北野天満宮の前身ともいわれている文子天満宮へ
8月10日(金)は、通院日・・・本当は3日でしたが、先生の都合で10日に変更になったんですけど・・・結果、3日は岩倉周辺を散策してました。
いつもなら先生は、9時頃にしか来られませんが、この日は珍しく早かったです。最後の精算が9時過ぎでしたし、薬も早くいただけたので、早速車で目的地に向かうことができました。
向かったのは、東本願寺の飛び地である渉成園 (枳殻邸)近くにある文子天満宮です。車は近くのコインパーキングに止めるつもりでしたが、何カ所かあるコインパーキングが全て満車でした。ビジネス街にあるためでしょう、お盆休み前の交通量も多かったですし、まさか・・・全て満車とは・・・これは予想してなかったです。この時、9時40分頃でした。
間之町通り沿いにあって、石鳥居は東向きに立っています。この間之町通り・・・途切れること無く車がひっきりなしに通ります。この鳥居前に仕方ないので止めさせてもらいました。
余談ですが、この間之町通りを下数珠屋町通りまで南に行き、その西南角に「すし岩」があります。あのAppleの創業者スティーブジョブズ氏が絶賛したことで知られてますが、私はまだ未訪です。
あまり予備知識無しで来ました。NHK大河ドラマ『西郷どん』 第26回放送で紹介された「渉成園」に行くつもりでしたので・・・鳥居前にある「天神信仰発祥の神社」と書かれた石標がありましたが、その訳は後から知ることになります。
この日は少し小雨が降る空模様で、気温も34.6℃までしか上がりませんでしたが、台風の影響でしょうか、もの凄く蒸し蒸し・・・湿気が多くて・・・。
神門を入って左手(南側)には手水舎がありました。この時、境内は誰も居ませんでしたが、あとから2人ほど参拝に来られました。
神門を入ったら正面に本殿があり、東向きに建っています。御祭神は菅原道真公、相殿に文子比売(菅公乳母)、伴氏(菅公御母君)、是善公(菅公御父母)が祀られています。
社伝によれば、大宰府(現福岡県)に左遷された道真は、903年(延喜3年)59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれています。このことが天神信仰発祥の神社と言われる由縁で、北野天満宮の前身とも伝えられ、洛陽天満宮25社の一つにも数えられています。
その本殿の右手(北側)には「多治比文子(たじひのあやこ)の像」があります。案内文が書いてありましたが、直ぐに分かりました。
この像の背後に小さな社殿が大きな屋根に覆われて並んで建っています。先ずは左側の大きな社殿から。ここでは案内文が書いてあるので読んでみると・・・。
右から「老松社(植林業の神)」御祭神が島田忠臣翁(しまだたたおみおう)、「福部社(開福招福)」御祭神が十川能福(そがわのうふく)、「火之御子社(雷除、五穀豊穣)」御祭神は火雷神(いかづち)。次に右側の小さな社殿は、「白太夫社(子宝の神)」で御祭神が渡会晴彦翁(わたらいはるひこおう)です。すべて北野天満宮の摂社にあったような・・・多分。
さらに奥に進むと石柱が立っています。そこには「北野天満宮遥拝所」とかいあり、確かに、この先には北野天満宮がありますが約7㌔先になります。
さらにその奥には、菅原道真公が左遷され太宰府へ向かう途中に立ち寄られ、その際に腰掛けられたと言われる「腰掛石」が、この腰掛石、京都府大山崎町の離宮八幡宮にもありましたね。
さらに奥に進むと「成就社」と書かれていましたが・・・末社でしょうか、後ほどいただいた由緒書きには何も書いて無かったので詳しい事は分かりません。
ここには朱印帳を持参してきたので社務所に寄ってみました。朱印の有無はわかりませんでしたが、社務所には見本が置いてありました。そこで呼鈴を押してみると・・・。
少し時間をおいて、奥から神職さんが出てこられたので朱印をお願いしました。そしてさらに時間をおいて朱印帳を返してもらいました。
朱印に時間がかかったので、その間にも境内を散策します。先ずは社務所の奥の「文子殿」です。
ここは冷暖房完備の祈祷殿で、ご祈祷や神前結婚式はここで行われるようです。案内には「京の思い出に御神前でお祝いを」と書いてありました。
最後に、神門を入って右手にある末社「白瀧稲荷大明神」にも行きました。
こちには招霊(おがたま)の木(モクレン科)「相生の御神木」で、御利益は良縁成就、夫婦円満とありました。
少し時間がかかりましたが、朱印をいただいたので、ここを出ました。時計の針は9時50分頃になってましたが、殆どは朱印待ちの時間だったように思います。
【文子天満宮】
いつもなら先生は、9時頃にしか来られませんが、この日は珍しく早かったです。最後の精算が9時過ぎでしたし、薬も早くいただけたので、早速車で目的地に向かうことができました。
向かったのは、東本願寺の飛び地である渉成園 (枳殻邸)近くにある文子天満宮です。車は近くのコインパーキングに止めるつもりでしたが、何カ所かあるコインパーキングが全て満車でした。ビジネス街にあるためでしょう、お盆休み前の交通量も多かったですし、まさか・・・全て満車とは・・・これは予想してなかったです。この時、9時40分頃でした。
間之町通り沿いにあって、石鳥居は東向きに立っています。この間之町通り・・・途切れること無く車がひっきりなしに通ります。この鳥居前に仕方ないので止めさせてもらいました。
余談ですが、この間之町通りを下数珠屋町通りまで南に行き、その西南角に「すし岩」があります。あのAppleの創業者スティーブジョブズ氏が絶賛したことで知られてますが、私はまだ未訪です。
あまり予備知識無しで来ました。NHK大河ドラマ『西郷どん』 第26回放送で紹介された「渉成園」に行くつもりでしたので・・・鳥居前にある「天神信仰発祥の神社」と書かれた石標がありましたが、その訳は後から知ることになります。
この日は少し小雨が降る空模様で、気温も34.6℃までしか上がりませんでしたが、台風の影響でしょうか、もの凄く蒸し蒸し・・・湿気が多くて・・・。
神門を入って左手(南側)には手水舎がありました。この時、境内は誰も居ませんでしたが、あとから2人ほど参拝に来られました。
神門を入ったら正面に本殿があり、東向きに建っています。御祭神は菅原道真公、相殿に文子比売(菅公乳母)、伴氏(菅公御母君)、是善公(菅公御父母)が祀られています。
社伝によれば、大宰府(現福岡県)に左遷された道真は、903年(延喜3年)59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれています。このことが天神信仰発祥の神社と言われる由縁で、北野天満宮の前身とも伝えられ、洛陽天満宮25社の一つにも数えられています。
その本殿の右手(北側)には「多治比文子(たじひのあやこ)の像」があります。案内文が書いてありましたが、直ぐに分かりました。
この像の背後に小さな社殿が大きな屋根に覆われて並んで建っています。先ずは左側の大きな社殿から。ここでは案内文が書いてあるので読んでみると・・・。
右から「老松社(植林業の神)」御祭神が島田忠臣翁(しまだたたおみおう)、「福部社(開福招福)」御祭神が十川能福(そがわのうふく)、「火之御子社(雷除、五穀豊穣)」御祭神は火雷神(いかづち)。次に右側の小さな社殿は、「白太夫社(子宝の神)」で御祭神が渡会晴彦翁(わたらいはるひこおう)です。すべて北野天満宮の摂社にあったような・・・多分。
さらに奥に進むと石柱が立っています。そこには「北野天満宮遥拝所」とかいあり、確かに、この先には北野天満宮がありますが約7㌔先になります。
さらにその奥には、菅原道真公が左遷され太宰府へ向かう途中に立ち寄られ、その際に腰掛けられたと言われる「腰掛石」が、この腰掛石、京都府大山崎町の離宮八幡宮にもありましたね。
さらに奥に進むと「成就社」と書かれていましたが・・・末社でしょうか、後ほどいただいた由緒書きには何も書いて無かったので詳しい事は分かりません。
ここには朱印帳を持参してきたので社務所に寄ってみました。朱印の有無はわかりませんでしたが、社務所には見本が置いてありました。そこで呼鈴を押してみると・・・。
少し時間をおいて、奥から神職さんが出てこられたので朱印をお願いしました。そしてさらに時間をおいて朱印帳を返してもらいました。
朱印に時間がかかったので、その間にも境内を散策します。先ずは社務所の奥の「文子殿」です。
ここは冷暖房完備の祈祷殿で、ご祈祷や神前結婚式はここで行われるようです。案内には「京の思い出に御神前でお祝いを」と書いてありました。
最後に、神門を入って右手にある末社「白瀧稲荷大明神」にも行きました。
こちには招霊(おがたま)の木(モクレン科)「相生の御神木」で、御利益は良縁成就、夫婦円満とありました。
少し時間がかかりましたが、朱印をいただいたので、ここを出ました。時計の針は9時50分頃になってましたが、殆どは朱印待ちの時間だったように思います。
【文子天満宮】