「相撲神事で有名」な京都府南丹市園部町 摩氣神社へ
6月8日(土)は、昼前から雨降りの予報が出てました。6月6日に梅雨入りした関西は、ほぼ平年どおり。西から梅雨前線が北上してくるとあって、当初は出かけるのをためらっていましたが、午前中でも雨が降らないなら・・・と、家を8時過ぎに出発。嵐山から物集街道を通って、千代原口から国道9号線に入って、ひたすら京都北部を目指します。国道9号線に入ると、暫くすると京都縦貫道の分岐点に出ますが、そのまま国道を行くことにしました。ただ、いつものように亀岡市内は信号が多いので、どうしても渋滞しますし、少し雨が降ってきました。予想より早い雨降りです。
国道9号線から園部河原町の交差点から府道に入り、暫く田園風景が広がる田舎道を進みます。そしてナビの案内の元に摩氣神社に、9時37分やっと着きました。
府道から摩氣神社の鳥居まで一本道ですが、その道が超狭い、軽自動車が一台通れるのがやっと。園部川の支流を渡る橋も狭くて2㌧までで、軽自動車なら大丈夫でしょう。
摩気神社の創始は古く、延喜式に列する名神大社。770年(神護景雲4年)に第48代・称徳天皇によって創建されました。胎金寺山(たいこんじやま)の麓、園部川の小支流の扇状地上に鎮座し、白河天皇が行幸されたと逸話が残る古社です。
周りは田園風景が広がるいかにも田舎の神社ですが、車は駐車場に止めました。この写真の右側から入った奥にあります。雨は、ここに着いた頃にやんでくれました。
奥に神門が見えてますが、階段を上がる手前に石碑があったので撮りました。「平成13年・・・」「元治・・・」は読めますが・・・。
そして神門に向かいますが、その両側に古木の大木が聳え立ってて、京都市内では見かけないように風景に思わず雨のことも忘れてしまいます。
先ほどの鳥居と、この神門は「京都府登録文化財」に指定されています。それより奥の境内の風景かたまらないほど良いです・・・茅葺きが。
この神門は園部藩7代藩主・小出英筠(こいでふさたけ)により1808年(文化5年)建立されたもので、創建時は茅葺きであったようです。摩氣神社は、園部藩に移封された小出吉親(こいでよしちか)が守護神として社殿などを修復し累代の祈願所となりました。
それがこの風景です。神門前から撮りましたが、ここの社殿は、今では見かけることが少ない茅葺きです。
右は社務所です。ここに朱印があるとの情報は無かったのと、そとから見ても無さそうな感じ。ちなみに奥の住宅は宮司さん宅のようです。
そして反対側・・・神門の左手には手水舎がありました。ここの山水でしょうか・・・分かりませんが。
その横には絵馬舎があって、こちらも「京都府登録文化財」に指定されています。昭和初期まで拝殿として使用されてたましたが拝殿の新築に伴い、絵馬舎として再利用されました。
境内の中央には拝殿があって、こちらも茅葺きで、しかも苔むしています。先の丹後の旅でもそうでしたが、この風景は京都市内では無いので凄く新鮮です。
その奥が本殿が中央、向かって左手が東摂社、向かって右手が西摂社、ともに茅葺きが特徴です。園部藩第5代藩主・小出英持(こいでふさよし)による1767年(明和4年)の再建の建物です。
御祭神は、大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)は、農業に関わる神様だと言われ社名の“まけ”は“御食(みけ)=神に捧げる食物”からきていると言われる説もあります。毎年10月に行われる神幸祭の“相撲神事”は、五穀豊穣を願って相撲をとったり、神様と組んで大げさに負けるさまを見せる“一人角力(すもう)”を行ったりとの神事で地域の皆さんの人気を集めています。
東摂社で右から、葛木大神(北八田村)八幡大神(舟坂村)恵比須大神(下新江村)と八幡大神(西山村)八幡大神(大坪村)山王大神(下胡摩村)の6神を祀られ・・・。
次に西摂社で、右から大森大神(半田村)菅原大神(半田村)と菅原大神(宍人村)熊野大神(黒田村)加茂大神(大村)と三輪大神(上横田村)若宮大神(下横田村)月読大神(志和賀村)の8神が祀られています。
社殿の右側から奥も覗いてみましたが石碑が点在しているようでした・・・が、雨降りのあとで、下が泥濘んでいたこともあって写真だけ撮って引き返すことにしました。
次に境内に向かって左側の末社を見ていきます。まずは社殿に近い方から見ています。
「伊勢皇大神宮遙拝所」と書かれています・・・と言うことは、こちらが東向きで、社殿が北向き・・・と言うことでしょう。
左から「塞神社(さいじんじゃ)」「琴平神社」「山王神社」「稲荷神社」と書かれていました。
そんな広くもない境内のため、ざっと見てここを出ることにしました。雨はやんでくれて降ってきませんラッキーでした。
神門から境外を見ています。その先が石鳥居があり、時間も9時48分になってました。朱印帳を持ってきたのに残念ですが・・・。
調べると、この石鳥居は園部藩2代目藩主・小出英知(こいでふさとも)によって建立されたもので左右の柱には碑文が刻まれてるそうです。
ここには9時55分に出て行きました。この後、特に予定は決めてなかったけど、この神社とつながりのある寺院に向かいました。
【摩氣神社】
国道9号線から園部河原町の交差点から府道に入り、暫く田園風景が広がる田舎道を進みます。そしてナビの案内の元に摩氣神社に、9時37分やっと着きました。
府道から摩氣神社の鳥居まで一本道ですが、その道が超狭い、軽自動車が一台通れるのがやっと。園部川の支流を渡る橋も狭くて2㌧までで、軽自動車なら大丈夫でしょう。
摩気神社の創始は古く、延喜式に列する名神大社。770年(神護景雲4年)に第48代・称徳天皇によって創建されました。胎金寺山(たいこんじやま)の麓、園部川の小支流の扇状地上に鎮座し、白河天皇が行幸されたと逸話が残る古社です。
周りは田園風景が広がるいかにも田舎の神社ですが、車は駐車場に止めました。この写真の右側から入った奥にあります。雨は、ここに着いた頃にやんでくれました。
奥に神門が見えてますが、階段を上がる手前に石碑があったので撮りました。「平成13年・・・」「元治・・・」は読めますが・・・。
そして神門に向かいますが、その両側に古木の大木が聳え立ってて、京都市内では見かけないように風景に思わず雨のことも忘れてしまいます。
先ほどの鳥居と、この神門は「京都府登録文化財」に指定されています。それより奥の境内の風景かたまらないほど良いです・・・茅葺きが。
この神門は園部藩7代藩主・小出英筠(こいでふさたけ)により1808年(文化5年)建立されたもので、創建時は茅葺きであったようです。摩氣神社は、園部藩に移封された小出吉親(こいでよしちか)が守護神として社殿などを修復し累代の祈願所となりました。
それがこの風景です。神門前から撮りましたが、ここの社殿は、今では見かけることが少ない茅葺きです。
右は社務所です。ここに朱印があるとの情報は無かったのと、そとから見ても無さそうな感じ。ちなみに奥の住宅は宮司さん宅のようです。
そして反対側・・・神門の左手には手水舎がありました。ここの山水でしょうか・・・分かりませんが。
その横には絵馬舎があって、こちらも「京都府登録文化財」に指定されています。昭和初期まで拝殿として使用されてたましたが拝殿の新築に伴い、絵馬舎として再利用されました。
境内の中央には拝殿があって、こちらも茅葺きで、しかも苔むしています。先の丹後の旅でもそうでしたが、この風景は京都市内では無いので凄く新鮮です。
その奥が本殿が中央、向かって左手が東摂社、向かって右手が西摂社、ともに茅葺きが特徴です。園部藩第5代藩主・小出英持(こいでふさよし)による1767年(明和4年)の再建の建物です。
御祭神は、大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)は、農業に関わる神様だと言われ社名の“まけ”は“御食(みけ)=神に捧げる食物”からきていると言われる説もあります。毎年10月に行われる神幸祭の“相撲神事”は、五穀豊穣を願って相撲をとったり、神様と組んで大げさに負けるさまを見せる“一人角力(すもう)”を行ったりとの神事で地域の皆さんの人気を集めています。
東摂社で右から、葛木大神(北八田村)八幡大神(舟坂村)恵比須大神(下新江村)と八幡大神(西山村)八幡大神(大坪村)山王大神(下胡摩村)の6神を祀られ・・・。
次に西摂社で、右から大森大神(半田村)菅原大神(半田村)と菅原大神(宍人村)熊野大神(黒田村)加茂大神(大村)と三輪大神(上横田村)若宮大神(下横田村)月読大神(志和賀村)の8神が祀られています。
社殿の右側から奥も覗いてみましたが石碑が点在しているようでした・・・が、雨降りのあとで、下が泥濘んでいたこともあって写真だけ撮って引き返すことにしました。
次に境内に向かって左側の末社を見ていきます。まずは社殿に近い方から見ています。
「伊勢皇大神宮遙拝所」と書かれています・・・と言うことは、こちらが東向きで、社殿が北向き・・・と言うことでしょう。
左から「塞神社(さいじんじゃ)」「琴平神社」「山王神社」「稲荷神社」と書かれていました。
そんな広くもない境内のため、ざっと見てここを出ることにしました。雨はやんでくれて降ってきませんラッキーでした。
神門から境外を見ています。その先が石鳥居があり、時間も9時48分になってました。朱印帳を持ってきたのに残念ですが・・・。
調べると、この石鳥居は園部藩2代目藩主・小出英知(こいでふさとも)によって建立されたもので左右の柱には碑文が刻まれてるそうです。
ここには9時55分に出て行きました。この後、特に予定は決めてなかったけど、この神社とつながりのある寺院に向かいました。
【摩氣神社】