古代氏族阿刀氏(あとうじ)の氏神社 阿刀神社へ
満足稲荷神社を出て、再び丸太町通りに出て西に進みます。途中、妻の用事でスーパーで買い物を済ませて、新丸太町通りを車で走ってたら、以前から気になったてた神社があったので、私だけ車を降りて、妻は近くのスーパーで買い物。私だけその神社に行ってみることに。
新丸太町通り沿いにある「式内 阿刀神社」と書かれた石標の奥へ奥へと進みます。正直、少し不安になりましたが、ここまで来て引き返すことはありません。
最初は駐車場の中を進みますが、途中から住宅街の中を進んで行きます。両側が住宅のため、少々気を遣いながら歩いて行くと、やっと鳥居が見えてました。
鳥居の奥に小さな小さな社殿があります。ここは古代の氏族であった阿刀家の祖霊社であったようです。 阿刀家は、かつてここで鎮魂伝を相承していました。
阿刀家はここで嵯峨天皇の御作と言う天照大神のお木像をお祀りしていたそうで、昔は、この社から東の方を嵯峨野と言ったそうです。
阿刀家は弘法大師の生母の里方だそうで、弘法大師は、三教指帰の初稿をここで書いたと言われています。その阿刀家は823年(弘仁14年)正月真言宗の執行職として東寺に移りました。(駒札より)
社名「阿刀」に見えるように、当社は古代氏族阿刀氏(あとうじ)の氏神社とされる。この阿刀氏に関して、『新撰姓氏録』(815年・弘仁6年)で山城国に「阿刀宿禰」「阿刀連」の記載があり、それぞれ石上朝臣(物部氏)の支族で、饒速日命の孫の味饒田命の後裔であるとしている。阿刀氏の元々の本拠地は河内国渋川郡跡部(現在の大阪府八尾市の跡部神社周辺)であったが、平安京遷都に伴う移住によって、祖神を当地に遷したとされる。国史では、866年(貞観8年)に阿刀神を指すと見られる「降居神」に従五位下の神階が叙せられている。また、『日本後紀』には「大和国の石上神宮の器仗を山城国葛野郡に移す」とあるが、その地は阿刀神社北西(嵯峨新宮町)に明治まで存在した小祠「新宮の社」であったと伝える。927年(延長5年年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国葛野郡に「阿刀神社」と記載されて式内社に列している。1877年(明治10年)3月に近代社格制度おいて村社に列した。現在は小祠のみを残している。(Wikipediaより)
住宅街に囲まれているので、早々に写真を撮ったらすぐに戻りました。長居は、ここでは出来ないですね。ここから本当に帰りました。
【阿刀神社】
新丸太町通り沿いにある「式内 阿刀神社」と書かれた石標の奥へ奥へと進みます。正直、少し不安になりましたが、ここまで来て引き返すことはありません。
最初は駐車場の中を進みますが、途中から住宅街の中を進んで行きます。両側が住宅のため、少々気を遣いながら歩いて行くと、やっと鳥居が見えてました。
鳥居の奥に小さな小さな社殿があります。ここは古代の氏族であった阿刀家の祖霊社であったようです。 阿刀家は、かつてここで鎮魂伝を相承していました。
阿刀家はここで嵯峨天皇の御作と言う天照大神のお木像をお祀りしていたそうで、昔は、この社から東の方を嵯峨野と言ったそうです。
阿刀家は弘法大師の生母の里方だそうで、弘法大師は、三教指帰の初稿をここで書いたと言われています。その阿刀家は823年(弘仁14年)正月真言宗の執行職として東寺に移りました。(駒札より)
社名「阿刀」に見えるように、当社は古代氏族阿刀氏(あとうじ)の氏神社とされる。この阿刀氏に関して、『新撰姓氏録』(815年・弘仁6年)で山城国に「阿刀宿禰」「阿刀連」の記載があり、それぞれ石上朝臣(物部氏)の支族で、饒速日命の孫の味饒田命の後裔であるとしている。阿刀氏の元々の本拠地は河内国渋川郡跡部(現在の大阪府八尾市の跡部神社周辺)であったが、平安京遷都に伴う移住によって、祖神を当地に遷したとされる。国史では、866年(貞観8年)に阿刀神を指すと見られる「降居神」に従五位下の神階が叙せられている。また、『日本後紀』には「大和国の石上神宮の器仗を山城国葛野郡に移す」とあるが、その地は阿刀神社北西(嵯峨新宮町)に明治まで存在した小祠「新宮の社」であったと伝える。927年(延長5年年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国葛野郡に「阿刀神社」と記載されて式内社に列している。1877年(明治10年)3月に近代社格制度おいて村社に列した。現在は小祠のみを残している。(Wikipediaより)
住宅街に囲まれているので、早々に写真を撮ったらすぐに戻りました。長居は、ここでは出来ないですね。ここから本当に帰りました。
【阿刀神社】