寺」の石標が立っており、拝観受付は右手にありました。そこで500円を納めて入ると・・・。

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ここには、2005年(平成17年)11月28日と2010年(平成22年)6月5日に来ているので3回目です。受付を済ませて、参道を見ると両側には、綺麗に牡丹が咲いています。

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ひとつ一つ、今が見頃の牡丹を観賞しながら奥に進みます。ここに牡丹があるのは知らなかったので驚きましたし、正直ノーマークでしたね。

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予想外の牡丹を見たら石段を上がって行きます。途中に観音様を左手に見ながら石段を上がると、綺麗な庭園を目にします。

奔龍庭ほんりゅうてい)」と書かれた“立札”で庭園名が分かりました。この枯山水庭園を見て、ある有名な作庭家を思い浮かべましたが、帰りに拝観受付で確認すると違ってました

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枝垂れ桜が咲いたら綺麗でしょうね。そう思いながら、ある有名な作庭家らしいていだなぁ・・・とおもったんですが・・・違ってて・・・庭師の方と住職さんが考えられたみたいです。

白砂を雲海に見立てて、天空を自在に奔る龍を石組であらわした枯山水庭園。龍の頭部と背中付近にそびえ立つ石柱はかつて井戸の部材として使われていたもの。

奥に寺宝が見られてる「瑞雲閣」がありますが、帰りに寄ることにして、先に進みます。すると方丈の手前に中門があって、それをくぐると・・・。

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水琴窟」がありました。水琴窟を見ると、お決まりの音色を確認。縁が広い盃型の手水鉢を用いた水琴窟は稀で「圓光寺型」として知られているそうです。

水琴窟の音色を確認したら、左手に書院そして正面に坐禅堂がありますが、ともに後回しです・・・本当は書院の中に人が居たので先に庭園を見た・・・と言うことです。

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秋には真っ赤に染まる「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」も新緑の青モミジでは、人が少ないのでゆっくり観賞できます。

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初めて訪れた2005年(平成17年)では“隠れ紅葉の名所”と言われましたが、今では・・・とんでもない人が押し寄せるようになりました。青モミジのトンネルを抜けると、そこには栖龍池(せいりゅうち)がありました。

牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして近世初期に造られた池泉回遊式庭園で、庭園南側には洛北最古の泉水、栖龍池があります。

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栖龍池(せいりゅうち)と竹林を抜けると視界が開けて、そこには古井戸鐘楼がありました。その鐘楼の横が坐禅堂で帰りに寄ることにします(この時は座禅堂とは知らなかったのが本音です)。

過去2回訪れた圓光寺ですが、この先には行ったことがありませんでした。展望が良いとの情報を得たので是非行ってみたくなったんです。

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それで汗を拭きながら階段を上がります。前に来た時、どれくらい上がるのか不安でしたが・・・答えは・・・たいしたことはありません

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汗が出るほどでもない階段を上がるとそこには、「東照大権現(徳川家康)の墓」があります。何故か・・・この圓光寺の開基が家康で、歯が埋葬されてるそうです。

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ただ残念だったのは、上が工事中のため写真以上・・・前に進むことはできません。それでも京都市街地は見えました。知らず知らず、こんなに登って来てたんですよね・・・それより何を工事されてたのか・・・

再び階段を降りると、案内板に「村山たか女」「オマール氏の墓」と書いてありました。特にて木札に解説が書いてあったので読んでるとのと、下には武者小路実篤が碑文を残していました。

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「オマール君 君はマレーからはるばる日本の広島に勉強しに来てくれた。それなのに君を迎えたのは原爆だった。嗚呼実に実に残念である。君は君の事を忘れない日本人のあることを記憶していただきたい。」と。

【マレーシア留学生のサイド・オマール氏は、マレーシア王族の出身で広島で被爆。その後、京都にて死去。】

何気なく寄ってみたら・・・戦争の悲惨さ平和の大切さを訴えるもので、読んでみて胸にジーンと来ました。それに私でも読める字・・・でした。これで下に降り、鐘楼に寄ってみたら、横が坐禅堂だった訳です。

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ここ圓光寺は、臨済宗南禅寺派の寺院です。坐禅堂を覗かしてもらいましたが、いかにも臨済宗の寺院・・・だと思いました。(曹洞宗との違い・・・分かるかなぁ・・・

坐禅堂から書院の前を通って、玄関から書院に上がりました。上がる時に「裏千家 呈茶」と書かれてて、着物をきた人がスタンバイされてましたが・・・。

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誰でも申し込めたかどうか自信が無かったのでPass・・・しました。それより、ここから見る「十牛の庭」の青モミジは綺麗でしたね、紅葉なら真っ赤に染まるのでしょう。

書院内は、空いてたので後に下がって、庭園を撮れました。紅葉の時はそうは行かないと思うので、連休初日に来て良かったです

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書院裏の露地庭園も見られました。ガラス戸は開けられないので、これ以上は無理でした。聞くところによると、この先に茶室「待月庵」があるそうです。

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こちらは書院の奥にある「茶室」です。中に入ることはできませんが、充分観賞できましたが・・・狭いですね

書院内は、写真を撮っただけで出ることにしました。紅葉もないけど、数名の方が入って来られたので、これ以上は気に入った写真を撮るのも無理だと・・・思ったからです。

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こちらは仏間で、ご本尊の千手観音菩薩坐像が祀られているので、お賽銭をしてお参りしました。ご本尊は、由緒書きでは、伝運慶作と書いてありました。

ここで再び玄関から書院を出ました。私らが出た時、奥から抹茶とお菓子を持ってこられました。美味しそう・・・でした

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こちらは「玄関襖絵」です。案内板があったので読んでみると・・・17世紀に起こった琳派を彷彿とさせ、21世紀の新たな感性で制作した作品。「琳派彩還(りんぱさいげん)」と呼ばれてるみたいです。

最後に、奔龍庭の奥にある「瑞雲閣」に入ります。入るとさほど広くない館内に誰も居ません。

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ここのメインは、圓山應擧の「竹林図屏風」でしょうか、写真も撮れました。ここでもゆっくり観賞し出て行きました。

圓光寺は前途のとおり3回目でしたが、前2回が中途半端でしたかので、これですっきりできました。見事な青モミジをはじめ綺麗な庭園も見られて、来て良かったとつくづく思いました。

圓光寺は、臨済宗南禅寺派の寺院で、開山は、三要元佶(さんようげんきつ)(閑室)禅師、開基は徳川家康。1601年(慶長6年)徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許し、また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または「圓光寺版」と称されました。その後、圓光寺には相国寺山内に移り、さらに1667年(寛文7年)に現在の一乗寺に移転し現在に至っています。

圓光寺には、9時40分に入って10時12分に出て行きました。この日は、この先の「狸谷山不動院」で“春の大般若祈願会”があるそうで、車がひっきりなしに行き交います。そのため、急いで駐車場に戻って、ここを出る予定にしてましたが・・・。

【圓光寺 書院】



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