かつて勧修寺の鎮守社だった八幡宮(吉利倶八幡)へ

宮道神社を出て、道路を挟んだ南側に赤い鳥居が見えました。ここはノーマーク・・・全く知らなかったので、興味津津、その鳥居に近づいて見ると・・・。ここは八幡宮(はちまんぐう)といい、通称名称は、吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう);といいます。詳しくは後程

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この朱塗りの鳥居を見上げると扁額に「八幡宮」と書かれています。しかし、奥を覗いても社殿が見えません・・・が、行ってみることにしました。

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“一の鳥居”の前には、墨で書かれた由緒書きがありますが、所々掠れてて・・・読めません。その先を進むと少しだけ階段を降りますが、綺麗な芝桜でしょうか咲いてます。

この時、まだ4月13日・・・芝桜・・・早すぎでしょう・・・違うかもね。このまま奥へ奥へと進むと、やっと社殿らしきものが見えて来て・・・。

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緩やかな石段を降りて、川を渡ると・・・二の鳥居が見えてきました。ここまで来て、この神社の規模が分かったような思いますです。その手前には手水舎もありました。

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ここにも「八幡宮」の扁額が架かっています。この鳥居・・・気のせいか横長のような・・・気がしますが・・・どうでしょう。そして恐る恐る石段を登ります。

いつもは、訪問前に少しは“予習”してくるんですけど、ここは前途したとおりノーマークでしたので、この先のことは・・・。

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先ず、石段を上がると「天満宮」があります。その左手には“安産の神”と書かれた石碑を目にしました。

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次に本殿に向かって石段を上がる途中に、大覆に囲まれた内部に、豊臣秀吉の遺命により、1593年(慶長3年)に寺社奉行の前田玄以が大型の燈籠を奉納されたそうで、多分「太閤燈籠」と呼ばれるのがそれでしょう。

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石段を上がりきると、ようやく社殿が見えました。それより狛犬が鎮座している所に、大きな矢が刺さっているのが特徴でしょう。では、最後の石段を上がります。

この拝殿前の大きな御神矢は総代会が奉納されたものだそうです。

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そのイ段下にも水盤がありました。それより下からお一人上がって来られるみたいで・・・先を急ぎます。

拝殿は山階宮家の寄進だそうで、ちなみに山階宮(やましなのみや)家は、江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、晃(あきら)親王が創設した宮家のことです。

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手前に拝殿か拝所でしょう。その奥に本殿があります。御祭神は、第15代・應神天皇、第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇、神功皇后(じんぐう こうごう)と 加茂神、吉野神、貴船神、日吉神、稲荷神を配祀す。

八幡宮は853年(仁壽3年)の創建と伝えられ、江戸時代までは勧修寺の鎮守社でした。現本殿は1695年(元禄8年)に建築され、このとき大工は、後に勧修寺の宸殿等の造営を手掛けていることから、勧修寺の元禄復興の一環として再建されたと考えられています。その後、1734年(享保19年)と1779年(安永8年)に修理が行われており、向拝部分は様式から、享保の修理時に改変されたものと推定されます。建物の内部と外陣が前後に仕切られるが、間仕切りの位置は棟通りと一致せず正面に寄り、内陣には祭壇が設けてあります。この本殿は向拝が改変されているものの、当初の姿をよく伝えており、江戸時代中期の大型の切妻造平入本殿として、その価値は高く京都指定有形文化財に指定されました。

では、次に末社を巡ります。見た所・・・いくつかあるようなので。先ずは社殿の右側から。

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と言っても二社だけでした。右に若宮八幡社(上の写真)、左に武内社(下の写真)です。祭神は、特に記載が無いので分かりません

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拝殿から降りてくると、下から神職さんが上がって来られました。下に社務所でもあったのか無かったのか、拝所の前でお祈り始められました。

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「ここに朱印ありますか」と聞く勇気・・・無かったです。少し後悔しながら下まで降りて来てました。ここには8時34分に一の鳥居をくぐって、8時41分に戻ってきたことになります。

ここから勧修寺まで5分ぐらいでしょう、けど他に行く所も無いので、それに以前来た時は、10分前に入れたから、いよいよ向かうことにしました。

【た八幡宮(吉利倶八幡) 本殿】



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