平重盛の別邸跡に建つ小松谷正林寺へ
喜運寺を出て、次ぎに小松谷 正林寺の庫裏に向かいました。ここで「朱印」をいただくためですが、正林寺には渋谷通り沿いに立派な楼門があります。本当は帰りに寄ったんですが、先ずは楼門から。
東大路通りから渋谷通りを東に(山科の方向)に緩やかに登っていくと右手に、大きな楼門を必ず目にするでしょう。ちなみに駐車場は、まだ少しだけ登った右手です。
渋谷通りから楼門に向かって歩いていると、右手に「小松谷地蔵尊」があり中を覗くと、何体かの石仏が祀られていました。
そのまま楼門に向かって進むと、今度は左手に「小松谷御坊舊跡」と書かれた石碑を目にします。法然が東山吉水の庵室より、この地に移り、ここを小松谷御坊とした名残です。
楼門の右手には「圓光大師舊跡」と書かれた大きな石碑があります。圓光大師・・・法然上人のことだそうで、ここが法然上人ゆかりの寺だと分かりますが・・・。
私は、法然上人より、ここが「小松谷」と呼ばれる地名に注目します。歴史好きな人はピンとくるでしょうけど、2012年(平成24年)放送のNHK大河ドラマ「平清盛」で、清盛の嫡男、平重盛がここに邸宅を構えてたことに由来します。
平重盛は、ここ“小松谷”に別邸を構えてました。重盛が小松殿と呼ばれていたのはこの小松谷に由来します。重盛は仏教に深く帰依し、48の灯籠をともしたとされる灯籠堂はこの地に建立されました。このことから、「燈籠大臣」とも称されたと伝わります。重盛の別邸は広大で、現在の「フォーシーズンズホテル京都」内にある「積翠園」は、平重盛の邸宅跡と云わります。
余談ですが、この楼門にも張り紙がありました。「喜運寺は、この奥です」と。本当に、この張り紙で助かりました。
楼門をくぐると、そこは“月極駐車場”です。そのまま参道と言うか駐車場の中を進んで行くと、寺務所(庫裏)があるので、呼鈴を押します。
呼鈴(インターホン)押して、出られたので“朱印”をお願いしました。中から「どうぞ」と言われたので、この戸を開けようとしたら、無茶苦茶重いと言うか、固いと言うか悪戦苦闘して開けました。
ここで“朱印”をお願いすると、「本堂にお参りしていただけましたか」と聞かれたので、「入れるるンですか」と逆に尋ねると「是非」と。もちろん行きます。
本堂に行くための扉の開け方を聞きましたが・・・先ずは、保育園の門を再び開けて園内に入ります。そして喜運寺の向かい、境内の左手に本堂があって、先ずは門の手前に行ってみると・・・。
ここで庫裏で聞いた通りに門を開けようとしたら、中々開かない・・・ここ少しばかりコツがいるようで、やっと開けて、靴と傘を置いて堂内に入ります。
゛堂内は広いので、結界まで行きお参りです。拝観料が要らないのでお賽銭を少々しておきました。内陣中央には圓光大師(法然上人)像、右には開基の九条関白兼実公(圓聖)像、左は聖光房(鎮西上人)像が祀られていました。
本堂を出て、右手にある阿弥陀堂(法王殿)です。ここは毎月25日だけ公開されています。庫裏でもそのように聞きました。堂内には、本尊の阿弥陀如来が、右には観音菩薩、左に姿勢菩薩が祀られてるそうです。
いつか25日には行ってみたいと思いながら境内を見てみると、先程訪れた喜運寺の表門が見えています。
最後に、鐘楼があったので近くで撮影して、ここを出ました。多分、25日が平日なら、ここは園児の声で賑やかでしょうね。
正林寺は平安時代後期に、平重盛の別邸がありましたが、平家没落後は、九条関白兼実の別邸となりました。兼実は法然上人のため、この地にお堂を建て、上人を招き、法談を聴き、1202年(建仁2年)に剃髪出家し円証と号された旧跡です。しかし、1207年(建永2年)流罪となり、この地から配所である四国に出発された旧跡でもあります。その後、応仁の乱により、荒廃廃絶してましたが、江戸時代の1735年(享保20年)に九条家より河原殿の建物が移築され、これが現在の本堂(大師堂)となりました。後に、阿弥陀堂、山門、鐘楼などが完成し洛東名伽藍の一つとなりました。正林寺の寺号は、元々北野にあったものを、小松谷御坊再興を賞して総本山知恩院より寄贈されたものです。
ここには11時10分頃に正林寺の駐車場を出ました。東大路通りから七条通りに出て、現在開催中の「国宝展」の混雑状況を見ると、外には行列は見当たらない・・・しかし、内部は、すごく混雑していると、聞いてます。天気予報が外れて雨が降り続く中、七条通りを西に進み帰路に着きました。
【小松谷 正林寺 阿弥陀堂】
東大路通りから渋谷通りを東に(山科の方向)に緩やかに登っていくと右手に、大きな楼門を必ず目にするでしょう。ちなみに駐車場は、まだ少しだけ登った右手です。
渋谷通りから楼門に向かって歩いていると、右手に「小松谷地蔵尊」があり中を覗くと、何体かの石仏が祀られていました。
そのまま楼門に向かって進むと、今度は左手に「小松谷御坊舊跡」と書かれた石碑を目にします。法然が東山吉水の庵室より、この地に移り、ここを小松谷御坊とした名残です。
楼門の右手には「圓光大師舊跡」と書かれた大きな石碑があります。圓光大師・・・法然上人のことだそうで、ここが法然上人ゆかりの寺だと分かりますが・・・。
私は、法然上人より、ここが「小松谷」と呼ばれる地名に注目します。歴史好きな人はピンとくるでしょうけど、2012年(平成24年)放送のNHK大河ドラマ「平清盛」で、清盛の嫡男、平重盛がここに邸宅を構えてたことに由来します。
平重盛は、ここ“小松谷”に別邸を構えてました。重盛が小松殿と呼ばれていたのはこの小松谷に由来します。重盛は仏教に深く帰依し、48の灯籠をともしたとされる灯籠堂はこの地に建立されました。このことから、「燈籠大臣」とも称されたと伝わります。重盛の別邸は広大で、現在の「フォーシーズンズホテル京都」内にある「積翠園」は、平重盛の邸宅跡と云わります。
余談ですが、この楼門にも張り紙がありました。「喜運寺は、この奥です」と。本当に、この張り紙で助かりました。
楼門をくぐると、そこは“月極駐車場”です。そのまま参道と言うか駐車場の中を進んで行くと、寺務所(庫裏)があるので、呼鈴を押します。
呼鈴(インターホン)押して、出られたので“朱印”をお願いしました。中から「どうぞ」と言われたので、この戸を開けようとしたら、無茶苦茶重いと言うか、固いと言うか悪戦苦闘して開けました。
ここで“朱印”をお願いすると、「本堂にお参りしていただけましたか」と聞かれたので、「入れるるンですか」と逆に尋ねると「是非」と。もちろん行きます。
本堂に行くための扉の開け方を聞きましたが・・・先ずは、保育園の門を再び開けて園内に入ります。そして喜運寺の向かい、境内の左手に本堂があって、先ずは門の手前に行ってみると・・・。
ここで庫裏で聞いた通りに門を開けようとしたら、中々開かない・・・ここ少しばかりコツがいるようで、やっと開けて、靴と傘を置いて堂内に入ります。
゛堂内は広いので、結界まで行きお参りです。拝観料が要らないのでお賽銭を少々しておきました。内陣中央には圓光大師(法然上人)像、右には開基の九条関白兼実公(圓聖)像、左は聖光房(鎮西上人)像が祀られていました。
本堂を出て、右手にある阿弥陀堂(法王殿)です。ここは毎月25日だけ公開されています。庫裏でもそのように聞きました。堂内には、本尊の阿弥陀如来が、右には観音菩薩、左に姿勢菩薩が祀られてるそうです。
いつか25日には行ってみたいと思いながら境内を見てみると、先程訪れた喜運寺の表門が見えています。
最後に、鐘楼があったので近くで撮影して、ここを出ました。多分、25日が平日なら、ここは園児の声で賑やかでしょうね。
正林寺は平安時代後期に、平重盛の別邸がありましたが、平家没落後は、九条関白兼実の別邸となりました。兼実は法然上人のため、この地にお堂を建て、上人を招き、法談を聴き、1202年(建仁2年)に剃髪出家し円証と号された旧跡です。しかし、1207年(建永2年)流罪となり、この地から配所である四国に出発された旧跡でもあります。その後、応仁の乱により、荒廃廃絶してましたが、江戸時代の1735年(享保20年)に九条家より河原殿の建物が移築され、これが現在の本堂(大師堂)となりました。後に、阿弥陀堂、山門、鐘楼などが完成し洛東名伽藍の一つとなりました。正林寺の寺号は、元々北野にあったものを、小松谷御坊再興を賞して総本山知恩院より寄贈されたものです。
ここには11時10分頃に正林寺の駐車場を出ました。東大路通りから七条通りに出て、現在開催中の「国宝展」の混雑状況を見ると、外には行列は見当たらない・・・しかし、内部は、すごく混雑していると、聞いてます。天気予報が外れて雨が降り続く中、七条通りを西に進み帰路に着きました。
【小松谷 正林寺 阿弥陀堂】