清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ
5月28日(日)の嵯峨祭りを母が見てみたいと言うので、車が置けゆっくり見られる所をいろいろ探しました。母は昨年、転倒により腰の骨を複雑骨折したため、体が不自由ななり介添えが必要となりました。そのため少しの距離も車での移動が必要ですので、ここ清涼寺(嵯峨釈迦堂)の駐車場に入れて、仁王門前で見て貰おうと計画を立てた次第です。
地元に住んで気が付かなかったことですが、電線が無くなってます。ここより先の愛宕街道沿いにあった電柱と電線が地中化されたようです。
京都府指定文化財の仁王門は、初層には室町時代の仁王像があって、上層には十六羅漢像が祭られており(上層部は非公開のため上がったことはありません)二階二重門で勇壮です。
仁王門をくぐると、先ずは本堂を目指します。私は家から歩いて来ましたが、母と女房が車で来て、ここの駐車場に入れました。(駐車料金は800円です)
拝観料は400円で、母は手帳があるので無料に。介添え者は・・・400円でした。母は初めての清涼寺で、先ずは堂内のご本尊前に案内です。
本堂も、京都府指定文化財です。堂内内陣の中央には本尊の三国伝来生身釈迦如来像(国宝)が安置されています。1637年(寛永14年)の大火により諸堂宇が消失しましたが、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により1703年(元禄16年)に再建されました。
清涼寺の和尚さんが「内陣の前まで行ってお参り下さい」と言ってもらったので、すごく近くでお参りできたので母も喜んでくれたでしょう。そして次ぎに庭園を見に行きます。
秋には綺麗に紅葉する弁天堂周りの庭園ですが、この時期は青モミジです。ただ、この頃から曇り出したのが残念、久し振りに来たのにね。
本堂の裏側・・・北側には池に面した弁天堂が建っています。江戸時代後期の建立だと考えられ、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いています。また弁天堂の周りは池遊式庭園になっています。
ここから東に向いて長い渡り廊下を歩いて行きます。その先には方丈があって、そこにも枯山水庭園があるからです。
方丈前庭園は、小堀遠州作と伝わっており苔の綺麗なと言いたいところ、少し色褪せてたのが残念です。
方丈は、1637年(寛永14年)に焼失し、享保年間(1716年~1735年)の再建だと伝わります。焼失前は、徳川家康の5女市姫(一照院)の位牌所でした。
この後、再び本堂に戻り寺宝をゆっくり観賞。母はこちらの方に食い入って見てました。ここを出て10時になるのを待って、仁王門の前で“嵯峨祭り”を見学したのは前回アップしました。
現在「嵯峨大狂言」でお馴染みの狂言堂が修復工事中です。2014年(平成26年)には、嵯峨『清凉寺』と『嵯峨大念仏狂言』と題して「文化財特別鑑賞」に参加させてもらい、内部をたっぷり見学しました。また境内を僧侶の方の案内で回れたことは大変良かったです。
本堂の東に位置する阿弥陀堂ですが、こちらは無料で堂内に入ってお参りできます。ここの阿弥陀三尊像(国宝)は、宝物館で見ることができます。(特別公開時のみ、下の写真は梅が咲いた頃です。)
そこから奥に東の端にあるのが「宝物館」があり、春と秋には特別公開されます。この日は行きませんでしたが、「文化財特別鑑賞」に入りました。
手水舎は境内の東側・・・湯豆腐の「竹仙」の前にあります。この写真は本堂に入る前に撮ってましたので天気が良かったんですが・・・入ると曇ってしまい・・・残念でした。
前途しましたが写真右側には、狂言堂がありますが工事中です。境内の西側には多宝塔がありまので、こんどは境内の西側を散策です。
奥に工事中の狂言堂の手前には、清涼寺の開祖・奝然上人(ちょうねんしょうにん)の墓があります。
五台山と号する浄土宗の寺である清涼寺(嵯峨釈迦堂)は、もともとこの地に嵯峨天皇の皇子で『源氏物語』の主人公・光源氏とされる左大臣・源融(みなもとのとおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があったところとされています。源融は自身の往生のため、阿弥陀堂の建立を計画ししたが、895(寛平7年)に没したため、翌年、子息らが完成させ阿弥陀三尊を祀って、棲霞寺(せいかじ)となります。そして989年(永延元年)、奝然上人が愛宕山を中国の五台山に模して清涼寺を建立しようとして志し半ばで没し、弟子の盛算がその意志を継いで棲霞寺内の釈迦堂をもって清涼寺としたものが始まりです。
さらに奥には「嵯峨天皇・檀林皇后宝塔」があります。明治以前はは御陵とされてたもので、北側には嵯峨天皇の宝筐印塔(平安時代中期)、南側に檀林皇后の宝塔(平安時代末期)となっています。
最奥には「源融の墓」があります。源融は第52代嵯峨天皇の十二男。最高の官位は従一位左大臣で、六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれました。
仁王門の側には、以前訪れた大文字屋のあぶり餅の近くに、法然上人24歳「求道青年像」があります。ここは浄土宗・・・開祖は・・・法然上人ですよね。
この大文字屋のあぶり餅の奥には、秋に真っ赤に染まる「聖徳太子殿」があります。法隆寺の“夢殿”に似せて造られたのでしょうか。
仁王門から入って右手・・・境内の南東隅に鳥居があって、「愛宕大権現社」がありますが、こちらは誰も見向きもされないですね。
明治の神仏分離以前は、愛宕・野々宮神社の神事はここで行われたそうです。慶俊僧都(けいしゅんそうず)が愛宕権現を鷹ヶ峰から愛宕山上に移す際に、初めここに祀った故地で、1716年(正徳5年)に大修理が行われています。
この愛宕大権現社の奥に駐車場があるんですが、普段は車で来たことがないので、この先には行ったことが無かったです。それで初めて行ってみると・・・。
八宗論池の手前に小さな石仏があって、その奥には弥勒多宝石仏があり、奥に見えてる建物は一切経蔵です。
この一切経蔵から常にお経テープが流れています。そこには2010年(平成22年)1月に入って、廻したことがあります。入るのに有料でしたが、随分前だし忘れました・・・100円ぐらいだったように思います。
江戸中期の建造物で、堂内の前に、傅大士(ぶだいし)、普建(ふけん)、普成(ふじゃく)の像が祀られています。 堂内中央には、明版一切経(大蔵経)を納めた輪蔵が置かれ、これを回すことで一切経を読んだのと同じ功徳が得られるといいます。
これで清涼寺(嵯峨釈迦堂)は、「文化財特別鑑賞」の狂言堂の見学と合わせてコンプリート出来たかと思います。
【清涼寺(嵯峨釈迦堂) 弁天堂】
地元に住んで気が付かなかったことですが、電線が無くなってます。ここより先の愛宕街道沿いにあった電柱と電線が地中化されたようです。
京都府指定文化財の仁王門は、初層には室町時代の仁王像があって、上層には十六羅漢像が祭られており(上層部は非公開のため上がったことはありません)二階二重門で勇壮です。
仁王門をくぐると、先ずは本堂を目指します。私は家から歩いて来ましたが、母と女房が車で来て、ここの駐車場に入れました。(駐車料金は800円です)
拝観料は400円で、母は手帳があるので無料に。介添え者は・・・400円でした。母は初めての清涼寺で、先ずは堂内のご本尊前に案内です。
本堂も、京都府指定文化財です。堂内内陣の中央には本尊の三国伝来生身釈迦如来像(国宝)が安置されています。1637年(寛永14年)の大火により諸堂宇が消失しましたが、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により1703年(元禄16年)に再建されました。
清涼寺の和尚さんが「内陣の前まで行ってお参り下さい」と言ってもらったので、すごく近くでお参りできたので母も喜んでくれたでしょう。そして次ぎに庭園を見に行きます。
秋には綺麗に紅葉する弁天堂周りの庭園ですが、この時期は青モミジです。ただ、この頃から曇り出したのが残念、久し振りに来たのにね。
本堂の裏側・・・北側には池に面した弁天堂が建っています。江戸時代後期の建立だと考えられ、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いています。また弁天堂の周りは池遊式庭園になっています。
ここから東に向いて長い渡り廊下を歩いて行きます。その先には方丈があって、そこにも枯山水庭園があるからです。
方丈前庭園は、小堀遠州作と伝わっており苔の綺麗なと言いたいところ、少し色褪せてたのが残念です。
方丈は、1637年(寛永14年)に焼失し、享保年間(1716年~1735年)の再建だと伝わります。焼失前は、徳川家康の5女市姫(一照院)の位牌所でした。
この後、再び本堂に戻り寺宝をゆっくり観賞。母はこちらの方に食い入って見てました。ここを出て10時になるのを待って、仁王門の前で“嵯峨祭り”を見学したのは前回アップしました。
現在「嵯峨大狂言」でお馴染みの狂言堂が修復工事中です。2014年(平成26年)には、嵯峨『清凉寺』と『嵯峨大念仏狂言』と題して「文化財特別鑑賞」に参加させてもらい、内部をたっぷり見学しました。また境内を僧侶の方の案内で回れたことは大変良かったです。
本堂の東に位置する阿弥陀堂ですが、こちらは無料で堂内に入ってお参りできます。ここの阿弥陀三尊像(国宝)は、宝物館で見ることができます。(特別公開時のみ、下の写真は梅が咲いた頃です。)
そこから奥に東の端にあるのが「宝物館」があり、春と秋には特別公開されます。この日は行きませんでしたが、「文化財特別鑑賞」に入りました。
手水舎は境内の東側・・・湯豆腐の「竹仙」の前にあります。この写真は本堂に入る前に撮ってましたので天気が良かったんですが・・・入ると曇ってしまい・・・残念でした。
前途しましたが写真右側には、狂言堂がありますが工事中です。境内の西側には多宝塔がありまので、こんどは境内の西側を散策です。
奥に工事中の狂言堂の手前には、清涼寺の開祖・奝然上人(ちょうねんしょうにん)の墓があります。
五台山と号する浄土宗の寺である清涼寺(嵯峨釈迦堂)は、もともとこの地に嵯峨天皇の皇子で『源氏物語』の主人公・光源氏とされる左大臣・源融(みなもとのとおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があったところとされています。源融は自身の往生のため、阿弥陀堂の建立を計画ししたが、895(寛平7年)に没したため、翌年、子息らが完成させ阿弥陀三尊を祀って、棲霞寺(せいかじ)となります。そして989年(永延元年)、奝然上人が愛宕山を中国の五台山に模して清涼寺を建立しようとして志し半ばで没し、弟子の盛算がその意志を継いで棲霞寺内の釈迦堂をもって清涼寺としたものが始まりです。
さらに奥には「嵯峨天皇・檀林皇后宝塔」があります。明治以前はは御陵とされてたもので、北側には嵯峨天皇の宝筐印塔(平安時代中期)、南側に檀林皇后の宝塔(平安時代末期)となっています。
最奥には「源融の墓」があります。源融は第52代嵯峨天皇の十二男。最高の官位は従一位左大臣で、六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれました。
仁王門の側には、以前訪れた大文字屋のあぶり餅の近くに、法然上人24歳「求道青年像」があります。ここは浄土宗・・・開祖は・・・法然上人ですよね。
この大文字屋のあぶり餅の奥には、秋に真っ赤に染まる「聖徳太子殿」があります。法隆寺の“夢殿”に似せて造られたのでしょうか。
仁王門から入って右手・・・境内の南東隅に鳥居があって、「愛宕大権現社」がありますが、こちらは誰も見向きもされないですね。
明治の神仏分離以前は、愛宕・野々宮神社の神事はここで行われたそうです。慶俊僧都(けいしゅんそうず)が愛宕権現を鷹ヶ峰から愛宕山上に移す際に、初めここに祀った故地で、1716年(正徳5年)に大修理が行われています。
この愛宕大権現社の奥に駐車場があるんですが、普段は車で来たことがないので、この先には行ったことが無かったです。それで初めて行ってみると・・・。
八宗論池の手前に小さな石仏があって、その奥には弥勒多宝石仏があり、奥に見えてる建物は一切経蔵です。
この一切経蔵から常にお経テープが流れています。そこには2010年(平成22年)1月に入って、廻したことがあります。入るのに有料でしたが、随分前だし忘れました・・・100円ぐらいだったように思います。
江戸中期の建造物で、堂内の前に、傅大士(ぶだいし)、普建(ふけん)、普成(ふじゃく)の像が祀られています。 堂内中央には、明版一切経(大蔵経)を納めた輪蔵が置かれ、これを回すことで一切経を読んだのと同じ功徳が得られるといいます。
これで清涼寺(嵯峨釈迦堂)は、「文化財特別鑑賞」の狂言堂の見学と合わせてコンプリート出来たかと思います。
【清涼寺(嵯峨釈迦堂) 弁天堂】