冬枯れの無鄰菴へ
美濃吉本店 竹茂楼を出て北に上がって、直ぐに東に進むと、昨年の5月にライトアップで訪れた無鄰菴に着きました。
ここには14時10分頃に着きました。こんなに遅い時間に訪れることは稀ですが、冬だし多分空いていると思いつつ入口をくぐると・・・。
拝観受付に先客がお一人。それを待って拝観料410円を払って、こ「潜り戸」を入ります。この先には“冬枯れの庭”を目にすることでしょう。
潜り戸を入ると右手に行けば「洋館」が、左に行けば「庭園」に出ます。どちらでも好きなコースを選べますが、私は庭園を目指します。
庭園に向かって飛び石づたいに歩を進めると、左手に母家が見えて来て内部に入ることが出来ました。その前に芝生は冬枯れしていますが、7代目・小川治兵衛が作庭した見事な庭園を目にします。
拝観者は、ざっと見て4名から5名ぐらい・・・この時間にしては空いています。ここから母家に上がって少しばかり休憩です。
ライトアップでは、この部屋が人で埋まるほどの賑わいで、庭師の方から説明を聞いた場所です。今日は玄関から入れませんが、玄関から入ると、四方竹(しほうちく)の坪庭が出迎えてくれます。
母家から見た庭園です。猛烈な寒気のため曇っていますが、昼から来たので本当なら青空に庭園が映えてる筈なんですけど・・・。
東山を借景に開放的な庭園が映えますが、芝生の冬枯れは何とも言えないです。何度来ても、ここの庭園は素晴らしいので、初めて冬に来て見ました。これから再び靴を履き庭を散策します。
園内には琵琶湖疎水から引き込まれた水が潺となって流れています。さほど恐くない飛び石を渡って奥に進むと・・・。
振り向くと、後で訪れる“洋館”が見えています。歴史的に知られている「無鄰菴会議」が、この洋館の2階で開かれました。
洋館の手前には「茶室」が見えています。この茶室・・・特に名前がないようですね。多分・・・上がることはできないかと思いますが、後で内部は見られるかと。
そのまま進むと、左手には、山縣有朋自身が醍醐の山から切り出したと伝わる「大石」が無造作に置かれています。
芝生は冬枯れですが、ここから振り向くと母家が見えています。先程あそこら出入りしてました。そして、ここから見る秋の紅葉は見事です。
今日は庭園の奥まで行こうと思いながら歩いて行きます。ライトアップでは、“滝”までは行けないからです。それより、この囲いは何だろう・・・と、いつも思います。
苑路の湧き出見つけた“冬の縁起木”の万両です・・・多分・・・千両も百両の区別が付かないから。
庭園の最奥(東側)まで行くと、「三段の滝」があります。1段で水を落とし、2段と3段で左右に振るという手法をとっています。
庭園を洋館の方に戻ると途中に、山縣有朋の言葉が綴られた「御賜稚松之記」碑が建っています。有朋は明治天皇に拝謁した時「京都には名園がいくつかありますが、御所のお庭を除いて、私の庭におよぶものはございません」と語った逸話が残っています。
ここで「茶室」までやって来ました。藪内流「燕庵」を模して造られたと言われていますが、内部が開いているので垣間見ることができました。
この“茶室”貸し出されているんですね。パンフレットを読むと、午前中で3080円、午後で3600円、一日で5140円、母家の2階と込みだそうですけど・・・。
最後に、1898年(明治31年)に建立された、煉瓦造り2階建ての洋館に入ります。靴を脱いでスリッパに履き替え入りますが、中からお二人出て来られました。結局・・・4名だけでしたね。
1階は展示室のようになっています。当時の面影は、煉瓦造りの壁ぐらいでしょう。“山縣有朋”“7代目小川治兵衛”のパネルは興味深く読まさせて貰いました。
何度か来てますが、やっぱり2階も見に行きます。“レトロ建築”らしい階段を上がってみると・・・予想通り誰も居ません。
1903年(明治36年)4月21日、元老山縣有朋、立憲政友会総裁の伊藤博文、 総理大臣の桂太郎、外務大臣の小村寿太郎の4人によって、日露戦争直前の我が国の外交方針を決める「無鄰菴会議」が、ここで開かれました。
江戸時代初期狩野派の絵師によって描かれた“金碧花鳥図壁画”によって飾られた部屋は歴史を感じさせます。初めて来た訳ではないので、早々とここを出て無鄰菴もあとにしました。
14時30分過ぎにここを出て、地下鉄東西線「蹴上駅」から帰路に着きました。
【無鄰菴 三段の滝】
ここには14時10分頃に着きました。こんなに遅い時間に訪れることは稀ですが、冬だし多分空いていると思いつつ入口をくぐると・・・。
拝観受付に先客がお一人。それを待って拝観料410円を払って、こ「潜り戸」を入ります。この先には“冬枯れの庭”を目にすることでしょう。
潜り戸を入ると右手に行けば「洋館」が、左に行けば「庭園」に出ます。どちらでも好きなコースを選べますが、私は庭園を目指します。
庭園に向かって飛び石づたいに歩を進めると、左手に母家が見えて来て内部に入ることが出来ました。その前に芝生は冬枯れしていますが、7代目・小川治兵衛が作庭した見事な庭園を目にします。
拝観者は、ざっと見て4名から5名ぐらい・・・この時間にしては空いています。ここから母家に上がって少しばかり休憩です。
ライトアップでは、この部屋が人で埋まるほどの賑わいで、庭師の方から説明を聞いた場所です。今日は玄関から入れませんが、玄関から入ると、四方竹(しほうちく)の坪庭が出迎えてくれます。
母家から見た庭園です。猛烈な寒気のため曇っていますが、昼から来たので本当なら青空に庭園が映えてる筈なんですけど・・・。
東山を借景に開放的な庭園が映えますが、芝生の冬枯れは何とも言えないです。何度来ても、ここの庭園は素晴らしいので、初めて冬に来て見ました。これから再び靴を履き庭を散策します。
園内には琵琶湖疎水から引き込まれた水が潺となって流れています。さほど恐くない飛び石を渡って奥に進むと・・・。
振り向くと、後で訪れる“洋館”が見えています。歴史的に知られている「無鄰菴会議」が、この洋館の2階で開かれました。
洋館の手前には「茶室」が見えています。この茶室・・・特に名前がないようですね。多分・・・上がることはできないかと思いますが、後で内部は見られるかと。
そのまま進むと、左手には、山縣有朋自身が醍醐の山から切り出したと伝わる「大石」が無造作に置かれています。
芝生は冬枯れですが、ここから振り向くと母家が見えています。先程あそこら出入りしてました。そして、ここから見る秋の紅葉は見事です。
今日は庭園の奥まで行こうと思いながら歩いて行きます。ライトアップでは、“滝”までは行けないからです。それより、この囲いは何だろう・・・と、いつも思います。
苑路の湧き出見つけた“冬の縁起木”の万両です・・・多分・・・千両も百両の区別が付かないから。
庭園の最奥(東側)まで行くと、「三段の滝」があります。1段で水を落とし、2段と3段で左右に振るという手法をとっています。
庭園を洋館の方に戻ると途中に、山縣有朋の言葉が綴られた「御賜稚松之記」碑が建っています。有朋は明治天皇に拝謁した時「京都には名園がいくつかありますが、御所のお庭を除いて、私の庭におよぶものはございません」と語った逸話が残っています。
ここで「茶室」までやって来ました。藪内流「燕庵」を模して造られたと言われていますが、内部が開いているので垣間見ることができました。
この“茶室”貸し出されているんですね。パンフレットを読むと、午前中で3080円、午後で3600円、一日で5140円、母家の2階と込みだそうですけど・・・。
最後に、1898年(明治31年)に建立された、煉瓦造り2階建ての洋館に入ります。靴を脱いでスリッパに履き替え入りますが、中からお二人出て来られました。結局・・・4名だけでしたね。
1階は展示室のようになっています。当時の面影は、煉瓦造りの壁ぐらいでしょう。“山縣有朋”“7代目小川治兵衛”のパネルは興味深く読まさせて貰いました。
何度か来てますが、やっぱり2階も見に行きます。“レトロ建築”らしい階段を上がってみると・・・予想通り誰も居ません。
1903年(明治36年)4月21日、元老山縣有朋、立憲政友会総裁の伊藤博文、 総理大臣の桂太郎、外務大臣の小村寿太郎の4人によって、日露戦争直前の我が国の外交方針を決める「無鄰菴会議」が、ここで開かれました。
江戸時代初期狩野派の絵師によって描かれた“金碧花鳥図壁画”によって飾られた部屋は歴史を感じさせます。初めて来た訳ではないので、早々とここを出て無鄰菴もあとにしました。
14時30分過ぎにここを出て、地下鉄東西線「蹴上駅」から帰路に着きました。
【無鄰菴 三段の滝】