平成30年度「春期京都非公開文化財特別公開」 妙教寺へ

淀城跡から北に進むと納所(のうそ)の交差点に出ます。この日は京都競馬開催日、道路沿いにJRAから派遣されたのでしょうガードマンさんが交通整理をされているので、安心して旧京阪国道は渡れます。そして道幅の狭い千本通りを北に進むと、ここにもガードマンさんが立っています。

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ほどなくしたら右手の路地に入りますが、道路沿いに看板が出ていたので目印になりました。しかし、何度も地図を見て頭に入れてたので迷うことは無かったですけど・・・。

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ここには8時45分に着いてしまいました。それでも先客は4名、そして直ぐに2名・・・計6名で時間まで待つことに・・・それまでは門の外から撮影です

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東から強烈な日差しを浴びて山門は逆光で眩しいです。そしたら思いがけないことで、8時50分になったら受付が開始されました。

門をくぐると正面に見えている本堂を案内されますが、まだ10分前です。結局10名程度が並んでいて皆さん受付を済まされます。私は今年から公益財団法人京都古文化保存協会「京都和敬会」の会員になったので、招待券を差し出します。そして山門をくぐって暫く撮影です

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先ずは、ここが「淀古城」であることを示す石碑を見つけて撮りました。何度か書きましたが、秀吉の側室“茶々”(淀君・淀殿)ゆかりの淀城は、この辺りにありました。

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最初は10名程度が並びましたが、その後もボチボチ人が入って来られます。混んで来たら写真が撮れなくなるので、片っ端から撮って行きます

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境内の片隅にあった「戊辰之役東軍戦死者之碑」です。1868年(慶応4年)に勃発した鳥羽伏見戦の東軍(幕府側)戦死者の招魂碑だそうです。

この付近での東軍の戦死者は76名。1907年(明治40年)子爵榎本武揚揮毫による慰霊碑が建立されました。

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この石碑は「戦没学徒・木村久夫の碑」でした。この碑の横には、住職の筆による“木村久夫を偲ぶ碑”もあって、詳しくは『きけわだつみのこえ』に収録されてるとか・・・帰って調べると分かりました。木村久夫50回忌に建立されました。

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こちらは「妙見堂」でしょう、扁額に書いてありました。ただ扉が閉まっているので内部は窺い知ることは出来ませんし、特別拝観でも公開は無かったです。

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8時55分頃になったので、そろそろ本堂内に入ろうとしたら、中から案内が始まりました。5分も早く案内が始まるとは思ってもみなかったので、慌てて堂内に入って座りました。

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堂内は撮影禁止。バンフから抜粋です。堂内には3列ほどパスプ椅子が並べられて、10数名の方で話を聞きました。見た所・・・堂内は狭いです。

妙教寺は、正式名称を「大圓山 妙教寺」といい法華宗真門流の寺院です。1626年(寛永3年)大坂の富豪商人である法華又左衛門尉貞清の発願により宝泉院日孝(ほうせんいんにっこう)を開山上人に仰ぎ創建されました。18世紀初頭に付近の大火により山門と鐘楼を除いて伽藍を焼失。現在の本堂は1840年(天保11年)に日冠上人に再建されました。堂内中央に本尊の“南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)”を表す題目の宝塔。左に釈迦如来、右に多宝如来で俗に「三宝様(さんぽうよう)」と呼ばれています。その下には日蓮上人を中心に12体の御像を安置。また欄間には4人の天人像が彫られており、欄間には双龍が絵かがれています。

春期京都非公開文化財特別公開では学生さんがガイドをされます。しかし、あまり上手な案内では無かったですね・・・聞いた話を“拝観の手引き”で見直ししました。次に堂内の右側に移動します。そこにの壁には小さな穴が空いて・・・

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1868年(慶応4年)1月4日、戊辰戦争鳥羽伏見の戦いで、東軍(幕府軍)が発射した砲弾が本堂の南側(右側)から飛び込んできて、壁と位牌壇を突き破り、内陣北側(左側)の柱も貫通し柱を破壊。左手の地袋にまで達しましたが約4㌔の砲弾は不発弾だったそうです。

当時のご住職が砲弾貫通跡を修復されずに保存されることにされたようです。その飛び込んできた砲弾は、次に案内された客殿で展示されてました。砲弾は口径80㍉、長さ160㍉、四斤山砲(よんきんさんぽう)弾で持つことは出来ませんでしたが、ずっしり重たそうな・・・これが爆発していたら本堂も吹き飛んだでしょうね。

あと戊辰戦争鳥羽伏見の戦いで、幕府の老中であった淀藩主の稲葉正邦が敗走してきた幕府軍の入城を拒み、怒った幕府軍は城外から火を放ち、城は炎上してしまいます。その模様を描いた絵図も興味深く見せてもらいました。

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展示物の説明も聞いてたあと、再度じっくり見せて貰ったあと客殿の玄関から9時7分に出てきました。もちろん私だけじゃなく最初の案内を聞かれた方も出て来られます。

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本堂を出たら堂外の右側に移動して、砲弾の貫通跡を外から見せてもらいます。雨風が入ってくるので、小さな穴はガラス戸に覆われていますが、はっきり分かりました。この妙教寺の上を両軍の砲弾が飛び交った・・・恐かったでしょう。

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最後にもう一つ石碑を見つけました。「小満・小女郎の碑」とあり、かつて妙教寺に住んでいた小満・小女郎という夫婦狐が後世“出世稲荷”として崇められたことに因んだものだそうです。

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妙教寺には9時10分頃に出ました。この後の予定を考えると、早く出られて良かった・・・と言うべきか少し物足りなさは否めないですよね、あれだけなら・・・です

ここに来て淀城跡に行き、妙教寺で案内を聞いて幕末の淀藩のことを知りました。淀城=淀君と思っていたら、淀古城と淀城とは別物だと・・・これは予習してきて知りましたが、いろいろ勉強になりました。次は淀に来たからには、そこは外せないです

【妙教寺(本堂) 淀古城跡】



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