第42回 京の夏の旅 文化財特別公開 京都大学 花山天文台へ
9月30日(土)は、7月8日(土)から始まった「京の夏の旅」の最終日でした。土壇場になってやっぱり第42回 京の夏の旅 文化財特別公開 京都大学 花山天文台 (かざんてんもんだい) ~古都から宇宙を想う 日本天文学の礎を築いた天文台~に行くことにしました。
花山天文台には、地下鉄東西線「蹴上駅」から、無料のシャトルバスかタクシーで行くか、30分ほど山道を登って行くか、自家用車は禁止(駐車場無し)されてました。シャトルバスは定員制で、積み残しもあり得ますし、本数も少ないので、ずっと迷いに迷ってましたが、どうしても行きたかったので、当日の朝に“都タクシー”へ電話し往復タクシー利用を予約できました。ただ帰りは仮予約で、行けない場合もあるのでと案内はされてたんですが・・・。
9時40分に予約してましたが、出発は9時45分頃になって出発。タクシーなら5分もかからず花山天文台の本館前で運んでくれました。
シャトルバスは「蹴上」10時発で、ここに早くて15分頃にしか着かないでしょう。誰も居ない写真を撮るためと、シャトルバスが苦手な私には、タクシーを選択して良かったと思っています。拝観開始の10時まで、花山天文台の外観を撮影です。
散策していると「花山三角点」を見つけました。ここは標高221㍍、1901年(明治34年)に設置されたと記載されてました。
本当に10時から開館するのかと、少々不安になるほど、中からは物音一つしません。早く、あのドームの中に入りたいです。
9時50分までは、何も変化はありませんでしたが、50分を過ぎて、ようやくここが開いた時は安心しました。ただ受付はまだ先でしたが・・・。
55分を過ぎて、ようやく受付してもらえました。入館料は800円でした。ここだけ200円・・・高いです。(入館料の一部を花山天文台の運営費に充てられます)
受付を済ませたら上へ上へ上がって行くと、最後は螺旋階段になってて上がりきると、そこはドームの中でした。
銀色にドームは直径9㍍もあり、その真ん中に国内3番目の口径を持つ大きさの45㌢の屈折望遠鏡が設置されています。
この望遠鏡は、1927年(昭和2年)に購入された時は30㌢の望遠鏡でした。1929年(昭和4年)にここに持って来られた時、45㌢の望遠鏡に替えられたようです。土台はイギリスから、レンズはドイツから購入されました。
花山天文台3代目台長の宮本正太郎博士は、20年の歳月をかけ火星をスケッチされました。(火星は2年に一度、地球に接近するため、その時にスケッチされました。)
現在、花山天文台の本館では天体観測はされていません。現在は岐阜飛騨高山で観測されています。1929年(昭和4年)に開設された花山天文台は、京都市内から見えません。京都市街地の明るさを避けるためでしたが、その後、山科の開発に伴い天体観測には不向きとなったため、1968年(昭和43年)に主力は飛騨天文台へと移りました。
ガイドさんには15分弱、たっぷり案内していただきました。しかも独占で。そして15分になるとシャトルバスで来られて人でたちまち一杯に。最終日でしたので駆け込み需要でしょうか。この後、ドームを出て山科の市街地を見てみます。
案内のとおり京都市街地は見えません。今はすっかり発展した山科の市街地が見えています。1929年(昭和4年)では田園が広がる田舎の風景だったのでしょう。
ガイドさんの話では、ここに天文台を開設する時には、軍隊を動員して、今の東山ドライブウェイを造られたとか。ここからの眺望は良かったです。
シャトルバスで来られた人が集まりだしたので、2回目の案内が始まりました。そこで私は下に降りることに、その後も後続が次から次へと上がって来られます。
ここで入口にあった受付横に注目です。最初入った時には、何も気が付きませんでしたが、ガイドさんの話で、是非見て行こうと・・・それは・・・。
「宮本正太郎博士手作りの火星儀」が初公開されてました。天文学において顕著な功績を残された博士は、火星の大型クレーターに「Miyamoto」と名付けられました。
この“火星儀”も写真はOKでした。いろんな面を撮ろうとして、回そうとしたら「触らないで」と。向きは、ガイドさんに変えてもらいました。
次ぎに歴史館に向かいます。その歴史館も公開されてました。その前に、右の建物が別館で、ここはまだ現役なんです。
ここではザートリウス社制の口径18㌢の屈折望遠鏡があります。1910年(明治43年)ハレー彗星大接近の際にドイツより購入されたもので、現在は太陽観測をされています。
別館は、まだ現役のため公開されません。そして次ぎに歴史館に入ります。ここは旧子午線館で、本館と別館と共に1929年(昭和4年)花山天文台設立当時からある建物です。
この建物は、大正から昭和の洋式木造建築として貴重なもので、精密時計を補正するなどの目的のために用いられていました。
歴史館は3部屋に分かれており、天文台歴史室、天体・時計室、太陽 スペクトル室として展示しています。 ただ予約していたタクシーより電話が入って「迎えに来た」と・・・ここでは写真を撮っただけで、直ぐに向かうことになりました。
最初は、「天文台歴史室」で、ここでは天文台の創設過程や附属天文台の沿革、航空写真でみる花山天文台の歴史が展示してありました。
この時、10時20分・・・タクシーの予約は10時30分にしてありましたが、前途のとおり、仮予約でした。少々早かったけど、来て貰えただけでも有り難かったです。
次が「天体・時計室」です。この歴史館にもガイドさんはスタンバイしてて写真撮影はOKでした。
ここには、「ファウス製子午線環」(アメリカ制) 1880年(明治13年)頃の製品です。子午線上にくる天体を観測することで、正確な時間を知ることができます。そのため天井はガラスになっており、ハンドルで屋根を移動することができるだそうです。
「ゼント製マスター時計」説明書きが横にありましたが、読んでも分かりません。時間が無くて(タクシーが来られたので)案内を聞けなかったのが残念です。
最後に「太陽スペクトル室」です。駆け足で写真だけ撮りまくって・・・帰ってから、いただいたパンフを見ながら書いてます。
アスカニア製へリオグラフ (1926年ドイツより購入) 旧太陽館でグラブ・パーソンと共に用いられ、その後生駒山太陽観測所で活躍したようです。その後、生駒が閉鎖されたことで、この花山天文台に戻されました。
(上)グラブ・パーソン製30㌢シーロスタット、(下)機械式計算機・・・これ以上は分かりません。ここからも少しだけ街並みが見えるんですけど・・・夜景が綺麗でしょう。
この時、10時22分・・・30分に予約していたので仕方ないけど・・・次のシャトルバスは11時00分発だし、この山の上まで来て貰えただけでも良かったです。帰りも「蹴上駅」までお願いしました。
【花山天文台 本館】
花山天文台には、地下鉄東西線「蹴上駅」から、無料のシャトルバスかタクシーで行くか、30分ほど山道を登って行くか、自家用車は禁止(駐車場無し)されてました。シャトルバスは定員制で、積み残しもあり得ますし、本数も少ないので、ずっと迷いに迷ってましたが、どうしても行きたかったので、当日の朝に“都タクシー”へ電話し往復タクシー利用を予約できました。ただ帰りは仮予約で、行けない場合もあるのでと案内はされてたんですが・・・。
9時40分に予約してましたが、出発は9時45分頃になって出発。タクシーなら5分もかからず花山天文台の本館前で運んでくれました。
シャトルバスは「蹴上」10時発で、ここに早くて15分頃にしか着かないでしょう。誰も居ない写真を撮るためと、シャトルバスが苦手な私には、タクシーを選択して良かったと思っています。拝観開始の10時まで、花山天文台の外観を撮影です。
散策していると「花山三角点」を見つけました。ここは標高221㍍、1901年(明治34年)に設置されたと記載されてました。
本当に10時から開館するのかと、少々不安になるほど、中からは物音一つしません。早く、あのドームの中に入りたいです。
9時50分までは、何も変化はありませんでしたが、50分を過ぎて、ようやくここが開いた時は安心しました。ただ受付はまだ先でしたが・・・。
55分を過ぎて、ようやく受付してもらえました。入館料は800円でした。ここだけ200円・・・高いです。(入館料の一部を花山天文台の運営費に充てられます)
受付を済ませたら上へ上へ上がって行くと、最後は螺旋階段になってて上がりきると、そこはドームの中でした。
銀色にドームは直径9㍍もあり、その真ん中に国内3番目の口径を持つ大きさの45㌢の屈折望遠鏡が設置されています。
この望遠鏡は、1927年(昭和2年)に購入された時は30㌢の望遠鏡でした。1929年(昭和4年)にここに持って来られた時、45㌢の望遠鏡に替えられたようです。土台はイギリスから、レンズはドイツから購入されました。
花山天文台3代目台長の宮本正太郎博士は、20年の歳月をかけ火星をスケッチされました。(火星は2年に一度、地球に接近するため、その時にスケッチされました。)
現在、花山天文台の本館では天体観測はされていません。現在は岐阜飛騨高山で観測されています。1929年(昭和4年)に開設された花山天文台は、京都市内から見えません。京都市街地の明るさを避けるためでしたが、その後、山科の開発に伴い天体観測には不向きとなったため、1968年(昭和43年)に主力は飛騨天文台へと移りました。
ガイドさんには15分弱、たっぷり案内していただきました。しかも独占で。そして15分になるとシャトルバスで来られて人でたちまち一杯に。最終日でしたので駆け込み需要でしょうか。この後、ドームを出て山科の市街地を見てみます。
案内のとおり京都市街地は見えません。今はすっかり発展した山科の市街地が見えています。1929年(昭和4年)では田園が広がる田舎の風景だったのでしょう。
ガイドさんの話では、ここに天文台を開設する時には、軍隊を動員して、今の東山ドライブウェイを造られたとか。ここからの眺望は良かったです。
シャトルバスで来られた人が集まりだしたので、2回目の案内が始まりました。そこで私は下に降りることに、その後も後続が次から次へと上がって来られます。
ここで入口にあった受付横に注目です。最初入った時には、何も気が付きませんでしたが、ガイドさんの話で、是非見て行こうと・・・それは・・・。
「宮本正太郎博士手作りの火星儀」が初公開されてました。天文学において顕著な功績を残された博士は、火星の大型クレーターに「Miyamoto」と名付けられました。
この“火星儀”も写真はOKでした。いろんな面を撮ろうとして、回そうとしたら「触らないで」と。向きは、ガイドさんに変えてもらいました。
次ぎに歴史館に向かいます。その歴史館も公開されてました。その前に、右の建物が別館で、ここはまだ現役なんです。
ここではザートリウス社制の口径18㌢の屈折望遠鏡があります。1910年(明治43年)ハレー彗星大接近の際にドイツより購入されたもので、現在は太陽観測をされています。
別館は、まだ現役のため公開されません。そして次ぎに歴史館に入ります。ここは旧子午線館で、本館と別館と共に1929年(昭和4年)花山天文台設立当時からある建物です。
この建物は、大正から昭和の洋式木造建築として貴重なもので、精密時計を補正するなどの目的のために用いられていました。
歴史館は3部屋に分かれており、天文台歴史室、天体・時計室、太陽 スペクトル室として展示しています。 ただ予約していたタクシーより電話が入って「迎えに来た」と・・・ここでは写真を撮っただけで、直ぐに向かうことになりました。
最初は、「天文台歴史室」で、ここでは天文台の創設過程や附属天文台の沿革、航空写真でみる花山天文台の歴史が展示してありました。
この時、10時20分・・・タクシーの予約は10時30分にしてありましたが、前途のとおり、仮予約でした。少々早かったけど、来て貰えただけでも有り難かったです。
次が「天体・時計室」です。この歴史館にもガイドさんはスタンバイしてて写真撮影はOKでした。
ここには、「ファウス製子午線環」(アメリカ制) 1880年(明治13年)頃の製品です。子午線上にくる天体を観測することで、正確な時間を知ることができます。そのため天井はガラスになっており、ハンドルで屋根を移動することができるだそうです。
「ゼント製マスター時計」説明書きが横にありましたが、読んでも分かりません。時間が無くて(タクシーが来られたので)案内を聞けなかったのが残念です。
最後に「太陽スペクトル室」です。駆け足で写真だけ撮りまくって・・・帰ってから、いただいたパンフを見ながら書いてます。
アスカニア製へリオグラフ (1926年ドイツより購入) 旧太陽館でグラブ・パーソンと共に用いられ、その後生駒山太陽観測所で活躍したようです。その後、生駒が閉鎖されたことで、この花山天文台に戻されました。
(上)グラブ・パーソン製30㌢シーロスタット、(下)機械式計算機・・・これ以上は分かりません。ここからも少しだけ街並みが見えるんですけど・・・夜景が綺麗でしょう。
この時、10時22分・・・30分に予約していたので仕方ないけど・・・次のシャトルバスは11時00分発だし、この山の上まで来て貰えただけでも良かったです。帰りも「蹴上駅」までお願いしました。
【花山天文台 本館】