2018年(平成30年)京都十六社朱印巡り 御香宮神社へ
先日、「京都十六社朱印巡り」のダイジェスト版でアップした御香宮神社ですが、過去・・・何度か訪れてましたが、中々境内を散策できずじまいでした。散策したのは1月6日(土)で、今年の“十六社朱印巡り”のトップバッター・・・と言うのも、我が家から一番遠いのが御香宮神社なんです。
前も書きましたが、この日は朝から生憎の冷たい雨が降り続いてる中、自宅を出てJR嵯峨野線から近鉄電車に乗り継いで「桃山御陵駅」まで来て見ると、雨は降ったりやんだりの空模様に変わっていました。
ご覧のように路面は濡れています。多分・・・雪なら、この日は来なかったと思います。ただ寒風が体に堪えるほど寒かったです。
近鉄「桃山御陵前」を出ると、大手筋通り出ます。そこを東に少しだけ登ると朱塗りの大鳥居があって、そのまま東に進むと御香宮神社の表門(国の重要文化財に指定)が見えてきます。
神社とは思えないほど立派な表門です。以前来た時、ここが伏見城の遺構であるこを知りました。それで重要文化財に指定されたんでしょう・・・多分。
伏見城の大手門を1622年(元和8年)年、水戸藩初代藩主徳川頼房によって、御香宮神社に寄進されました。装飾品での注目は、正面の蟇股(かえるまた)で、4箇所に中国二十四孝のうち 向かって右から楊香、郭巨、唐夫人、孟宗の物語順に並んでいます。
表門を入って左手に駒札があって、読むと「伏見義民事蹟(ふしみぎみんじせき)」と書いてあります。私は知らなかったことで・・・。
1785年(天明5年)、時の伏見奉行小堀和泉守政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛ら七名を伏見義民と言います。この碑は1887年(明治20年)に建てられたもので、碑文は勝海舟の撰文、題字は三条実美の書です。
ここから北に延びる参道が続きます。なお、この石鳥居は紀州藩の第7代藩主・徳川 宗将(とくがわ むねのぶ)によって建立されました。
この石鳥居を過ぎて、直ぐの右手(東側)に、桃山天満宮があって、ここは昨年、くまなく散策しましたので、こちらをご覧下さい。
余談ですが、ここには「伏見城跡残石」があります。ここから遠く離れた明治天皇陵あたりに伏見城は建っていました。伏見を散策すると、所々遺構が見られます。
本殿まで長い長い参道が続く中、左手(西側)は「参集館」があって、ここは、月桂冠(株)11代目当主・大倉恒吉氏より1934年(昭和9年)に寄贈されたものです。
その先には「手水舎」がありますが、ここでは使用しません。本殿前にも手水があるので、そちらを使いました。
この日は生憎の空模様で、写真写りがもう一つですが、参道の突き当たりが拝殿で、この上の唐破風彫刻が見事なんです。また、中心には徳川の「三つ葉葵」、その横には「菊の御紋」、さらに豊臣の「桐の御紋」に注目です。
徳川と豊臣が共存しているのは珍しいですね。この拝殿は京都府指定有形文化財に指定されています。1625年(寛永2年)初代紀伊藩主・徳川大納言頼宣が寄進しました。
本殿前の拝所左手に手水があるので、ここを使用しました。名水で知られる“御香水”で、手と口を清めて参拝です。
年明け6日・・・寒い朝でしたが、多くの方が参拝に来られていました。ここから私は、今年の“十六社朱印巡り”をスタートさせました。
御祭神は、神功皇后を主祭神に、第14代仲哀天皇、第15代応神天皇他6柱。境内から病気に効く香水が湧き出たので清和天皇からこの名を賜ったという。
昭和期に水枯れを起こしたそうで、井戸を掘下げ復元されました。伏見の酒の仕込み水と同じ水脈でもあり、環境庁名水百選に指定されています。
この日は、“十六社朱印巡り”で来ていたので、社務所でで朱印をいただいたあと、これもまだ見て無い“小堀遠州の庭”を聞いたみたところ・・・「お正月の期間はやってません」と。またまた見ることができません・・・また・・・来ます・・・そして、ここから初めて訪れるエリアに入ります。今まで本殿より北側には足を踏み入れてません。
本殿の左から時計回りで見ていくと、いきなり驚きました・・・白馬が居る・・・と。「神馬」と書いてありました。
その神馬舎の北側には「稲荷社」があります。この伏見には伏見稲荷大社がありますが、ここにも小さな狛狐が沢山安置されてました。
境内の北の橋まで行く予定で、次の社は「弁天社」です。本殿までは早朝でも多くの人が参拝に来られてましたが、このエリアには誰も・・・居ません。
その北側にあるのが「松尾社」です。案内によると12月中卯日「醸造初神事」氏子中の酒造家が今冬、仕込む酒の良い出来ばえを祈願されるそうです。
境内の北西角にあるのが「東照宮」で、東照大権現・・・徳川家康公が祀られているのでしょう。日光に比べて派手さはないですね。
そして初めて「北門」を出ました。毛利橋通りに面しており、結構車が通ります。当初の予定では、ここから特別拝観の寺院に行く予定にしてましたが時間の都合で断念しました。(後日、庭園を見に再訪する時、ここから出る予定です。)
北門から入ると、本殿の背後を見ることができます。正面からは拝所があって、本殿は見えません。ここから境内の東側に移動します。
北門から本殿背後までは“鎮守の森”と呼ばれる木々あって、その本殿の背後にあるのが北末社で南向きに社殿があります。
向かって左より「金札宮」「那智社」「熊野社」「新宮社」「天満宮」「春日大明神」の各社殿が建っていますが、両側だけ一際大きいです。“金札宮”・・・ここからほど近い、「丹波橋駅」近くにあって、以前行きました。
境内の東北角にあるのが「大神宮」です。伊勢神宮でお馴染みの神明鳥居が入口に立っていのが、いかにも“大神宮”らしいです。
そして、大神宮を少し南に下がった西向きに「豊國社」があります。豊臣秀吉が祀られているのでしょう・・・しかし、先程・・・“東照宮”がありました・・・。
豊臣秀吉は死後、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられ、東山七条には豊国神社があって、このあとお参りの予定です。
境内の東側を下がっていくと、「東末社」があって、向かって左より「住吉大明神」「八坂社」「恵比寿社」「若宮八幡」の各社殿が並んでいます。
本殿を時計回りで回ってきて、とある石碑の前までやってきました。ここから見ると本殿の東側が見えていますし、石碑の奥には「東末社」も見えいます。
「御香水碑」です。その前に井戸があって、御香水はここより汲み上げられてるとか。伏見と言えば清酒・・・伏見の酒の仕込み水と同じ水脈でだそうです。
ここから少し南に下がったら絵馬堂があって、案内では巨大な檜材で造られてとか。架かる絵馬は百数十を数えるらしいです。
ここにある「猿曳きの絵馬」(1646年(正保3年)奉納)は案内によると、左甚五郎作と言われています。また和算の大家、西岡天極斎奉納の算額は国算学史上特に貴重な資料として注目されています。
境内の東側をそのまま下がると、そこには明治維新「伏見の戦跡」碑が立っています。ここで有名な「鳥羽・伏見の戦い」が勃発したんですね。
そして、こちらが「日露戦争の碑」です。この伏見の地には、明治天皇陵や乃木神社があるので、また寄ってみたいと・・・思っています。
ここから東門から外に出てみました。こちらにも大きな石鳥居があります。初詣に来られる自動車はここから入られるので、直ぐに退散・・・元の境内に戻りました。
ここを入って左手には、桃山天満宮がありますが、ここにも見ておきたいものがあって・・・。
先ずは「白菊石」です。金札宮の御祭神である天太玉命こと白菊翁(しらぎくおきな)が姿を変えたといわれる石です。
境内の最後に紹介するのは「竹田街道の車石・車道」です。
京都旧東塩小路村の竹田口から竹田村を経て伏見を結ぶ竹田街道(竹田車道)の棒鼻付近に敷き詰められた石の一部で、車石(輪型石・輪石)と呼ばれています。
御香宮では、まだ小堀遠州の庭は見られてません。それは「京の冬の旅」の期間中、この伏見に行く予定があるので再訪することと思います。それで表門を出て“駅”に向かう途中に「黒田節」誕生の地と書かれた駒札を見つけました。
福岡民謡「黒田節」は京の伏見で誕生した。伏見城下町の大名・福島正則の屋敷で開かれた酒宴でのいきさつを、儒学者の貝原益軒がまとめた「黒田家臣伝」の逸話がもとになっている・・・と。
そんなの知らなかったです。あと“小堀遠州の庭”を見たらコンプリートできるかなぁ・・・と思いながら、急いで次へと向かった次第でした。
【御香宮神社 拝殿】
前も書きましたが、この日は朝から生憎の冷たい雨が降り続いてる中、自宅を出てJR嵯峨野線から近鉄電車に乗り継いで「桃山御陵駅」まで来て見ると、雨は降ったりやんだりの空模様に変わっていました。
ご覧のように路面は濡れています。多分・・・雪なら、この日は来なかったと思います。ただ寒風が体に堪えるほど寒かったです。
近鉄「桃山御陵前」を出ると、大手筋通り出ます。そこを東に少しだけ登ると朱塗りの大鳥居があって、そのまま東に進むと御香宮神社の表門(国の重要文化財に指定)が見えてきます。
神社とは思えないほど立派な表門です。以前来た時、ここが伏見城の遺構であるこを知りました。それで重要文化財に指定されたんでしょう・・・多分。
伏見城の大手門を1622年(元和8年)年、水戸藩初代藩主徳川頼房によって、御香宮神社に寄進されました。装飾品での注目は、正面の蟇股(かえるまた)で、4箇所に中国二十四孝のうち 向かって右から楊香、郭巨、唐夫人、孟宗の物語順に並んでいます。
表門を入って左手に駒札があって、読むと「伏見義民事蹟(ふしみぎみんじせき)」と書いてあります。私は知らなかったことで・・・。
1785年(天明5年)、時の伏見奉行小堀和泉守政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛ら七名を伏見義民と言います。この碑は1887年(明治20年)に建てられたもので、碑文は勝海舟の撰文、題字は三条実美の書です。
ここから北に延びる参道が続きます。なお、この石鳥居は紀州藩の第7代藩主・徳川 宗将(とくがわ むねのぶ)によって建立されました。
この石鳥居を過ぎて、直ぐの右手(東側)に、桃山天満宮があって、ここは昨年、くまなく散策しましたので、こちらをご覧下さい。
余談ですが、ここには「伏見城跡残石」があります。ここから遠く離れた明治天皇陵あたりに伏見城は建っていました。伏見を散策すると、所々遺構が見られます。
本殿まで長い長い参道が続く中、左手(西側)は「参集館」があって、ここは、月桂冠(株)11代目当主・大倉恒吉氏より1934年(昭和9年)に寄贈されたものです。
その先には「手水舎」がありますが、ここでは使用しません。本殿前にも手水があるので、そちらを使いました。
この日は生憎の空模様で、写真写りがもう一つですが、参道の突き当たりが拝殿で、この上の唐破風彫刻が見事なんです。また、中心には徳川の「三つ葉葵」、その横には「菊の御紋」、さらに豊臣の「桐の御紋」に注目です。
徳川と豊臣が共存しているのは珍しいですね。この拝殿は京都府指定有形文化財に指定されています。1625年(寛永2年)初代紀伊藩主・徳川大納言頼宣が寄進しました。
本殿前の拝所左手に手水があるので、ここを使用しました。名水で知られる“御香水”で、手と口を清めて参拝です。
年明け6日・・・寒い朝でしたが、多くの方が参拝に来られていました。ここから私は、今年の“十六社朱印巡り”をスタートさせました。
御祭神は、神功皇后を主祭神に、第14代仲哀天皇、第15代応神天皇他6柱。境内から病気に効く香水が湧き出たので清和天皇からこの名を賜ったという。
昭和期に水枯れを起こしたそうで、井戸を掘下げ復元されました。伏見の酒の仕込み水と同じ水脈でもあり、環境庁名水百選に指定されています。
この日は、“十六社朱印巡り”で来ていたので、社務所でで朱印をいただいたあと、これもまだ見て無い“小堀遠州の庭”を聞いたみたところ・・・「お正月の期間はやってません」と。またまた見ることができません・・・また・・・来ます・・・そして、ここから初めて訪れるエリアに入ります。今まで本殿より北側には足を踏み入れてません。
本殿の左から時計回りで見ていくと、いきなり驚きました・・・白馬が居る・・・と。「神馬」と書いてありました。
その神馬舎の北側には「稲荷社」があります。この伏見には伏見稲荷大社がありますが、ここにも小さな狛狐が沢山安置されてました。
境内の北の橋まで行く予定で、次の社は「弁天社」です。本殿までは早朝でも多くの人が参拝に来られてましたが、このエリアには誰も・・・居ません。
その北側にあるのが「松尾社」です。案内によると12月中卯日「醸造初神事」氏子中の酒造家が今冬、仕込む酒の良い出来ばえを祈願されるそうです。
境内の北西角にあるのが「東照宮」で、東照大権現・・・徳川家康公が祀られているのでしょう。日光に比べて派手さはないですね。
そして初めて「北門」を出ました。毛利橋通りに面しており、結構車が通ります。当初の予定では、ここから特別拝観の寺院に行く予定にしてましたが時間の都合で断念しました。(後日、庭園を見に再訪する時、ここから出る予定です。)
北門から入ると、本殿の背後を見ることができます。正面からは拝所があって、本殿は見えません。ここから境内の東側に移動します。
北門から本殿背後までは“鎮守の森”と呼ばれる木々あって、その本殿の背後にあるのが北末社で南向きに社殿があります。
向かって左より「金札宮」「那智社」「熊野社」「新宮社」「天満宮」「春日大明神」の各社殿が建っていますが、両側だけ一際大きいです。“金札宮”・・・ここからほど近い、「丹波橋駅」近くにあって、以前行きました。
境内の東北角にあるのが「大神宮」です。伊勢神宮でお馴染みの神明鳥居が入口に立っていのが、いかにも“大神宮”らしいです。
そして、大神宮を少し南に下がった西向きに「豊國社」があります。豊臣秀吉が祀られているのでしょう・・・しかし、先程・・・“東照宮”がありました・・・。
豊臣秀吉は死後、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられ、東山七条には豊国神社があって、このあとお参りの予定です。
境内の東側を下がっていくと、「東末社」があって、向かって左より「住吉大明神」「八坂社」「恵比寿社」「若宮八幡」の各社殿が並んでいます。
本殿を時計回りで回ってきて、とある石碑の前までやってきました。ここから見ると本殿の東側が見えていますし、石碑の奥には「東末社」も見えいます。
「御香水碑」です。その前に井戸があって、御香水はここより汲み上げられてるとか。伏見と言えば清酒・・・伏見の酒の仕込み水と同じ水脈でだそうです。
ここから少し南に下がったら絵馬堂があって、案内では巨大な檜材で造られてとか。架かる絵馬は百数十を数えるらしいです。
ここにある「猿曳きの絵馬」(1646年(正保3年)奉納)は案内によると、左甚五郎作と言われています。また和算の大家、西岡天極斎奉納の算額は国算学史上特に貴重な資料として注目されています。
境内の東側をそのまま下がると、そこには明治維新「伏見の戦跡」碑が立っています。ここで有名な「鳥羽・伏見の戦い」が勃発したんですね。
そして、こちらが「日露戦争の碑」です。この伏見の地には、明治天皇陵や乃木神社があるので、また寄ってみたいと・・・思っています。
ここから東門から外に出てみました。こちらにも大きな石鳥居があります。初詣に来られる自動車はここから入られるので、直ぐに退散・・・元の境内に戻りました。
ここを入って左手には、桃山天満宮がありますが、ここにも見ておきたいものがあって・・・。
先ずは「白菊石」です。金札宮の御祭神である天太玉命こと白菊翁(しらぎくおきな)が姿を変えたといわれる石です。
境内の最後に紹介するのは「竹田街道の車石・車道」です。
京都旧東塩小路村の竹田口から竹田村を経て伏見を結ぶ竹田街道(竹田車道)の棒鼻付近に敷き詰められた石の一部で、車石(輪型石・輪石)と呼ばれています。
御香宮では、まだ小堀遠州の庭は見られてません。それは「京の冬の旅」の期間中、この伏見に行く予定があるので再訪することと思います。それで表門を出て“駅”に向かう途中に「黒田節」誕生の地と書かれた駒札を見つけました。
福岡民謡「黒田節」は京の伏見で誕生した。伏見城下町の大名・福島正則の屋敷で開かれた酒宴でのいきさつを、儒学者の貝原益軒がまとめた「黒田家臣伝」の逸話がもとになっている・・・と。
そんなの知らなかったです。あと“小堀遠州の庭”を見たらコンプリートできるかなぁ・・・と思いながら、急いで次へと向かった次第でした。
【御香宮神社 拝殿】