第52回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 妙心寺塔頭 東海庵へ
2月6日(火)は、毎年恒例の人間ドックに行きました。何もなければ11時頃には終わりますが、こればっかりは検査が終わってみたないと分かりません。小心者の私は2週間前からドギドキし始めます。これを書いてる時は、まだ検査結果は出てませんが速報値では重大な問題は無さそうなので、帰りに第52回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 妙心寺塔頭 東海庵に行くことにしました。
東海庵は5年前にも公開されました。もちろん前回行ってますが、記憶も薄れてきてるのと、次ぎに何時公開されるのか分からないので来て見た次第です。
JR「花園駅」から歩いて10分弱で東海庵に着きました。この日は前日の、21時以降は絶食してたので先に、食事を摂りたかったんですけど・・・。
境内の南東角には唐門があります。高貴な人の出入りしか使われないので固く閉まっています。
境内の東側には山門がありますが、その南側には「京の冬の旅」が開催中を示す看板が立っています。これも前回と同じです。
2013年(平成25年)の公開時には、この山門前で並んで訳で・・・あまりにも対応がお粗末で、あの日訪れた人全てが怒りに思った事でしょうね、思い出すと今でも腹立たしいです。
山門を入った右手に雄大な庫裏があって、その中に拝観受付があって、拝観料600円を納めてスタンプラリー用紙も貰いました。
着いたのが11時50分頃・・・お昼頃なら団体さんは居ないだろうと思って来ました。靴を袋に入れて庫裏から方丈へ向かいます。
ここで復習です。これは後程、ガイドさんの話を聞いて思い出したんですけど、東海庵に趣向の違った庭が3つあります。先ずは方丈前の庭園から。
禅宗庭園の原点と言える白砂だけの「白露地の庭」で、棗型の手水鉢だけ置いてある独特の空間が広がっています。奥に見えている法堂や三門が借景の意味があるのでしょう。
右から「礼の間(らいのま)」「室中の間(しっちゅうのま)」「檀那の間(だんなのま)」で、典型的な禅宗様式です。「室中の間」の仏間には、中央に開山の悟渓宗頓(ごけいそうとん)禅師像が安置されてました。
ガイドさんの話を聞きましたが、5年前にも聞いているので目新しいものは無かったです。それに何だかお昼時のせいかも知れませんが、あまり熱が籠もってないように感じられたのは私だけでしょか。
方丈の西側にある杉戸絵は剥落してて何か分かりません。それを見ながら西側から方丈の北側に出てみると・・・。
方丈を抜けると正面には書院があって、左右には趣の違う庭園があります。どれから見て行くか迷う所ですが、私は正面の書院を見て行きます。(前回は撮影禁止でしたが、今回はOKでした。)
書院は三部屋で西から撮って行きました。ただ書院の案内は無かったです。ガイドさんは立ってましたが、庭の案内のようで・・・ただ襖絵は狩野派の絵師によって描かれたようです。
次ぎに、方丈と書院に囲まれた坪庭・・・書院南庭です。今回も表の看板の写真に使われています。
七坪ほどの広さに大小七個の石を配し、中央の石から波紋を白砂で描いてある不思議な空間です。
最後の庭園は書院西庭で、「東海一連(とうかいいちれん)の庭」(史跡名勝)の庭と呼ばれる枯山水庭園です。
12時を過ぎても橋柱の手水鉢の水は氷っています。それほど朝の冷え込みは強烈でした。松を植えた築山には不老不死の神や仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛州(えいしゅう)」の三島を表し、三尊石や鶴石、亀石も巧みに配置されています。
このあと、書院の前を通って再び庫裏の中にでます。最初の時も見ていますが、ここに古井戸がありました。
そして、今回気が付いたことですが、上を見ると駕籠が吊ってあって、また雲版も見つけました。雲版は前回の写真を確認しても写ってないので、新しいものかも知れません。
そんなに広くない東海庵を3周ほどして、ここを出ようとしたら・・・バスの添乗員さんでしょうか多くの靴を持って来られました。多分、団体さんが来られるんでしよう。
庫裏の前にも手水鉢がありました。庫裏を出て正面には鐘楼もあって、そこを撮ってから山門から12時10分に出ました。
妙心寺塔頭寺院の一つである東海庵は、「龍泉派」「霊雲派」「聖澤派」とともに『妙心寺四派(しは)』と呼ばれる「東海派」の本庵です。1484年(文明16年)斉藤越前守利国の妻・利貞尼が妙心寺の住持をつとめた悟渓宗頓禅師を開祖として創建したが始まりです。
【妙心寺塔頭 東海庵 白露地の庭】
東海庵は5年前にも公開されました。もちろん前回行ってますが、記憶も薄れてきてるのと、次ぎに何時公開されるのか分からないので来て見た次第です。
JR「花園駅」から歩いて10分弱で東海庵に着きました。この日は前日の、21時以降は絶食してたので先に、食事を摂りたかったんですけど・・・。
境内の南東角には唐門があります。高貴な人の出入りしか使われないので固く閉まっています。
境内の東側には山門がありますが、その南側には「京の冬の旅」が開催中を示す看板が立っています。これも前回と同じです。
2013年(平成25年)の公開時には、この山門前で並んで訳で・・・あまりにも対応がお粗末で、あの日訪れた人全てが怒りに思った事でしょうね、思い出すと今でも腹立たしいです。
山門を入った右手に雄大な庫裏があって、その中に拝観受付があって、拝観料600円を納めてスタンプラリー用紙も貰いました。
着いたのが11時50分頃・・・お昼頃なら団体さんは居ないだろうと思って来ました。靴を袋に入れて庫裏から方丈へ向かいます。
ここで復習です。これは後程、ガイドさんの話を聞いて思い出したんですけど、東海庵に趣向の違った庭が3つあります。先ずは方丈前の庭園から。
禅宗庭園の原点と言える白砂だけの「白露地の庭」で、棗型の手水鉢だけ置いてある独特の空間が広がっています。奥に見えている法堂や三門が借景の意味があるのでしょう。
右から「礼の間(らいのま)」「室中の間(しっちゅうのま)」「檀那の間(だんなのま)」で、典型的な禅宗様式です。「室中の間」の仏間には、中央に開山の悟渓宗頓(ごけいそうとん)禅師像が安置されてました。
ガイドさんの話を聞きましたが、5年前にも聞いているので目新しいものは無かったです。それに何だかお昼時のせいかも知れませんが、あまり熱が籠もってないように感じられたのは私だけでしょか。
方丈の西側にある杉戸絵は剥落してて何か分かりません。それを見ながら西側から方丈の北側に出てみると・・・。
方丈を抜けると正面には書院があって、左右には趣の違う庭園があります。どれから見て行くか迷う所ですが、私は正面の書院を見て行きます。(前回は撮影禁止でしたが、今回はOKでした。)
書院は三部屋で西から撮って行きました。ただ書院の案内は無かったです。ガイドさんは立ってましたが、庭の案内のようで・・・ただ襖絵は狩野派の絵師によって描かれたようです。
次ぎに、方丈と書院に囲まれた坪庭・・・書院南庭です。今回も表の看板の写真に使われています。
七坪ほどの広さに大小七個の石を配し、中央の石から波紋を白砂で描いてある不思議な空間です。
最後の庭園は書院西庭で、「東海一連(とうかいいちれん)の庭」(史跡名勝)の庭と呼ばれる枯山水庭園です。
12時を過ぎても橋柱の手水鉢の水は氷っています。それほど朝の冷え込みは強烈でした。松を植えた築山には不老不死の神や仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛州(えいしゅう)」の三島を表し、三尊石や鶴石、亀石も巧みに配置されています。
このあと、書院の前を通って再び庫裏の中にでます。最初の時も見ていますが、ここに古井戸がありました。
そして、今回気が付いたことですが、上を見ると駕籠が吊ってあって、また雲版も見つけました。雲版は前回の写真を確認しても写ってないので、新しいものかも知れません。
そんなに広くない東海庵を3周ほどして、ここを出ようとしたら・・・バスの添乗員さんでしょうか多くの靴を持って来られました。多分、団体さんが来られるんでしよう。
庫裏の前にも手水鉢がありました。庫裏を出て正面には鐘楼もあって、そこを撮ってから山門から12時10分に出ました。
妙心寺塔頭寺院の一つである東海庵は、「龍泉派」「霊雲派」「聖澤派」とともに『妙心寺四派(しは)』と呼ばれる「東海派」の本庵です。1484年(文明16年)斉藤越前守利国の妻・利貞尼が妙心寺の住持をつとめた悟渓宗頓禅師を開祖として創建したが始まりです。
【妙心寺塔頭 東海庵 白露地の庭】