平安時代後期の貴族・儒学者であった清原頼業公を祀る車折神社へ
私の会社では特にお盆休みがありません。要するにカレンダー通りで・・・3連休(8月11日~13日)・・・遠方に行くこともないので実家に帰省している姉家族に会うため出掛けましたが、その前に車折神社に寄りました。
三条通りに面して大鳥居が建っています。三条通りは交通量が多いのと、鳥居の右手(東側)に京都市バスと京都バスのバス停が、左に(西側)に京都信用金庫の支店があるので、常に人が居るため中々写真が撮れませんでした。
この時、朝の6時20分頃・・・まだ早いので寄ってみたんですが、いままで境内の末社巡りをしてなかったので、良い機会です。大鳥居から表参道を進むと、右手に社号柱が見えてきます。この社号柱の文字は、車折神社の宮司でもあった富岡鉄斎筆によるものです。
2003年(平成15年)の古写真を見ると、ここに石造鳥居が写っています。それ以降に、観光バスの接触により大音響とともに倒壊した跡です。
ここを入ると左右に境内社がありますが、先に右手から。 そこには愛宕神社があります。
御祭神は、愛宕大神です。ここから遠く北西に聳える愛宕山の山頂に鎮座するのが愛宕神社の総本社で防伏・防火の神様で知られています。
その向かいにあるのが水神社(すいじんじゃ)で、かつてこの辺りに大堰川が流れていたことに由来します。
御祭神は、罔象女神(みずはのめのがみ)といい、水の神様です。前途した大堰川の氾濫を鎮めるために祈願されたようです。
ここから第三鳥居まで表参道を歩いて行くと右手に鳥居があったので、一旦表参道を出てみます。その先は駐車場になっていて、そこからの出入りになっていますが、ここにも境内社がありました。
この辺りには、いろんな石碑がありました。文字が読みにくいので何とも言えませんが「関西舞踏会の発展にかかわる各流の活躍を祝う」とありますが・・・。
そこで境内社を手前の西側から。最初は大国主神社で、1957年(昭和32年)に創建されました。
御祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)・・・因幡(いなば)の白ウサギの話は有名です・・・大国主命・・・大黒様ですよね。
その左隣(南側)には、赤い鳥居の辰巳稲荷神社がありました。
御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・・・古来より五穀豊穣の神様として親しまれてます。神号は、御本社が辰巳の方向にあるためだとか。
その向かい(東側)には、石柱には「掘派祖霊舎」と書いてありますが、掘派祖霊社と書かれてましたが・・・。
御祭神が、聞き慣れない「小唄 堀派の祖霊」だそうです。その奥の歌碑は多分・・・小唄 堀派・・・なんでしょう。
その左隣には「筆塚」があって、車折神社は、元宮司の富岡鉄斎にゆかりがあるんですが・・・。
近代日本画家で有名な富岡鉄斎が、生前に用いた筆が2、000本以上納められてるとか。
ここから駐車場(実際には駐車場には入ってませんが)を出て表参道に入りますが、その入口には石鳥居があります。
表参道に出ましたが、まだまだまだまだ本殿には行きません。この表参道を今度は左に行くと社殿が2つあります。最初は葵忠社(きちゅうしゃ)から。
御祭神は、福田理兵衛。嵯峨村の総年寄りとして、村人から信頼を集めていた材木問屋だそうで、長州藩に財産・自分の命・家族までも捧げた勤皇商人でした。維新の功績により従五位が贈られ福田邸内に祀られあと、現在地に移されました。
今は見かけませんが、昭和50年代までの三条通りには材木問屋が点在してました。そして左隣(南側)には祖霊社があります。
御祭神は、車折神社歴代の神職と信徒総代であった方や功績のあった方々が祀られています。
この二社の南側・・・境内からの片隅にひっそりと「車折神社碑」があって、前途した富岡鉄斎筆によるものです。
再び表参道に戻り、今度は参道沿いにある清少納言社です。
御祭神は、車折神社の御祭神である清原頼業と同族である清少納言。第66代一条天皇の中宮に仕えた才女で、"才色兼備"のあやかりたい・・・と親しまれてるそうです。
そして、この向かいが、芸能神社で御祭神はが天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が祀られています。
天宇受売命は"天の岩戸"に隠れた天照大神の関心を引くため、踊りを披露したこで知られている芸能の神様です。そして芸能・芸術上達を祈願する人の篤い信仰を受け、境内には「朱塗りの玉垣」が約2000枚も奉納されています。
芸能神社、そして向かいの清少納言社のさらに北側の参道を行くと、突き当たりに中門があります。
ここから真っ直ぐに進めば本殿に参拝できます。ただ普段この門は閉まってて、このまま進むことは叶わない訳は・・・神様に対し失礼だということです。
そこで迂回すると、そこには特徴ある手水舎があります。
ここど手と口を清めようとしたら・・・早朝のためでしょうか、水が流れていません。この熱帯夜・・・手だけにしました。
ここで本殿にお参りしたんですけど、この時・・・何か違和感があったんです。帰ってから昨年の桜を撮りに行った時を確認すると・・・鳥居が無くなってました・・・何処に
いつもの通り、二礼二拍手一拝で参拝を終えて、何気なく上を見ると、この拝殿の天井が「花天井」だったなですね、画家・山口玲熙(やまぐちれいき 1894~1979)の作品で初めて知りました。
本殿は奥です。御祭神は、清原 頼業(きよはらのよりなり)です。1752年(宝暦2年)の造営で、入母屋造・銅板葺総檜造の建物。2014年(平成26年)に全面改修工事が行われました。
この奥にも社殿があるので、行ってみようと思いましたが、大きな声で話し声が・・・こんな所で立ち話か・・・と思いましたが、諦めました。
本殿の裏には、日本の全ての神様をお祀りしている八百萬神社があります。ここでお話されてました・・・早朝なんだけど・・・。
参拝を済ませて入口にある鳥居をくぐります。その奥には社務所で、ここで朱印などいただけますが、まだ早朝のため開いてません。
ここから参道を北に進みます。ここから裏参道というのかなぁ少し進めば左手(西側)に、車折神社を代表するパワースポットがあり、テレビで何度も紹介されています。
清めの社といい、 石をモチーフにした円錐形の立砂が盛られています。不思議なパワースポットがあるそうで、島田秀平さんもテレビで紹介されてました。
携帯電話の場合、待ち受けにしたら良いそうですが・・・今は・・・スマホの時代ですからね・・・さて、その向かいにも境内社があるので奥に行ってみます。
この神社は、天満天神社(そらみつあまつかみのやしろ)と読みます。木札に読み方が書いて無かったら、絶対に間違えるでしょう。御祭神は天満大神(雷除け、園芸、農業の神様)とありました。
こちらは左隣で南に向いている神明神社です。御祭神は書いてないですけど、天照大神でしょうか。;
また裏参道に戻って北門に向かって歩いていくと右手(東側)に、1473年(文明5年)に創建の滄海(そうかい)神社(辨天神社)があり寄って行きます。
御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、「金銀財宝」や「幸福」を授けて下さる女神様だそうです。
そして最後にの境内社になりましたが、地主神社(じぬしじんじゃ)で、御祭神が嵯峨天皇です。
ここでは長々と由緒が書いてありますが、嵯峨野の地にに柳鶯寺があって、嵯峨天皇が行幸されたことに因み、後に祀られますが、柳鶯寺が廃寺となったため、車折神社の境内に移し、地主の神さまとして祀られることになりました。
ここから裏参道を北に抜けると北門があって、北鳥居があります。ここにも社号標があり富岡鉄斎筆によるものです。
ここの向かいが嵐電「車折駅」ですが、そこまで下がったんですけど、写ってない・・・残念・・・。
この車折神社は、桜が綺麗です。御祭神の清原頼業公は生前、桜をこよなく愛した風流人で、墓所も桜で溢れていたと言います。5月に行われる「三船祭」は嵐山大堰川で行われ、平安貴族の舟遊びが再現され多くの観光客で賑わいます。
車折神社の御祭神である清原頼業(きよはらのよりなり)公は、平安時代後期の貴族・儒学者。頼業公の墓所に建てられたのが宝寿院で車折神社の前身です。鎌倉時代前期に後嵯峨天皇が嵐山に向かっている時、牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られました。これ以後、当社を「車折神社」と称することになりました。
これで車折神社をくまなく廻れました。車折神社は、私が社会人になってから、毎日利用していた(通り抜け)ので、思い入れもあって・・・何だか訪れる度に懐かしく思えます。当時から社殿は随分綺麗になりました。
三条通りに面して大鳥居が建っています。三条通りは交通量が多いのと、鳥居の右手(東側)に京都市バスと京都バスのバス停が、左に(西側)に京都信用金庫の支店があるので、常に人が居るため中々写真が撮れませんでした。
この時、朝の6時20分頃・・・まだ早いので寄ってみたんですが、いままで境内の末社巡りをしてなかったので、良い機会です。大鳥居から表参道を進むと、右手に社号柱が見えてきます。この社号柱の文字は、車折神社の宮司でもあった富岡鉄斎筆によるものです。
2003年(平成15年)の古写真を見ると、ここに石造鳥居が写っています。それ以降に、観光バスの接触により大音響とともに倒壊した跡です。
ここを入ると左右に境内社がありますが、先に右手から。 そこには愛宕神社があります。
御祭神は、愛宕大神です。ここから遠く北西に聳える愛宕山の山頂に鎮座するのが愛宕神社の総本社で防伏・防火の神様で知られています。
その向かいにあるのが水神社(すいじんじゃ)で、かつてこの辺りに大堰川が流れていたことに由来します。
御祭神は、罔象女神(みずはのめのがみ)といい、水の神様です。前途した大堰川の氾濫を鎮めるために祈願されたようです。
ここから第三鳥居まで表参道を歩いて行くと右手に鳥居があったので、一旦表参道を出てみます。その先は駐車場になっていて、そこからの出入りになっていますが、ここにも境内社がありました。
この辺りには、いろんな石碑がありました。文字が読みにくいので何とも言えませんが「関西舞踏会の発展にかかわる各流の活躍を祝う」とありますが・・・。
そこで境内社を手前の西側から。最初は大国主神社で、1957年(昭和32年)に創建されました。
御祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)・・・因幡(いなば)の白ウサギの話は有名です・・・大国主命・・・大黒様ですよね。
その左隣(南側)には、赤い鳥居の辰巳稲荷神社がありました。
御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・・・古来より五穀豊穣の神様として親しまれてます。神号は、御本社が辰巳の方向にあるためだとか。
その向かい(東側)には、石柱には「掘派祖霊舎」と書いてありますが、掘派祖霊社と書かれてましたが・・・。
御祭神が、聞き慣れない「小唄 堀派の祖霊」だそうです。その奥の歌碑は多分・・・小唄 堀派・・・なんでしょう。
その左隣には「筆塚」があって、車折神社は、元宮司の富岡鉄斎にゆかりがあるんですが・・・。
近代日本画家で有名な富岡鉄斎が、生前に用いた筆が2、000本以上納められてるとか。
ここから駐車場(実際には駐車場には入ってませんが)を出て表参道に入りますが、その入口には石鳥居があります。
表参道に出ましたが、まだまだまだまだ本殿には行きません。この表参道を今度は左に行くと社殿が2つあります。最初は葵忠社(きちゅうしゃ)から。
御祭神は、福田理兵衛。嵯峨村の総年寄りとして、村人から信頼を集めていた材木問屋だそうで、長州藩に財産・自分の命・家族までも捧げた勤皇商人でした。維新の功績により従五位が贈られ福田邸内に祀られあと、現在地に移されました。
今は見かけませんが、昭和50年代までの三条通りには材木問屋が点在してました。そして左隣(南側)には祖霊社があります。
御祭神は、車折神社歴代の神職と信徒総代であった方や功績のあった方々が祀られています。
この二社の南側・・・境内からの片隅にひっそりと「車折神社碑」があって、前途した富岡鉄斎筆によるものです。
再び表参道に戻り、今度は参道沿いにある清少納言社です。
御祭神は、車折神社の御祭神である清原頼業と同族である清少納言。第66代一条天皇の中宮に仕えた才女で、"才色兼備"のあやかりたい・・・と親しまれてるそうです。
そして、この向かいが、芸能神社で御祭神はが天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が祀られています。
天宇受売命は"天の岩戸"に隠れた天照大神の関心を引くため、踊りを披露したこで知られている芸能の神様です。そして芸能・芸術上達を祈願する人の篤い信仰を受け、境内には「朱塗りの玉垣」が約2000枚も奉納されています。
芸能神社、そして向かいの清少納言社のさらに北側の参道を行くと、突き当たりに中門があります。
ここから真っ直ぐに進めば本殿に参拝できます。ただ普段この門は閉まってて、このまま進むことは叶わない訳は・・・神様に対し失礼だということです。
そこで迂回すると、そこには特徴ある手水舎があります。
ここど手と口を清めようとしたら・・・早朝のためでしょうか、水が流れていません。この熱帯夜・・・手だけにしました。
ここで本殿にお参りしたんですけど、この時・・・何か違和感があったんです。帰ってから昨年の桜を撮りに行った時を確認すると・・・鳥居が無くなってました・・・何処に
いつもの通り、二礼二拍手一拝で参拝を終えて、何気なく上を見ると、この拝殿の天井が「花天井」だったなですね、画家・山口玲熙(やまぐちれいき 1894~1979)の作品で初めて知りました。
本殿は奥です。御祭神は、清原 頼業(きよはらのよりなり)です。1752年(宝暦2年)の造営で、入母屋造・銅板葺総檜造の建物。2014年(平成26年)に全面改修工事が行われました。
この奥にも社殿があるので、行ってみようと思いましたが、大きな声で話し声が・・・こんな所で立ち話か・・・と思いましたが、諦めました。
本殿の裏には、日本の全ての神様をお祀りしている八百萬神社があります。ここでお話されてました・・・早朝なんだけど・・・。
参拝を済ませて入口にある鳥居をくぐります。その奥には社務所で、ここで朱印などいただけますが、まだ早朝のため開いてません。
ここから参道を北に進みます。ここから裏参道というのかなぁ少し進めば左手(西側)に、車折神社を代表するパワースポットがあり、テレビで何度も紹介されています。
清めの社といい、 石をモチーフにした円錐形の立砂が盛られています。不思議なパワースポットがあるそうで、島田秀平さんもテレビで紹介されてました。
携帯電話の場合、待ち受けにしたら良いそうですが・・・今は・・・スマホの時代ですからね・・・さて、その向かいにも境内社があるので奥に行ってみます。
この神社は、天満天神社(そらみつあまつかみのやしろ)と読みます。木札に読み方が書いて無かったら、絶対に間違えるでしょう。御祭神は天満大神(雷除け、園芸、農業の神様)とありました。
こちらは左隣で南に向いている神明神社です。御祭神は書いてないですけど、天照大神でしょうか。;
また裏参道に戻って北門に向かって歩いていくと右手(東側)に、1473年(文明5年)に創建の滄海(そうかい)神社(辨天神社)があり寄って行きます。
御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、「金銀財宝」や「幸福」を授けて下さる女神様だそうです。
そして最後にの境内社になりましたが、地主神社(じぬしじんじゃ)で、御祭神が嵯峨天皇です。
ここでは長々と由緒が書いてありますが、嵯峨野の地にに柳鶯寺があって、嵯峨天皇が行幸されたことに因み、後に祀られますが、柳鶯寺が廃寺となったため、車折神社の境内に移し、地主の神さまとして祀られることになりました。
ここから裏参道を北に抜けると北門があって、北鳥居があります。ここにも社号標があり富岡鉄斎筆によるものです。
ここの向かいが嵐電「車折駅」ですが、そこまで下がったんですけど、写ってない・・・残念・・・。
この車折神社は、桜が綺麗です。御祭神の清原頼業公は生前、桜をこよなく愛した風流人で、墓所も桜で溢れていたと言います。5月に行われる「三船祭」は嵐山大堰川で行われ、平安貴族の舟遊びが再現され多くの観光客で賑わいます。
車折神社の御祭神である清原頼業(きよはらのよりなり)公は、平安時代後期の貴族・儒学者。頼業公の墓所に建てられたのが宝寿院で車折神社の前身です。鎌倉時代前期に後嵯峨天皇が嵐山に向かっている時、牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られました。これ以後、当社を「車折神社」と称することになりました。
これで車折神社をくまなく廻れました。車折神社は、私が社会人になってから、毎日利用していた(通り抜け)ので、思い入れもあって・・・何だか訪れる度に懐かしく思えます。当時から社殿は随分綺麗になりました。