京都浄土宗寺院 特別大公開 長香寺へ
10月に入って今年も、京都浄土宗寺院 特別大公開が始まりました。今年で4回目となるイベントですが、未訪の寺院を訪問するため10月7日(土)に行きました。
天気予報は、10時頃まで雨が残ると出てましたが、結果15時頃まで雨が降り続き、珍しく天気予報が大外れ
。しかし、この日しか公開されない寺院のため雨が降り続いてましたが車で出掛けた先は、長香寺(ちょうこうじ)です。
烏丸の万寿寺を東に入ると、コインパーキングがいくつかあります。その中で、止めやすい所に止めましたが、ビジネス街にあるので、休日でも高い・・・です。万寿寺通りを東に進み、高倉通りを北に上がると表門がありました。
ここには9時39分に着きました。案内では10時からとなっており、境内には誰も居ませんし、本堂も閉まってました。そしたら・・・。
庫裏が北側に、本堂が南側にあって、どちらも閉まっているので、どちらから入るのか・・・と迷っていると、突然・・・本堂が開きました。
堂内の左に受付を設けられてて、お二人が座れてました。拝観料は尋ねると不要との事。御朱印はお願いしました。
写真撮影は尋ねるとOKでした。それなら撮らさせていただまきす
。堂内の中央にはご本尊の阿弥陀如来坐像が祀られてました。浄土宗の寺院ですからね
。
特に解説はありませんでしたが、「内陣に入ってお参りください」と言われたので、恵心僧都の作と伝えられる本尊を見ていると、ふと天井を見上げたら・・・。
綺麗な花天井が、そこにはありました。作者を訪ねると「分からない」そうです。それより親切にも暗いので、懐中電灯で照らしていただきました。
長香寺は、浄土宗の寺院で、山号は常照山。ご本尊は、阿弥陀如来坐像で、恵心僧都の作と伝えられています。1606年(慶長11年)徳川家康の側室“おこちゃ”がかねてより帰依していた浄土宗の僧のため、信誉称阿を開山として創建しようとしますが、1607年(慶長12年)の駿府城火災により逝去。徳川家康の側近でった大工頭中井正清や京都所司代板倉勝重、御金改役の後藤庄三郎など幕府の役職が助力し、創建。寺名は“おこちゃ”の法号長香院に因みました。
普段は本堂にはお参りできません。年一回の公開ですが、来年もされる保証はないので、雨でも来た次第です。公開は本堂だけで、そんなに長居はできません。
10時から拝観開始でしたが、9時42分には入れました。そして“朱印”をいただけたこともあって、9時49分には本堂を出ました。カラー版の“由緒書き”もいただいたので、少しばかりのお賽銭はさせてもらいました。
本堂を出たら雨はやんでません。まだ10時もなってないので、後続も来ません。それで境内を散策してると、ここの鎮守社である福増稲荷がありました。
境内の片隅に見つけた石碑ですが、わかりません。先程、お寺の方に聞けば良かった・・・と・・・帰ってから後悔・・・してないです
。
ここは中井家の菩提寺として隆盛を極めたそうですが、天明の大火や兵火により伽藍が焼失したそうです。この鐘楼は残ったのでしょうか
。
中井利清の娘が徳川幕府・88代将軍吉宗の生母(お紋の方)となったことから、幕府の援助を得たそうです。ここも徳川家にゆかりがありました。そのため中井家歴代の墓があるそうですが、墓所には入れましたが、そこには行かなくて、次へと向かいました。
【長香寺】

天気予報は、10時頃まで雨が残ると出てましたが、結果15時頃まで雨が降り続き、珍しく天気予報が大外れ

烏丸の万寿寺を東に入ると、コインパーキングがいくつかあります。その中で、止めやすい所に止めましたが、ビジネス街にあるので、休日でも高い・・・です。万寿寺通りを東に進み、高倉通りを北に上がると表門がありました。
ここには9時39分に着きました。案内では10時からとなっており、境内には誰も居ませんし、本堂も閉まってました。そしたら・・・。
庫裏が北側に、本堂が南側にあって、どちらも閉まっているので、どちらから入るのか・・・と迷っていると、突然・・・本堂が開きました。
堂内の左に受付を設けられてて、お二人が座れてました。拝観料は尋ねると不要との事。御朱印はお願いしました。
写真撮影は尋ねるとOKでした。それなら撮らさせていただまきす


特に解説はありませんでしたが、「内陣に入ってお参りください」と言われたので、恵心僧都の作と伝えられる本尊を見ていると、ふと天井を見上げたら・・・。
綺麗な花天井が、そこにはありました。作者を訪ねると「分からない」そうです。それより親切にも暗いので、懐中電灯で照らしていただきました。
長香寺は、浄土宗の寺院で、山号は常照山。ご本尊は、阿弥陀如来坐像で、恵心僧都の作と伝えられています。1606年(慶長11年)徳川家康の側室“おこちゃ”がかねてより帰依していた浄土宗の僧のため、信誉称阿を開山として創建しようとしますが、1607年(慶長12年)の駿府城火災により逝去。徳川家康の側近でった大工頭中井正清や京都所司代板倉勝重、御金改役の後藤庄三郎など幕府の役職が助力し、創建。寺名は“おこちゃ”の法号長香院に因みました。
普段は本堂にはお参りできません。年一回の公開ですが、来年もされる保証はないので、雨でも来た次第です。公開は本堂だけで、そんなに長居はできません。
10時から拝観開始でしたが、9時42分には入れました。そして“朱印”をいただけたこともあって、9時49分には本堂を出ました。カラー版の“由緒書き”もいただいたので、少しばかりのお賽銭はさせてもらいました。
本堂を出たら雨はやんでません。まだ10時もなってないので、後続も来ません。それで境内を散策してると、ここの鎮守社である福増稲荷がありました。
境内の片隅に見つけた石碑ですが、わかりません。先程、お寺の方に聞けば良かった・・・と・・・帰ってから後悔・・・してないです

ここは中井家の菩提寺として隆盛を極めたそうですが、天明の大火や兵火により伽藍が焼失したそうです。この鐘楼は残ったのでしょうか

中井利清の娘が徳川幕府・88代将軍吉宗の生母(お紋の方)となったことから、幕府の援助を得たそうです。ここも徳川家にゆかりがありました。そのため中井家歴代の墓があるそうですが、墓所には入れましたが、そこには行かなくて、次へと向かいました。
【長香寺】