稲葉家が幕末まで藩主を務めた淀城跡へ
與杼神社の境内の南側には小さな祠があります。一見すると與杼神社の末社かなぁ・・・と思いますが、ここは淀城跡に建つ稲葉神社でした。
この淀城跡に建つ稲葉神社の鳥居は東向きに建っています。境内は淀城跡公園として整備されているようです。
鳥居を入ると右手に水が涸れた手水舎と、人が居そうにもない社務所が並んであって、その先に拝殿が。そして東向き本殿がありました。
御祭神が、従五位稲葉佐渡守正成で、側室が春日局。1885年(明治18年)旧淀藩士により、本丸跡に建立されました。
稲葉(いなば)神社の祭神は、淀藩稲葉家の祖である稲葉正成(いなばまさなり)です。正成は1571年(元亀2年)に美濃国十七条の城主・林政秀の次男として誕生。後に稲葉重通の婿養子となり稲葉姓となります。ところが妻の死去により明智光秀の重臣である斎藤利三の娘“福”を重通の養女として迎え再々婚したのが後世で知られる春日局でした。稲葉正成は豊臣秀吉に仕え、その命により小早川秀秋の家老となり五万石を領し秀秋を補佐します。そして秀吉の死後、1600年(慶長5年)「関ヶ原の合戦」で功を挙げ徳川家康から感状を受け、後に松平忠昌(越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主)に仕えた後、下野国の真岡城主となり2万石を領しますが、1628年(寛永5年)江戸城内にて死去。その稲葉家が淀藩主となるのは初代・正成から数えて5代・稲葉正知( いなばまさとも)の時、1723年(享保8年)下総国佐倉より10万2千石で入封しました。その後、1871年(明治5年)になり16代稲葉正邦(いなばまさくに)の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代148年にわたり淀藩主でした。
ここが淀城の本丸あたり・・・見渡すと城らしき所が南側しか残ってないようで、これから散策します。
ツツジが咲いている本丸跡まで、当然行きたいので石段を探します。ちなみに、ここには「淀城」の由緒が書かれた案内板(京都市)があったので書き留めました。
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠は、1619年(元和5年)伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所である淀の地に、松平越中守定綱に築城を命じて、1623年(元和9年)に着工、1625年(寛永2年)に竣工しました。翌1626年(寛永3年)の徳川秀忠・家光が上洛の途次には淀城を宿所としました。その後1633年(寛永10年)松平定綱の備中国へ移封により、永井尚政(ながいなおまさ)が城主となり、その後、諸大名が次々と入城しますが、1723年(享保8年)に春日局の子孫である稲葉正知( いなばまさとも)が下総佐倉から淀へ移り、明治維新まで稲葉家の居城となりました。江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると』の歌で名高い水車は直径8㍍もあり城の西南北の二箇所に取り付けられてました。淀城の城下街並みの様子は1748年(延享5年)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した『朝鮮聘礼使(へいれいし)淀城着来図』に詳しく描かれています。1756年(宝暦6年)の落雷により天守や建物の大半が焼失しましたが、天守や本丸御殿は再建されませんでした。また、幕末の「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍が淀城に籠もろうとしますが、城主稲葉正邦が老中にもかかわらず兵は城内にいて局外中立を守り、敗走する幕府軍の入城を拒絶し幕府軍の敗北、官軍の勝利に一役買うことになってしまいます。この時の兵火で淀城の城下町と城内の一部が焼亡してしまいました。1987年(昭和62年)に天守台の解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見されました。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、1756年(宝暦6年)の落雷で炎上する勇姿を偲ばせるものです。1968年(昭和43年)、本丸の石垣や堀を利用し公園として整備されました。
石段を見つけて登ってみました。振り返ると城内・・・今は公園ですが、城跡らしきものは何もありません。それより本殿奥に稲荷大明神、住吉大明神、熊野大明神を祀る鳥居が見えてます・・・見損ねました・・・。
上には行けましたが、肝心の天守台には行けません。何故か立入禁止に。厳重に鍵がかかって入ることはでませんでした。でも上から内濠も確認できたし、これで良かったです。
中には入れませんでしたが、Wikipediaに画像があったので借りました。危険のためか現在も調査中のためでしょうか・・・少々残念な気持ちで下に降りました。
城内の西側には上から見て石碑があるのが分かりました。9時拝観開始の寺院には余裕で行けるので、行ってみます。
「淀城址」子爵 稲葉正凱(いなばまさよし)筆・・・と書いてあるように思えました。最後の藩主・稲葉正邦(いなばまさくに)の孫にあたります。
その右隣「淀町出身戦没者 慰霊碑」・・・淀町、今は伏見区ですが1957年(昭和32年)に京都市に編入されたんですね、知らなかったです。
次が「田邊治之助君記念碑」です。“鳥羽伏見戦”で淀藩は前途したとおり城門を閉ざして幕府軍の入城を拒みます。ただ警衛を破り侵入した者があったので,物頭役田邊治之助は淀藩が朝敵の名を被らないように責任をとって自決します。その志操を顕彰にするため、戊辰戦争勃発70年に建立されました。
こちらは「京都淀 喜界 ライオンズクラブ姉妹記念碑」と書かれており、石標には「絆」と書いてあります。鹿児島県喜界島と淀・・・深く考えません。
城内は鳥居から出ていくと、GWの期間中に見頃となるツツジが綺麗に咲いています。参考くでに向に見えているが與杼神社です。
次の目的地からは反対になりますが、どうしても石垣を撮りたくて大きく回り込んでみたんですけど・・・これが精一杯です。
もう少し時間があれば外回りを一周したんですけど、次の目的もあるので・・・その次の目的地は納所(のうそ)にあります。納所・・・それは豊臣秀吉が側室・茶々(淀殿)の出産のため修築を命じた“淀古城”があった所に建っている寺院です。
【淀城跡 稲葉神社】
この淀城跡に建つ稲葉神社の鳥居は東向きに建っています。境内は淀城跡公園として整備されているようです。
鳥居を入ると右手に水が涸れた手水舎と、人が居そうにもない社務所が並んであって、その先に拝殿が。そして東向き本殿がありました。
御祭神が、従五位稲葉佐渡守正成で、側室が春日局。1885年(明治18年)旧淀藩士により、本丸跡に建立されました。
稲葉(いなば)神社の祭神は、淀藩稲葉家の祖である稲葉正成(いなばまさなり)です。正成は1571年(元亀2年)に美濃国十七条の城主・林政秀の次男として誕生。後に稲葉重通の婿養子となり稲葉姓となります。ところが妻の死去により明智光秀の重臣である斎藤利三の娘“福”を重通の養女として迎え再々婚したのが後世で知られる春日局でした。稲葉正成は豊臣秀吉に仕え、その命により小早川秀秋の家老となり五万石を領し秀秋を補佐します。そして秀吉の死後、1600年(慶長5年)「関ヶ原の合戦」で功を挙げ徳川家康から感状を受け、後に松平忠昌(越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主)に仕えた後、下野国の真岡城主となり2万石を領しますが、1628年(寛永5年)江戸城内にて死去。その稲葉家が淀藩主となるのは初代・正成から数えて5代・稲葉正知( いなばまさとも)の時、1723年(享保8年)下総国佐倉より10万2千石で入封しました。その後、1871年(明治5年)になり16代稲葉正邦(いなばまさくに)の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代148年にわたり淀藩主でした。
ここが淀城の本丸あたり・・・見渡すと城らしき所が南側しか残ってないようで、これから散策します。
ツツジが咲いている本丸跡まで、当然行きたいので石段を探します。ちなみに、ここには「淀城」の由緒が書かれた案内板(京都市)があったので書き留めました。
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠は、1619年(元和5年)伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所である淀の地に、松平越中守定綱に築城を命じて、1623年(元和9年)に着工、1625年(寛永2年)に竣工しました。翌1626年(寛永3年)の徳川秀忠・家光が上洛の途次には淀城を宿所としました。その後1633年(寛永10年)松平定綱の備中国へ移封により、永井尚政(ながいなおまさ)が城主となり、その後、諸大名が次々と入城しますが、1723年(享保8年)に春日局の子孫である稲葉正知( いなばまさとも)が下総佐倉から淀へ移り、明治維新まで稲葉家の居城となりました。江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると』の歌で名高い水車は直径8㍍もあり城の西南北の二箇所に取り付けられてました。淀城の城下街並みの様子は1748年(延享5年)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した『朝鮮聘礼使(へいれいし)淀城着来図』に詳しく描かれています。1756年(宝暦6年)の落雷により天守や建物の大半が焼失しましたが、天守や本丸御殿は再建されませんでした。また、幕末の「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍が淀城に籠もろうとしますが、城主稲葉正邦が老中にもかかわらず兵は城内にいて局外中立を守り、敗走する幕府軍の入城を拒絶し幕府軍の敗北、官軍の勝利に一役買うことになってしまいます。この時の兵火で淀城の城下町と城内の一部が焼亡してしまいました。1987年(昭和62年)に天守台の解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見されました。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、1756年(宝暦6年)の落雷で炎上する勇姿を偲ばせるものです。1968年(昭和43年)、本丸の石垣や堀を利用し公園として整備されました。
石段を見つけて登ってみました。振り返ると城内・・・今は公園ですが、城跡らしきものは何もありません。それより本殿奥に稲荷大明神、住吉大明神、熊野大明神を祀る鳥居が見えてます・・・見損ねました・・・。
上には行けましたが、肝心の天守台には行けません。何故か立入禁止に。厳重に鍵がかかって入ることはでませんでした。でも上から内濠も確認できたし、これで良かったです。
中には入れませんでしたが、Wikipediaに画像があったので借りました。危険のためか現在も調査中のためでしょうか・・・少々残念な気持ちで下に降りました。
城内の西側には上から見て石碑があるのが分かりました。9時拝観開始の寺院には余裕で行けるので、行ってみます。
「淀城址」子爵 稲葉正凱(いなばまさよし)筆・・・と書いてあるように思えました。最後の藩主・稲葉正邦(いなばまさくに)の孫にあたります。
その右隣「淀町出身戦没者 慰霊碑」・・・淀町、今は伏見区ですが1957年(昭和32年)に京都市に編入されたんですね、知らなかったです。
次が「田邊治之助君記念碑」です。“鳥羽伏見戦”で淀藩は前途したとおり城門を閉ざして幕府軍の入城を拒みます。ただ警衛を破り侵入した者があったので,物頭役田邊治之助は淀藩が朝敵の名を被らないように責任をとって自決します。その志操を顕彰にするため、戊辰戦争勃発70年に建立されました。
こちらは「京都淀 喜界 ライオンズクラブ姉妹記念碑」と書かれており、石標には「絆」と書いてあります。鹿児島県喜界島と淀・・・深く考えません。
城内は鳥居から出ていくと、GWの期間中に見頃となるツツジが綺麗に咲いています。参考くでに向に見えているが與杼神社です。
次の目的地からは反対になりますが、どうしても石垣を撮りたくて大きく回り込んでみたんですけど・・・これが精一杯です。
もう少し時間があれば外回りを一周したんですけど、次の目的もあるので・・・その次の目的地は納所(のうそ)にあります。納所・・・それは豊臣秀吉が側室・茶々(淀殿)の出産のため修築を命じた“淀古城”があった所に建っている寺院です。
【淀城跡 稲葉神社】