世界文化遺産の上賀茂神社を散策【後編】へ
前編の続き。岩本神社から南下すると上賀茂神社の摂社がありますが、そこから渉渓園が見えてました。以前、ここは特別公開の時にのみ入れた庭園でしたが、私の目には開いてるように見えました。そこで渉渓園の入口まで回り込むと・・・。
やっぱり渉渓園の入口は開いてました。“開門9時~16時”とありますが、ここに着いたのは7時46分。でも開いているので入ってみます。
以前は、4月の“賀茂曲水宴”や6月の花菖蒲の時期に特別公開されてた平安様式日本庭園ですが、こうして入れました。
2015年(平成27年)5月2日(土)の時にも入った渉渓園ですが、まさか今日は入れるとは思ってもみなかったです。その庭園を奥に進むと「願い石」(陰陽石)があります。
古くは、ここに池があってそこには龍が住んでいたそうで、池の底から出土した“陰陽石”だそうです。両手で同時に手で触れ、その力をいただいてから“賀茂山口神社”にお参りします。
それで、奥の摂社「賀茂山口神社」がお参りしますが、社殿の前に拝殿がありました。2015年(平成27年)5月2日(土)に来た時は人形が展示されてましたね。
御祭神は御歳神(みとしのかみ)で、こり役が商売繁盛、子供の成長を見守る神様とありました。なお、拝殿と社殿の間は柵があって行けません。社殿は別撮りです
。
この渉渓園に入れるとは思ってなかったので、非常にラッキーでした。何時の頃から分かりませんが、常時拝観できるようになったんですね。園内を流れる“ならの小川”を見ながら、ここを出ました。
渉渓園を出て“ならの小川”を渡ると、凄い人集りが・・・明日のイベントに備えての事でしょう。このイベントは後程
。そのイベント会場を背に東を向くと奈良鳥居が建っています。そこには摂社の奈良神社があるからです。
御祭神は奈良刀自神(ならとしのかみ)、御祭神は料理の祖神であり、飲食関係者の信仰を集めてるように、料理技術向上の神様です。
その東側には大きな建物があって、駒札から「北神神饌所(庁屋・ちょうのや)」と呼ばれるもので、国の重要文化財に指定されています。
かつての神饌調進所、中古政庁として活用されたもので、5月“賀茂競馬”では能舞台として使用。(1628年(寛永5年)の造替)
奈良神社を出て、騒々しい明日のイベント会場を抜けて、参道に出ます。二の鳥居前にある新馬舎。そこには白馬が・・・居ませんでした。
このあと、一の鳥居を目指します。あと1週間から2週間したら桜色に染まるのでしょう。今は“つぼみ”です。しかし、今年の桜の開花は記録的に早いです
。
ほどなくして一の鳥居に着きました。この鳥居には社名の扁額が架かっていません。ここを入ると白砂の参道が広がります。
その左には「世界文化遺産」と書かれた大きな石碑が。右には「国宝・本殿特別参拝」と書かれた看板が。神職さんが国宝本殿を案内されるようですね。
今度は少しだけ東に進みます。すると“ならの小川”が流れているので、今度は北に進むと末社の「梶田神社」を目にします。
梶田神社は番号は⑰でした。御祭神は瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)で、 下の病の神様とありました。
次に“ならの小川”の上流に進みます。このまま行けば先程の“奈良神社”に出るんですけど
。次に目にするのは末社の「山森神社」です。
番号は⑯でした。御祭神は素戔嗚尊(すさのおのかみ)、稲田姫神(いなだひめのかみ)、田心姫命(たごりひめのかみ)の三柱一座。病気を治す神様とありました。
このあと上賀茂神社の“社家の街並み”を見ながら境外摂社に行き、再び車を止めている上賀茂神社に戻ってきました。
行きは気が付かなかったことですが、上賀茂神社の御祭神である賀茂別雷大神が降臨した“神山”が見えてました。
以前に“朱印”はいただいてましたが、久し振りに来たこともあって、社務所にて朱印をいただきました。
社務所から西の鳥居から境内に入りました。途中に“自動車お祓い所”があります。そこで前途したとおり本殿前に行きお参りした訳です。
ところで、この日は境内の至る所に、こんなポスターが貼られていました。「十代目松本幸四郎襲名記念 奉納舞台」のポスターです。
この時は、特にポスターも読まなくて通りすぎました。ただ境内で何か・・・あるのは分かったましたが・・・それが分かったのは本殿の参拝後になります。
それで二の鳥居前まで戻って、まだ紹介していない唯一の建物「御所舎(ごしょのや)」ですが、下記の写真のように何か・・・工事されてます。
翌日の18日(日)に、約1000名もの参拝客の前で、「三番叟」を披露されたニュースが翌日の新聞に載ってました。(私は新聞の購入を昨年の12月にやめたのでネットのニュースです)
二の鳥居近くで見つけた歌碑で「風そよぐ ならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」小倉百人一首の古歌で有名な“ならの小川”で、平安の昔、神職がみそぎを修していた情景を詠んだものです。
その小倉百人一首を詠んだ藤原家隆卿は、この流れを見ていたのでしょうか
今も“ならの小川”は流れています。そして駐車場に戻って、上手に撮れない“神山”を撮り車に戻りました。
これで帰りましたが、上賀茂神社の周辺を散策したので、まだまだ続きます
。
【賀茂山口神社】

やっぱり渉渓園の入口は開いてました。“開門9時~16時”とありますが、ここに着いたのは7時46分。でも開いているので入ってみます。
以前は、4月の“賀茂曲水宴”や6月の花菖蒲の時期に特別公開されてた平安様式日本庭園ですが、こうして入れました。
2015年(平成27年)5月2日(土)の時にも入った渉渓園ですが、まさか今日は入れるとは思ってもみなかったです。その庭園を奥に進むと「願い石」(陰陽石)があります。
古くは、ここに池があってそこには龍が住んでいたそうで、池の底から出土した“陰陽石”だそうです。両手で同時に手で触れ、その力をいただいてから“賀茂山口神社”にお参りします。
それで、奥の摂社「賀茂山口神社」がお参りしますが、社殿の前に拝殿がありました。2015年(平成27年)5月2日(土)に来た時は人形が展示されてましたね。
御祭神は御歳神(みとしのかみ)で、こり役が商売繁盛、子供の成長を見守る神様とありました。なお、拝殿と社殿の間は柵があって行けません。社殿は別撮りです

この渉渓園に入れるとは思ってなかったので、非常にラッキーでした。何時の頃から分かりませんが、常時拝観できるようになったんですね。園内を流れる“ならの小川”を見ながら、ここを出ました。
渉渓園を出て“ならの小川”を渡ると、凄い人集りが・・・明日のイベントに備えての事でしょう。このイベントは後程

御祭神は奈良刀自神(ならとしのかみ)、御祭神は料理の祖神であり、飲食関係者の信仰を集めてるように、料理技術向上の神様です。
その東側には大きな建物があって、駒札から「北神神饌所(庁屋・ちょうのや)」と呼ばれるもので、国の重要文化財に指定されています。
かつての神饌調進所、中古政庁として活用されたもので、5月“賀茂競馬”では能舞台として使用。(1628年(寛永5年)の造替)
奈良神社を出て、騒々しい明日のイベント会場を抜けて、参道に出ます。二の鳥居前にある新馬舎。そこには白馬が・・・居ませんでした。
このあと、一の鳥居を目指します。あと1週間から2週間したら桜色に染まるのでしょう。今は“つぼみ”です。しかし、今年の桜の開花は記録的に早いです

ほどなくして一の鳥居に着きました。この鳥居には社名の扁額が架かっていません。ここを入ると白砂の参道が広がります。
その左には「世界文化遺産」と書かれた大きな石碑が。右には「国宝・本殿特別参拝」と書かれた看板が。神職さんが国宝本殿を案内されるようですね。
今度は少しだけ東に進みます。すると“ならの小川”が流れているので、今度は北に進むと末社の「梶田神社」を目にします。
梶田神社は番号は⑰でした。御祭神は瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)で、 下の病の神様とありました。
次に“ならの小川”の上流に進みます。このまま行けば先程の“奈良神社”に出るんですけど

番号は⑯でした。御祭神は素戔嗚尊(すさのおのかみ)、稲田姫神(いなだひめのかみ)、田心姫命(たごりひめのかみ)の三柱一座。病気を治す神様とありました。
このあと上賀茂神社の“社家の街並み”を見ながら境外摂社に行き、再び車を止めている上賀茂神社に戻ってきました。
行きは気が付かなかったことですが、上賀茂神社の御祭神である賀茂別雷大神が降臨した“神山”が見えてました。
以前に“朱印”はいただいてましたが、久し振りに来たこともあって、社務所にて朱印をいただきました。
社務所から西の鳥居から境内に入りました。途中に“自動車お祓い所”があります。そこで前途したとおり本殿前に行きお参りした訳です。
ところで、この日は境内の至る所に、こんなポスターが貼られていました。「十代目松本幸四郎襲名記念 奉納舞台」のポスターです。
この時は、特にポスターも読まなくて通りすぎました。ただ境内で何か・・・あるのは分かったましたが・・・それが分かったのは本殿の参拝後になります。
それで二の鳥居前まで戻って、まだ紹介していない唯一の建物「御所舎(ごしょのや)」ですが、下記の写真のように何か・・・工事されてます。
翌日の18日(日)に、約1000名もの参拝客の前で、「三番叟」を披露されたニュースが翌日の新聞に載ってました。(私は新聞の購入を昨年の12月にやめたのでネットのニュースです)
二の鳥居近くで見つけた歌碑で「風そよぐ ならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」小倉百人一首の古歌で有名な“ならの小川”で、平安の昔、神職がみそぎを修していた情景を詠んだものです。
その小倉百人一首を詠んだ藤原家隆卿は、この流れを見ていたのでしょうか

これで帰りましたが、上賀茂神社の周辺を散策したので、まだまだ続きます

【賀茂山口神社】