平安時代初期の豪族・宮道氏ゆかりの神社 宮道神社へ
4月13日(金)は、京都市観光協会主催の「春の特別公開2018」で山科にある勧修寺の客殿・書院・本堂が初めて公開されたので、JRと地下鉄を乗り継いで「小野駅」までやって来ました。
駅には8時30分頃着きました。勧修寺まで10分もかかりませんが、その前に一箇所寄って行くことにしてました。それが宮道神社(みやじじんじゃ)です。
場所は勧修寺の南側にあり、地図を見ていて分かった神社です。その前に駒札があって、ここの神社について由緒が書かれてました。
古代、宇治郡を本拠としいた豪族・宮道(みやじ)氏ゆかりの神社で、898年(寛平10年)に創建され、宮道(みやじ)氏の祖神である日本武尊(やまとたけるのみこと)と雅武王(わかたけおう)が祀られています。そのあと、宮道弥益(みやじのいやます)、宮道列子(みやじのれっし・たまこ)、藤原高藤(ふじわらのたかふじ)、藤原定方(ふじわらさだたか)、藤原胤子 (ふじわらのいんし・たねこ)が合祀され、宮道大明神・二所大明神とも称されています。
社殿は東に向いているので写真を撮るのに丁度良いです。この日は昨日の黄砂も去って、その変わり寒波が入ってきて、この所の初夏の陽気が平年に戻りました。では境内に入ってみます。
石段を上がって、正面に鳥居と社殿がありますが、それは後程。入って左手には手水舎がありました。
石鳥居の奥に本殿がありますが、覆屋の中にあります。1890年(明治23年)に再建された本殿は、2000年(平成12年)の境内整備に伴い、本殿覆屋を建てられたようです。
社殿の南側(左手)には石碑があって「済みましし 御祖のことも 偲ばれん 永久に鎮まる 宮道の社」(勧修寺門跡 筑波常遍 詠・書)とありました。
境内の裏側にも回ってみましたが、ここには摂社や末社は無いようです。8時30分に着きましたが、33分には出てきました。
最後に、小倉百人一首の和歌の石碑がありました。「名に負はば 逢坂山のさねかづら 人に知られで くるよしもがな」(三条右大臣)と書かれてました。
ここにも山吹が咲いてました。桜が散り、今はハナミズキが何処かかしこで咲いています。ここから勧修寺に向かうのは・・・まだ早い・・・です。
宮道弥益(みやじのいやます)は創建当時の山城国宇治郡(現在の京都市山科区)の大領であり、弥益の娘・宮道列子(みやじのれっし・たまこ)は藤原北家の流れを汲む内大臣・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)に嫁ぎ、生まれた子が第59代・宇多(うだ)天皇女御・第60代・醍醐天皇の生母となったのが藤原胤子 (ふじわらのいんし・たねこ)です。母の死後に醍醐天皇は、弔いのために弥益邸宅跡を寺にしたのが勧修寺で、高藤の流れを汲む家系を、寺名に因んで勧修寺流というそうです。高藤と列子のロマンスについては「今昔物語」にも残されてるそうで、この列子の話が後に“玉の輿”のモデルになったとか。
時計の針は、まだ8時33分です。以前勧修寺を訪れて、8時50分には入れましたが、それにしても早いので・・・と考えていると、南側に大きな鳥居が見えました。
【宮道神社】
駅には8時30分頃着きました。勧修寺まで10分もかかりませんが、その前に一箇所寄って行くことにしてました。それが宮道神社(みやじじんじゃ)です。
場所は勧修寺の南側にあり、地図を見ていて分かった神社です。その前に駒札があって、ここの神社について由緒が書かれてました。
古代、宇治郡を本拠としいた豪族・宮道(みやじ)氏ゆかりの神社で、898年(寛平10年)に創建され、宮道(みやじ)氏の祖神である日本武尊(やまとたけるのみこと)と雅武王(わかたけおう)が祀られています。そのあと、宮道弥益(みやじのいやます)、宮道列子(みやじのれっし・たまこ)、藤原高藤(ふじわらのたかふじ)、藤原定方(ふじわらさだたか)、藤原胤子 (ふじわらのいんし・たねこ)が合祀され、宮道大明神・二所大明神とも称されています。
社殿は東に向いているので写真を撮るのに丁度良いです。この日は昨日の黄砂も去って、その変わり寒波が入ってきて、この所の初夏の陽気が平年に戻りました。では境内に入ってみます。
石段を上がって、正面に鳥居と社殿がありますが、それは後程。入って左手には手水舎がありました。
石鳥居の奥に本殿がありますが、覆屋の中にあります。1890年(明治23年)に再建された本殿は、2000年(平成12年)の境内整備に伴い、本殿覆屋を建てられたようです。
社殿の南側(左手)には石碑があって「済みましし 御祖のことも 偲ばれん 永久に鎮まる 宮道の社」(勧修寺門跡 筑波常遍 詠・書)とありました。
境内の裏側にも回ってみましたが、ここには摂社や末社は無いようです。8時30分に着きましたが、33分には出てきました。
最後に、小倉百人一首の和歌の石碑がありました。「名に負はば 逢坂山のさねかづら 人に知られで くるよしもがな」(三条右大臣)と書かれてました。
ここにも山吹が咲いてました。桜が散り、今はハナミズキが何処かかしこで咲いています。ここから勧修寺に向かうのは・・・まだ早い・・・です。
宮道弥益(みやじのいやます)は創建当時の山城国宇治郡(現在の京都市山科区)の大領であり、弥益の娘・宮道列子(みやじのれっし・たまこ)は藤原北家の流れを汲む内大臣・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)に嫁ぎ、生まれた子が第59代・宇多(うだ)天皇女御・第60代・醍醐天皇の生母となったのが藤原胤子 (ふじわらのいんし・たねこ)です。母の死後に醍醐天皇は、弔いのために弥益邸宅跡を寺にしたのが勧修寺で、高藤の流れを汲む家系を、寺名に因んで勧修寺流というそうです。高藤と列子のロマンスについては「今昔物語」にも残されてるそうで、この列子の話が後に“玉の輿”のモデルになったとか。
時計の針は、まだ8時33分です。以前勧修寺を訪れて、8時50分には入れましたが、それにしても早いので・・・と考えていると、南側に大きな鳥居が見えました。
【宮道神社】