“もみじの永観堂”聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺へ【前編】
南禅寺塔頭 聴松院を出て、鹿ヶ谷通りを北上すると永観堂の南門に10時49分に着きました。ここは永観堂幼稚園の出入口で拝観は、その先の総門から入ります。
“紅葉の永観堂”と呼ばれるほど、ここの紅葉は見事です。しかし、紅葉には2004年(平成16年)11月から来てません。また永観堂には2010年(平成22年)5月以来、来てなかったです。
南門から総門まで少しだけ距離があります。久し振りと言ってもライトアップには来てことがあって、ただ1時間待ちと聞いて退散しましたが・・・。
冬の永観堂は空いてるものと思ってて、その通りでしたが来てる観光客の殆どは外国人観光客のようでした。
総門を入って広い参道を進みと中門が見えます。その左手に拝観受付所があり、そこで600円を納めます。紅葉時には拝観開始前から並んだように思い出しました。
8年も来てなかったら記憶が曖昧です。先ずは案内にしたがって大玄関から堂内に入ります。ここを入ったのが10時52分、予定では約30分で出てくる予定にしてました。
大玄関を入って靴を袋に入れ上がります。左手には“納経所”があって朱印は先に預けますが、確か以前にいただいてる筈・・・それで先に進むことに。
余談ですが、堂内の記憶が薄かったから仕方ないことですが、ここの堂内・・・大変広いです。ゆっくり見て回るには30分では時間が足りませんでした・・・1時間は見ておいた方が良いかと思います。
拝観コースに沿って進みますが、最初に見るのは釈迦堂(方丈)前の前庭でしょう。拝観コースでは、この後に正面から見ることになるので詳細は後程。
案内にしたがって進むと中庭があって、左に古方丈、奥の正面に瑞紫殿が見えます。時計回りで中庭をこれから回ります。
渡り廊下を通って古方丈に向かいます。ここまで来るとボチボチ思い出すことも・・・ただ、こんなに広いとは・・・忘れてました・・・。
古方丈に入る手前の左手にも庭園がありました。坪庭のような雰囲気がありますね。古方丈の内部は・・・もちろん覚えてません。
古方丈の入口に「室内は撮影禁止」とあります。文化財を守るのには仕方ないことですが・・・少し残念です。
ここに来て思い出したのが、真ん中の部屋「孔雀の間」です。ここの欄間には5羽の雀が描かれたましたが、あまりに見事だったため1羽が飛び立ったとか・・・。狩野探幽が描いたとされますが・・・ゆっくり観賞してみてください。
1666年(寛文6年)に建立された古方丈の奥にも庭園があって、小さな蹲踞を見つけました。この近くに茶室でもあるのかなぁ・・・とおもいましたが・・・。
古方丈から見た中庭です。向かいの釈迦堂の前には床机が置いてあって、座りながら中庭を観賞できます。この時期は空いてますが、紅葉ではそうは行かないでしょう。
次に渡り廊下を歩いて瑞紫殿の中に入りました。ここはただただ広い堂内に「火除けの阿弥陀」が祀られています。
京の街を焼き尽くした「応仁の乱」で、永観堂の伽藍も焼け落ちましたが、ここに安置されてた阿弥陀如来坐像だけ右手が焦げただけで、焼け残ったと言われています。
次に釈迦堂(方丈)に移動します。この中庭をやっと一周したことになりますがやっぱりこの時期は空いてて、この時間でもゆっくり見られます。
瑞紫殿と釈迦堂(方丈)の谷間に小さな坪庭を見つけました。こうしてゆっくりゆっくり最初は観賞してましたが・・・。
釈迦堂(方丈)から大玄関横の鶴寿台と古方丈(対面所)を中庭越しに座って見ても良し・・・ただ時間が気になったので先を急ぎます。
釈迦堂(方丈)の西側には唐門があります。天皇の勅使がここから入るため勅使門とも呼ばれており、この前の盛り砂を踏んで身を清めたといいます。
この盛り砂は、毎日手入れされてるようですね、市松模様が綺麗でした。こんどは南側に移動しますが手前にある「悲田梅」に注目です。
遅咲きでしょうか、この時は蕾も膨らんでなかったです。永観律師が、境内の梅の木に実になることを待ちかね、貧しい病人に施したといわれいる梅をいつしか“悲田梅”と呼ばれるようになりました。
ここの見所は襖絵です。長谷川等伯が描いた“竹虎図”がある「虎の間」、「松の間」「仙人の間」。また、狩野永徳が描いた「四季の間」などがあります。
この釈迦堂(方丈)南側にも庭園があって、よく見ると蹲踞も見えます。塀は工事中のためでしょうか、幕に覆われています。
ここの襖絵をゆっくり観賞と言いたい所、この先がまだまだあることに気が付きだして・・・少し急いで見て行くことになってきました。
釈迦堂(方丈)から、くねくねした廊下の先には「千佛洞(せんぶつどう)」と書かれた宝物館でしょうか内部の撮影はやめました。意味は、断崖の岩壁を掘り、内部に仏像を彫刻したり壁画を描いたりした石窟寺院のことだそうです。
千佛洞の向かいにトイレがあったので休憩できます。私もそうでした。そして、その先に梵鐘が吊してあります。“絶対の撞かないように”と注意書きがありました。
その先に御影堂があって、振り向くと“紅葉スポット”である多宝塔が見えています。本当は、あそこまで歩いて登りたいところ・・・時間がなくなり・・・多分・・・無理でしょう。
永観堂の正式名称は「聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺」といいます。第七世永観律師にちなみ''永観堂''と通称され、京都でも屈指の紅葉の名所と知られ“紅葉の永観堂”として有名です。創建は、863年(貞観5年)弘法大師の高弟・真紹僧都(しんじょうそうず)が清和天皇より寺院建立の許可をもらい「禅林寺」の勅額を賜ったのがはじまり。永観堂が大きく発展したのは永観律師になってからで、境内に施療院を建てるなどし、いつしか禅林寺は永観堂と呼ばれるにようになりました。宗派は、浄土宗西山(せいざん)禅林寺派の総本山で、宗祖は、法然上人です。
このあとは後編に続きます。
【永観堂 古方丈】
“紅葉の永観堂”と呼ばれるほど、ここの紅葉は見事です。しかし、紅葉には2004年(平成16年)11月から来てません。また永観堂には2010年(平成22年)5月以来、来てなかったです。
南門から総門まで少しだけ距離があります。久し振りと言ってもライトアップには来てことがあって、ただ1時間待ちと聞いて退散しましたが・・・。
冬の永観堂は空いてるものと思ってて、その通りでしたが来てる観光客の殆どは外国人観光客のようでした。
総門を入って広い参道を進みと中門が見えます。その左手に拝観受付所があり、そこで600円を納めます。紅葉時には拝観開始前から並んだように思い出しました。
8年も来てなかったら記憶が曖昧です。先ずは案内にしたがって大玄関から堂内に入ります。ここを入ったのが10時52分、予定では約30分で出てくる予定にしてました。
大玄関を入って靴を袋に入れ上がります。左手には“納経所”があって朱印は先に預けますが、確か以前にいただいてる筈・・・それで先に進むことに。
余談ですが、堂内の記憶が薄かったから仕方ないことですが、ここの堂内・・・大変広いです。ゆっくり見て回るには30分では時間が足りませんでした・・・1時間は見ておいた方が良いかと思います。
拝観コースに沿って進みますが、最初に見るのは釈迦堂(方丈)前の前庭でしょう。拝観コースでは、この後に正面から見ることになるので詳細は後程。
案内にしたがって進むと中庭があって、左に古方丈、奥の正面に瑞紫殿が見えます。時計回りで中庭をこれから回ります。
渡り廊下を通って古方丈に向かいます。ここまで来るとボチボチ思い出すことも・・・ただ、こんなに広いとは・・・忘れてました・・・。
古方丈に入る手前の左手にも庭園がありました。坪庭のような雰囲気がありますね。古方丈の内部は・・・もちろん覚えてません。
古方丈の入口に「室内は撮影禁止」とあります。文化財を守るのには仕方ないことですが・・・少し残念です。
ここに来て思い出したのが、真ん中の部屋「孔雀の間」です。ここの欄間には5羽の雀が描かれたましたが、あまりに見事だったため1羽が飛び立ったとか・・・。狩野探幽が描いたとされますが・・・ゆっくり観賞してみてください。
1666年(寛文6年)に建立された古方丈の奥にも庭園があって、小さな蹲踞を見つけました。この近くに茶室でもあるのかなぁ・・・とおもいましたが・・・。
古方丈から見た中庭です。向かいの釈迦堂の前には床机が置いてあって、座りながら中庭を観賞できます。この時期は空いてますが、紅葉ではそうは行かないでしょう。
次に渡り廊下を歩いて瑞紫殿の中に入りました。ここはただただ広い堂内に「火除けの阿弥陀」が祀られています。
京の街を焼き尽くした「応仁の乱」で、永観堂の伽藍も焼け落ちましたが、ここに安置されてた阿弥陀如来坐像だけ右手が焦げただけで、焼け残ったと言われています。
次に釈迦堂(方丈)に移動します。この中庭をやっと一周したことになりますがやっぱりこの時期は空いてて、この時間でもゆっくり見られます。
瑞紫殿と釈迦堂(方丈)の谷間に小さな坪庭を見つけました。こうしてゆっくりゆっくり最初は観賞してましたが・・・。
釈迦堂(方丈)から大玄関横の鶴寿台と古方丈(対面所)を中庭越しに座って見ても良し・・・ただ時間が気になったので先を急ぎます。
釈迦堂(方丈)の西側には唐門があります。天皇の勅使がここから入るため勅使門とも呼ばれており、この前の盛り砂を踏んで身を清めたといいます。
この盛り砂は、毎日手入れされてるようですね、市松模様が綺麗でした。こんどは南側に移動しますが手前にある「悲田梅」に注目です。
遅咲きでしょうか、この時は蕾も膨らんでなかったです。永観律師が、境内の梅の木に実になることを待ちかね、貧しい病人に施したといわれいる梅をいつしか“悲田梅”と呼ばれるようになりました。
ここの見所は襖絵です。長谷川等伯が描いた“竹虎図”がある「虎の間」、「松の間」「仙人の間」。また、狩野永徳が描いた「四季の間」などがあります。
この釈迦堂(方丈)南側にも庭園があって、よく見ると蹲踞も見えます。塀は工事中のためでしょうか、幕に覆われています。
ここの襖絵をゆっくり観賞と言いたい所、この先がまだまだあることに気が付きだして・・・少し急いで見て行くことになってきました。
釈迦堂(方丈)から、くねくねした廊下の先には「千佛洞(せんぶつどう)」と書かれた宝物館でしょうか内部の撮影はやめました。意味は、断崖の岩壁を掘り、内部に仏像を彫刻したり壁画を描いたりした石窟寺院のことだそうです。
千佛洞の向かいにトイレがあったので休憩できます。私もそうでした。そして、その先に梵鐘が吊してあります。“絶対の撞かないように”と注意書きがありました。
その先に御影堂があって、振り向くと“紅葉スポット”である多宝塔が見えています。本当は、あそこまで歩いて登りたいところ・・・時間がなくなり・・・多分・・・無理でしょう。
永観堂の正式名称は「聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺」といいます。第七世永観律師にちなみ''永観堂''と通称され、京都でも屈指の紅葉の名所と知られ“紅葉の永観堂”として有名です。創建は、863年(貞観5年)弘法大師の高弟・真紹僧都(しんじょうそうず)が清和天皇より寺院建立の許可をもらい「禅林寺」の勅額を賜ったのがはじまり。永観堂が大きく発展したのは永観律師になってからで、境内に施療院を建てるなどし、いつしか禅林寺は永観堂と呼ばれるにようになりました。宗派は、浄土宗西山(せいざん)禅林寺派の総本山で、宗祖は、法然上人です。
このあとは後編に続きます。
【永観堂 古方丈】