小堀遠州ゆかりの石庭 御香宮神社へ
大黒寺を出て南に下がります。私は伏見の地理は詳しくないので事前に調べて来ました。それで毛利橋通りと呼ばれる通りを、今度は東に進むと、先ずは京阪電車の踏切を渡ります。そして今度は近鉄電車の高架をくぐり、暫く歩くと御香宮神社の北門の前までやって来ました。
今年の正月、1月6日(土)に“京都十六社朱印巡り”でやって来ました。この時に大黒寺と一緒に行く予定をたててましたが、残念ながら書院が閉まってて・・・予定を変更。今日は、そのリベンジでやって来た次第です。
今日は境内の散策はしません。目指すは社務所・・・寄り道しませんが、左手には本殿が見えてます。
ここが社務所の入口です。ここを入ると「小堀遠州ゆかりの石庭」が見られます。拝観料は200円で、お隣の授与所で申し出すると拝観券と由緒書きをいただけます。
ここには14時5分に着きました。拝観料を納めると、玄関に神職さんが来られて案内してくれます・・・と言っても靴を脱いで下駄箱に入れ上がるまで・・・ですけど。
書院に入ると気が付いたことですが、ここでは“案内テープ”が流れています。先客はお一人・・・庭を見学されてました。
ガラス戸を開けて“小堀遠州ゆかりの石庭”をゆっくり観賞します。“小堀遠州の庭”じゃなくて、“ゆかりの”とあるのが味噌なんです。この手水鉢には、1477年(文明9年)の銘があるそうです。
江戸時代初期、伏見奉行所に、茶人で作庭家としても有名な小堀遠州が奉行として着任すると、奉行所の庭に素晴らしい庭園を造りました。時は流れ江戸時代末期に「鳥羽伏見の戦い」が起こり、伏見奉行所の幕軍に対して御香宮境内には官軍の薩摩藩が陣取り戦ったた結果、奉行所は焼け落ち庭園も荒れ果ててしまいます。その跡地は明治時代以降、軍の施設への変遷を経て、市営住宅団地が建ちました。その工事の際に庭石を御香宮に移し、1961年(昭和36年)昭和の名作庭家・中根金作氏により“遠州の庭石”を用いて作庭されたのが、現在の御香宮神社の石庭です。
書院には誰も居ないので、足早に歩いて来たのでゆっくりさせて貰いました。前途しましたが、この庭を見るのに五度目の正直でした。
御香宮神社には、毎年“京都十六社朱印巡り”のため正月にきてますが、その期間は庭園は見られません。そして10月に来た時は、お祭りのため閉鎖されてて・・・よくよく運が無かったので、やっと入れた・・・と言うことです。
ここから奥の書院に移動します。この日は天気が良すぎて日差しが眩しすぎる感じがしました。書院から見る庭園は、移動するに従って見る風景も変化します。それもまた計算されたものでしょう。
ここから藤棚が見えました。由緒では、後水尾上皇が命名された『ところがらの藤』を移植されたようです。これを聞くと咲いてる“藤”を見たくなりました。
書院と書院の間に見つけたものです。「水漉し石(みずこしいし)」と言って、豊臣秀吉(太閤)が、お茶会の時に、この石を用いて水を漉し、お茶を点てられたと伝わるものです。
ここには10分ぐらいで出ました。先客の方はまだ庭園を見てられたようですが・・・私は何事も早いです。次ぎに行きたい所もあったので・・・。この御香宮神社は前途のとおり1月6日(土)に来ています。この時、撮り損ねた能舞台を撮りました。
そして左手には極彩色で蘇った拝殿を見ながら、今度は南から境内を出ます。お正月に比べと断然、参拝者は少ないてすね。
表門から出る前に、先程「大黒寺」で聞いた「伏見義民(ふしみぎみん)」の話し・・・ここには碑が建ってあったのを覚えてました。
ここには駒札があって、1月6日(土)に来た時に学習してました。そのためガイドさんの話も、すんなり入ってこれました。
今日の石庭の見学で、御香宮神社はコンプリートできたかなぁ・・・と思っています。せっかく伏見まで来たので、あと数カ所寄って行きます。
【御香宮神社 石庭】
今年の正月、1月6日(土)に“京都十六社朱印巡り”でやって来ました。この時に大黒寺と一緒に行く予定をたててましたが、残念ながら書院が閉まってて・・・予定を変更。今日は、そのリベンジでやって来た次第です。
今日は境内の散策はしません。目指すは社務所・・・寄り道しませんが、左手には本殿が見えてます。
ここが社務所の入口です。ここを入ると「小堀遠州ゆかりの石庭」が見られます。拝観料は200円で、お隣の授与所で申し出すると拝観券と由緒書きをいただけます。
ここには14時5分に着きました。拝観料を納めると、玄関に神職さんが来られて案内してくれます・・・と言っても靴を脱いで下駄箱に入れ上がるまで・・・ですけど。
書院に入ると気が付いたことですが、ここでは“案内テープ”が流れています。先客はお一人・・・庭を見学されてました。
ガラス戸を開けて“小堀遠州ゆかりの石庭”をゆっくり観賞します。“小堀遠州の庭”じゃなくて、“ゆかりの”とあるのが味噌なんです。この手水鉢には、1477年(文明9年)の銘があるそうです。
江戸時代初期、伏見奉行所に、茶人で作庭家としても有名な小堀遠州が奉行として着任すると、奉行所の庭に素晴らしい庭園を造りました。時は流れ江戸時代末期に「鳥羽伏見の戦い」が起こり、伏見奉行所の幕軍に対して御香宮境内には官軍の薩摩藩が陣取り戦ったた結果、奉行所は焼け落ち庭園も荒れ果ててしまいます。その跡地は明治時代以降、軍の施設への変遷を経て、市営住宅団地が建ちました。その工事の際に庭石を御香宮に移し、1961年(昭和36年)昭和の名作庭家・中根金作氏により“遠州の庭石”を用いて作庭されたのが、現在の御香宮神社の石庭です。
書院には誰も居ないので、足早に歩いて来たのでゆっくりさせて貰いました。前途しましたが、この庭を見るのに五度目の正直でした。
御香宮神社には、毎年“京都十六社朱印巡り”のため正月にきてますが、その期間は庭園は見られません。そして10月に来た時は、お祭りのため閉鎖されてて・・・よくよく運が無かったので、やっと入れた・・・と言うことです。
ここから奥の書院に移動します。この日は天気が良すぎて日差しが眩しすぎる感じがしました。書院から見る庭園は、移動するに従って見る風景も変化します。それもまた計算されたものでしょう。
ここから藤棚が見えました。由緒では、後水尾上皇が命名された『ところがらの藤』を移植されたようです。これを聞くと咲いてる“藤”を見たくなりました。
書院と書院の間に見つけたものです。「水漉し石(みずこしいし)」と言って、豊臣秀吉(太閤)が、お茶会の時に、この石を用いて水を漉し、お茶を点てられたと伝わるものです。
ここには10分ぐらいで出ました。先客の方はまだ庭園を見てられたようですが・・・私は何事も早いです。次ぎに行きたい所もあったので・・・。この御香宮神社は前途のとおり1月6日(土)に来ています。この時、撮り損ねた能舞台を撮りました。
そして左手には極彩色で蘇った拝殿を見ながら、今度は南から境内を出ます。お正月に比べと断然、参拝者は少ないてすね。
表門から出る前に、先程「大黒寺」で聞いた「伏見義民(ふしみぎみん)」の話し・・・ここには碑が建ってあったのを覚えてました。
ここには駒札があって、1月6日(土)に来た時に学習してました。そのためガイドさんの話も、すんなり入ってこれました。
今日の石庭の見学で、御香宮神社はコンプリートできたかなぁ・・・と思っています。せっかく伏見まで来たので、あと数カ所寄って行きます。
【御香宮神社 石庭】