大石内蔵助良雄 山科隠棲の地 岩屋寺へ
大石神社に次ぎに訪れたのは、岩屋寺でした。岩屋寺にも駐車場はありますが、大石神社に朱印のため戻る必要があったので、車は置いて徒歩で向かことに。
大石神社から南へ程なく歩いていると、右手に「大石太夫閑居址」と書かれた石碑があるので、そこを西に向かいて緩やかな坂を登って行きます。
緩やかに登っていますが、突き当たりに「曹洞宗 神遊山 岩屋寺」の石碑があります。そこから最後の急な階段を上がります。
岩屋寺(いわやじ)の創建時は従来天台宗に属し、比叡山三千坊の一つでした。現在は山号を神遊山(しんゆうざん)と号し、曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で、昔は山科神社の神宮寺であったと伝わります。
結構急な階段を登り切った先には山門があって、そこをくぐると境内に入り正面に本堂が見えました。
山門をくぐると、境内は小さいです。正面に本堂があって、右手に大石辨財天が、左手に毘沙門堂がありました。先ずは本堂の左手にある「近畿三十六不動尊納経所」に行きました。
本堂の前には、小さな光明不動尊像がありましたが、これは本堂に入ったら意味が分かりました。そして留守なら嫌だなぁ・・・と思いながら“納経所”の呼鈴を押すと・・・。
奥からお寺の方が出て来られ、ホットしたところで御朱印をお願いしました。表に張り紙があって「朱印300円」「拝観400円」と書いてあります。そこで拝観もお願いしたところ堂内を開けていただいて「どうぞ」と。
表の張り紙で“400円”とありましたが、堂内でのお参りは要らないと言われ、大石内蔵助の遺品を展示を見て貰う時に、いただいてるとのことです。写真を撮りながら少しだけ案内をしていただいて・・・。
ご本尊は不動明王像で、普段は秘仏だそうです。12月14日の「義士祭」に御開帳されるそうです。拝観料は取られなかったので、お不動さんに蝋燭・・・あげました。
案内で「近畿三十六不動尊の札所」だと案内され、バンフお願いしたところ・・・品切れ・・・残念。襖絵は京都在住の画家・王 石明の水墨画でした。
次ぎに山門を入って右手にある「大石辨財天」にお参りです。
先程、お寺の方より、大石内蔵助が、ここ山科・・・岩屋寺の近くに赤穂から移り住んでた話を聞きました。忠臣蔵で有名な話でしたので知ってましたが、ここから祇園まで毎夜遊びに行ってたとは・・・。
赤穂城主浅野内匠頭長矩は江戸城松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りつけ、内匠頭は即日切腹、お家断絶、領地没収となり赤穂城を明渡することになりました。大石内蔵助良雄は赤穂を出て、ここ山科の地に隠れてひそかに討入りの謀をめぐらしたが、事成ってのち、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進しました。その後、岩屋寺は荒廃したが、嘉永年間(1848年~1854年)に堅譲(けんじょう)尼が京都町奉行浅野長祚(ながとし)の寄付をうけ再興されました。
可愛いお地蔵さんの写真を撮っていたら、ふと猫が横切りました。それが下の写真ですが、逃げられたと思いましたが・・・写ってました。
この手前の燈籠は、「桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)」寄進の石燈籠と刻まれています。桃中軒雲右衛門・・・私は知りませんでしたが、浪曲師なんですよね。
その石燈籠の前にあるのが大石内蔵助邸の廃材で造られたといわれる茶室「可笑庵(かしょうあん)」がありましたが、内部は閉まってて窺い知ることはできません。
境内の最後は毘沙門堂ですが、扉が閉まってて内部の模様は分かりませんが、由緒書きによると・・・。
先程の本堂内でも伺いましたが、12月14日の「義士祭」では、本堂から渡り廊下を通して内部に入れるようで、そこには赤穂47義士の木像が安置されてるようです。
本堂内部も入れて朱印もいただいて、次ぎに来られるなら12月14日に来てみたいです。そして山門を出て石段を下りますが、ここで左に入った奥に「大石内蔵助遺髪塚」がありました。
赤穂事件の、ただ一人の生存者である寺坂吉右衛門が持参した大石内蔵助良男の頭髪を祀った塚で、薄暗い木立の中にありました。
その前には「大石内蔵助良男隠棲旧址」の碑がありました。これは京都府知事(3代目)北垣国道が1901年(明治34年)に知事在任中に建立されたものです。
ここに大石内蔵助良男が住んでいたと思うと感慨深いです。私は見てませんが、春にはこの辺りに桜が綺麗に咲き誇るみたいです。
下に降りると、行きの時から気になってた地蔵堂と大石稲荷大神に寄りました。ここの前に岩屋寺の駐車場があって数台止められるようです。ここには9時過ぎにきて下に降りてきたのは9時35分頃、小さなお寺でしたが、ゆっくり見せていただきました。
次ぎに、大石神社に戻らず、京都市の文化財に指定されている由緒ある神社に行きました。
【岩屋寺】
大石神社から南へ程なく歩いていると、右手に「大石太夫閑居址」と書かれた石碑があるので、そこを西に向かいて緩やかな坂を登って行きます。
緩やかに登っていますが、突き当たりに「曹洞宗 神遊山 岩屋寺」の石碑があります。そこから最後の急な階段を上がります。
岩屋寺(いわやじ)の創建時は従来天台宗に属し、比叡山三千坊の一つでした。現在は山号を神遊山(しんゆうざん)と号し、曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で、昔は山科神社の神宮寺であったと伝わります。
結構急な階段を登り切った先には山門があって、そこをくぐると境内に入り正面に本堂が見えました。
山門をくぐると、境内は小さいです。正面に本堂があって、右手に大石辨財天が、左手に毘沙門堂がありました。先ずは本堂の左手にある「近畿三十六不動尊納経所」に行きました。
本堂の前には、小さな光明不動尊像がありましたが、これは本堂に入ったら意味が分かりました。そして留守なら嫌だなぁ・・・と思いながら“納経所”の呼鈴を押すと・・・。
奥からお寺の方が出て来られ、ホットしたところで御朱印をお願いしました。表に張り紙があって「朱印300円」「拝観400円」と書いてあります。そこで拝観もお願いしたところ堂内を開けていただいて「どうぞ」と。
表の張り紙で“400円”とありましたが、堂内でのお参りは要らないと言われ、大石内蔵助の遺品を展示を見て貰う時に、いただいてるとのことです。写真を撮りながら少しだけ案内をしていただいて・・・。
ご本尊は不動明王像で、普段は秘仏だそうです。12月14日の「義士祭」に御開帳されるそうです。拝観料は取られなかったので、お不動さんに蝋燭・・・あげました。
案内で「近畿三十六不動尊の札所」だと案内され、バンフお願いしたところ・・・品切れ・・・残念。襖絵は京都在住の画家・王 石明の水墨画でした。
次ぎに山門を入って右手にある「大石辨財天」にお参りです。
先程、お寺の方より、大石内蔵助が、ここ山科・・・岩屋寺の近くに赤穂から移り住んでた話を聞きました。忠臣蔵で有名な話でしたので知ってましたが、ここから祇園まで毎夜遊びに行ってたとは・・・。
赤穂城主浅野内匠頭長矩は江戸城松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りつけ、内匠頭は即日切腹、お家断絶、領地没収となり赤穂城を明渡することになりました。大石内蔵助良雄は赤穂を出て、ここ山科の地に隠れてひそかに討入りの謀をめぐらしたが、事成ってのち、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進しました。その後、岩屋寺は荒廃したが、嘉永年間(1848年~1854年)に堅譲(けんじょう)尼が京都町奉行浅野長祚(ながとし)の寄付をうけ再興されました。
可愛いお地蔵さんの写真を撮っていたら、ふと猫が横切りました。それが下の写真ですが、逃げられたと思いましたが・・・写ってました。
この手前の燈籠は、「桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)」寄進の石燈籠と刻まれています。桃中軒雲右衛門・・・私は知りませんでしたが、浪曲師なんですよね。
その石燈籠の前にあるのが大石内蔵助邸の廃材で造られたといわれる茶室「可笑庵(かしょうあん)」がありましたが、内部は閉まってて窺い知ることはできません。
境内の最後は毘沙門堂ですが、扉が閉まってて内部の模様は分かりませんが、由緒書きによると・・・。
先程の本堂内でも伺いましたが、12月14日の「義士祭」では、本堂から渡り廊下を通して内部に入れるようで、そこには赤穂47義士の木像が安置されてるようです。
本堂内部も入れて朱印もいただいて、次ぎに来られるなら12月14日に来てみたいです。そして山門を出て石段を下りますが、ここで左に入った奥に「大石内蔵助遺髪塚」がありました。
赤穂事件の、ただ一人の生存者である寺坂吉右衛門が持参した大石内蔵助良男の頭髪を祀った塚で、薄暗い木立の中にありました。
その前には「大石内蔵助良男隠棲旧址」の碑がありました。これは京都府知事(3代目)北垣国道が1901年(明治34年)に知事在任中に建立されたものです。
ここに大石内蔵助良男が住んでいたと思うと感慨深いです。私は見てませんが、春にはこの辺りに桜が綺麗に咲き誇るみたいです。
下に降りると、行きの時から気になってた地蔵堂と大石稲荷大神に寄りました。ここの前に岩屋寺の駐車場があって数台止められるようです。ここには9時過ぎにきて下に降りてきたのは9時35分頃、小さなお寺でしたが、ゆっくり見せていただきました。
次ぎに、大石神社に戻らず、京都市の文化財に指定されている由緒ある神社に行きました。
【岩屋寺】