聖護院門跡の塔頭 積善院凖提堂へ
御辰稲荷神社から駐車場に戻る途中に、積善院凖提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)の前を通りました。ここは、聖護院門跡の東側にある塔頭寺院ですが、門も開いているので寄ってみることにしました。
以前訪問した、須賀神社のほぼ向かいにあって表通りから表門が開いているのが見えました。ここは初めて来たので詳細は分かりませんが、とりあえず寄って行こう・・・と。
門を入ると右手に寺務所があって、覗くと誰もおられません。ただ朱印の見本が貼ってあるので、あるようで・・・後程・・・ベルを鳴らします。
本堂に通常は上がることができないようです。遠目にご本尊が見えていますが・・・本堂の中央には不動明王像(重要文化財)と凖提観世音菩薩とが合祀されています。
不動明王像(重文)は、旧積善院の本尊で、鎌倉時代初期の秀作。凖提観世音菩薩が積善院凖提堂の本尊で、光格天皇より1815年゜(文化12年)に造立されたもので、京都では数少ない凖提尊の一つ。
本堂の西側には元積善院本堂があります。
ここも堂内に入ることはできないようです。その堂内には役行者像と阿弥陀如来像が祀られています。
積善院は代々山伏を統轄した聖護院門跡として鎌倉時代初期に開創されました。聖護院が地方山伏に対して行う事務を代行してきた寺で、本山派山伏の筆頭寺院に当たります。明治初年に現在の熊野神社交差点南東角にあった凖提堂と合併し1914年(大正3年)に、現在地に移転しました。
次ぎに境内の西北角に注目です。小さな祠と塚のことなんですけど・・・。
ここには人々から信仰を集めている石仏の「崇徳院地蔵」が祀られています。その別名が少々変わってて・・・。
崇徳院地蔵、別名を「人喰い地蔵」と言い人々から親しまれていますが、その名前の由来ですが、崇徳上皇は平氏によって讃岐に流され、京の都を恋い平氏を恨みながら崩御されます。しかし、そのあと都では変事が続き、そのことは上皇の怨念と恐れられました。 これらは上皇の祟りと庶民は恐れ、上皇の霊を慰めるため一躯の石地蔵尊を加茂川の近くに祀られたといいます。その恐いイメージから誰云うことなく"すとくいん"が"ひとくいん"となまって"人喰い"となったようです。
境内の西側には「お俊伝兵衛恋情塚」の石碑と「お俊伝兵衛供養塔」の五輪塔があります。
お俊と伝兵衛が、聖護院の森で心中しようとした近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」に因んだもので、豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)ら芸能関係者が発起人となり二人の霊を慰めるため1952年(昭和27年)に建立されました。
最後に寺務所で呼鈴を押しみたら奥から出て来られたので"朱印"をいただきました。そしたら由緒書きも付いて来て・・・そしたら一枚のチラシが入ってて・・・。
毎年2月23日「五大力さん(五大力尊法要)」午前10時30分~「大般若法要」 午後13時~「柱源護摩供」 午前9時30分~粕汁接待(無くなり次第終了) 秘仏「五大力菩薩」御開帳
ここのほぼ向かいにある駐車場に戻り清算すると・・・びっくり600円でした。それなら少し遠くのコインパーキングに止めたら良かったと・・・後悔しても遅かったです。
以前訪問した、須賀神社のほぼ向かいにあって表通りから表門が開いているのが見えました。ここは初めて来たので詳細は分かりませんが、とりあえず寄って行こう・・・と。
門を入ると右手に寺務所があって、覗くと誰もおられません。ただ朱印の見本が貼ってあるので、あるようで・・・後程・・・ベルを鳴らします。
本堂に通常は上がることができないようです。遠目にご本尊が見えていますが・・・本堂の中央には不動明王像(重要文化財)と凖提観世音菩薩とが合祀されています。
不動明王像(重文)は、旧積善院の本尊で、鎌倉時代初期の秀作。凖提観世音菩薩が積善院凖提堂の本尊で、光格天皇より1815年゜(文化12年)に造立されたもので、京都では数少ない凖提尊の一つ。
本堂の西側には元積善院本堂があります。
ここも堂内に入ることはできないようです。その堂内には役行者像と阿弥陀如来像が祀られています。
積善院は代々山伏を統轄した聖護院門跡として鎌倉時代初期に開創されました。聖護院が地方山伏に対して行う事務を代行してきた寺で、本山派山伏の筆頭寺院に当たります。明治初年に現在の熊野神社交差点南東角にあった凖提堂と合併し1914年(大正3年)に、現在地に移転しました。
次ぎに境内の西北角に注目です。小さな祠と塚のことなんですけど・・・。
ここには人々から信仰を集めている石仏の「崇徳院地蔵」が祀られています。その別名が少々変わってて・・・。
崇徳院地蔵、別名を「人喰い地蔵」と言い人々から親しまれていますが、その名前の由来ですが、崇徳上皇は平氏によって讃岐に流され、京の都を恋い平氏を恨みながら崩御されます。しかし、そのあと都では変事が続き、そのことは上皇の怨念と恐れられました。 これらは上皇の祟りと庶民は恐れ、上皇の霊を慰めるため一躯の石地蔵尊を加茂川の近くに祀られたといいます。その恐いイメージから誰云うことなく"すとくいん"が"ひとくいん"となまって"人喰い"となったようです。
境内の西側には「お俊伝兵衛恋情塚」の石碑と「お俊伝兵衛供養塔」の五輪塔があります。
お俊と伝兵衛が、聖護院の森で心中しようとした近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」に因んだもので、豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)ら芸能関係者が発起人となり二人の霊を慰めるため1952年(昭和27年)に建立されました。
最後に寺務所で呼鈴を押しみたら奥から出て来られたので"朱印"をいただきました。そしたら由緒書きも付いて来て・・・そしたら一枚のチラシが入ってて・・・。
毎年2月23日「五大力さん(五大力尊法要)」午前10時30分~「大般若法要」 午後13時~「柱源護摩供」 午前9時30分~粕汁接待(無くなり次第終了) 秘仏「五大力菩薩」御開帳
ここのほぼ向かいにある駐車場に戻り清算すると・・・びっくり600円でした。それなら少し遠くのコインパーキングに止めたら良かったと・・・後悔しても遅かったです。