9月18日(月・祝)は、豊臣秀吉の命日 豊国廟へ

1598年(慶長3年)前の関白・豊臣秀吉は、京都の伏見城内にて、9月18日に亡くなりました。62歳だったと伝わります。

9月18日(月・祝)の前日には、台風18号が日本列島を駆け抜けて行きました。翌日の“敬老の日”は台風一過の青空・・・ではありませんでしたが、初めて訪れる、豊臣秀吉のお墓がある豊国廟(ほうこくびょう)に向かった次第です。

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豊国廟の入口には8時30分頃に着きました。境内は広いので、何処でも車は止められます。そっそく階段を登って鳥居をくぐって境内に入ると・・・。

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かつて、ここには豊臣秀吉を祀る壮麗壮大な豊国社がありました。豊臣家滅亡後に徳川幕府に破却された後が、ここにはあります。

見た所、4名ほど来られてて、先に男女は分かりませんが登って行かれました。老夫婦は・・・上を見上げただけで、どうも諦められたようです。私は事前に調べてて、先に登拝券が必要なことは知っていたので、拝観受付所に行きました。

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ここで100円を納める前に「往復で30分はかかりますが、時間に余裕ありますか」と聞かれます。もちろんOKですが、以外なことに“朱印”がありました。

朱印があるなんて・・・あるわけ無いと思い、車の中に朱印帳を置いて来てしまいました。妻は最初から、“290段”(これは私の勘違い)の階段を登る気も無いので車から出て来ません。必要なら後で電話したらええわ・・・と、階段を登り始めました。

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ここの案内板を読んで、ここの階段が「489段」もあります。下から見上げると先が見えませんが、頑張って登ります。

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登り始めるとお一人降りて来られました。そして、この先・・・お一人登られています。写真では・・・点でしか見えないでしょう、それほど急な階段が続いています。

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登り初めて、約4分で平坦な所に出ました。事前に調べてたから良かったものの、ここがゴールだと思うとガックリ来ますね。ゴールはまだまだ先です。

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この豊臣家の家紋「五三桐」が入った神門をくぐると、やっとゴールが見えて来ました。この所、朝は涼しくなりましたが、もう体中から汗が噴き出しています。

そして、登り初めて約8分で、「阿弥陀ヶ峰」の山頂に着きました標高は、196㍍だそうで、ゆっくり登ったので、このタイムが早いか遅いか分かりませんが・・・それにしても、息が切れました

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この山頂に、天下人・豊臣秀吉のお墓があり、ここに眠っています。この五輪塔は巨大で、高さが約10㍍もあり、西に向いて建っているため、この時間では思い切り逆光です。

波乱に満ちた生涯を伏見城で閉じた豊臣秀吉。墓は、ここ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に建立されました。しかし葬儀は、政治の混乱を理由に、執り行われることがなかったと伝わります。ところが、数万人が参列する葬儀の様子を記した史料が、今に残っていますが、これは秀吉をあわれむ庶民が、架空の話を作りあげたのだと、今に伝わっています。

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山頂ですので、眼下には京都市街地が肉眼ならはっくり見えます。山頂には2名居ましたが、私が先に降りることになりました。(そんなに長居は無用でしょう

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下りは、約6分で降りて来ました。神門の所で、2名とすれ違いましたが、まだ9時前ですが、いつもこんなに登られるのかなぁ・・・と思ってたんですが・・・。

8時33分に登り始めて、8時49分に降りてきました。約16分でしたね、30分は楽に切れました。普段から、エレベーターやエスカレーターを使わず、階段も歩いて上り下りしている効果が出たかなぁ・・・とおもいつつ授与所に行き、朱印をいただくことに。

朱印は、書き置きしかありません。全部で4種類あって、この日だけ「豊臣秀吉公の忌日である旧暦8月18日と9月18日限定で、特別御朱印」をいただけるので、勧められ2種類いただくことにしました。ここで始めて、今日が豊臣秀吉の命日だと知ったんです。ちなみに私は、戦国武将では徳川家康が好きで、秀吉ではありません

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階段を上がる左手に、五輪塔がありました。特に何も書いて無かったので、授与所で聞くと教えていただきました。向かって左から、秀吉側室で、松の丸殿(京極 竜子)、そして左が、豊臣秀頼の子供で、国松の五輪塔です。

豊臣国松は、豊臣秀頼の息子で、8歳で六条河原で処刑され、その遺体を引き取り、誓願寺に埋葬したのが松の丸殿でした。ともに誓願寺から豊国廟に墓所が移されました。

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授与所の前にあった拝殿でしょうか、綺麗に掃かれていたので、全体が撮れなかったのは残念ですが、ここで車に戻りました。

伏見城内で亡くなった秀吉は、遺命により阿弥陀ケ峰に葬られました。翌年には後陽成天皇より、正一位豊国大明神の神位・神号を賜り山腹には社麗な豊国社が創建されました。しかし、1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」で豊臣家が滅びると、徳川幕府により豊国社は廃祀を命じ、以降は墓参する人もなく、叢に埋もれてしまいます。1898年(明治31年)「豊太閤300年祭」にあたり、豊国会の手により、全国の浄財を集め、巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)を造営されました。

【豊国廟】



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