岩倉四ヶ村の氏神を祀る長谷八幡宮へ

岩倉具視公旧蹟 九兵衛宅址から車を走らせていると、直ぐに石鳥居が目の前に現れます。それが、次の訪問地である長谷八幡宮(ながたにはちまんぐう)の一の鳥居です。

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ここの手前で車止め写真だけ撮りました。ここも事前に調べて、ここに鳥居があることは知ってました

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一の鳥居が10時22分、そしてここには10時25分に着きました。思っていたより田舎の風景で熊が出てきそう・・・な感じがしました。

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階段下の左手には手水舎がありましたが、柄杓もないし、水も出るかどうか分からないので使えないですね。

先ほどは冗談で“熊”でも・・・と言いましたが、この岩倉では“熊出没注意”との“張り紙”を見かけました・・・でるのかなぁ・・・

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石段を上がって二の鳥居をくぐると境内に入ります。予想通り誰も居ませんし不気味に風が吹き抜けます。

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階段を上がって中央に拝殿があります。本殿は左手にあるようで早速向かいます。

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「八幡宮」と書かれた大きな変額がある社殿に見えますが、本殿は覆いのに中に。御祭神は惟仁親王、八幡大神。創建は857年(天安元年)です。

惟喬(これたか)親王の御請願で八幡大神ならびに惟仁(これひと)親王を洛北の地に鎮座された古社です。皇位から艮の方向に当たることから、国家鎮護の神と申し伝えられてきました。山城名跡巡行志には、「鳥居は西向き、一の鳥居は人家の傍らに在り、二の鳥居は社の前に在り、拝殿社は南向き、惟仁親王の勧請と伝える」とある。元和年中(1615年~1624年)社殿大破を憂いられた後水尾天皇の皇女東福門院が修復再興されたのが現在の社殿で、長谷村、花園村、中村、三宅村の岩倉四ヶ村一帯に亘る広大な地域の氏神として崇敬されてきました。

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本殿のある覆屋の裏にも回ってみました。もうそこは山の中で、風が吹いたのでしょうか、カサカサカサカサと音がします。さすがに熊か猪か鹿か・・・姿は見えないので恐怖を覚えました

しかし、ここまで来たからには全て回らずして帰れません。次は本殿(覆屋)の右手にあった末社を見て回ります。

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向かって右から「神明社」「稲荷神社」「山王神社」「春日神社」「疫神社」「蔵王神社」「鴨皇神社」「梅宮神社」と並んでいます。

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その末社・・・境内の東側にあった、この建物・・・何も書いて無いので分かりません。ここの向かいに社務所があるので・・・何でしょうね。

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こちらは本殿(覆屋)の左側にあった摂社の「蔭山神社」で御祭神が、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)です。

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その蔭山神社に向かいにあったのが社務所神輿庫でしょう。社務所にはどう見ても人が居ないよでした・・・残念ながら由緒書きも置いて無かったですね。

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この大木・・・御神木かなぁ・・・と思いましたが、多分違うみたいです。“区民の誇りの木 モミ”と書いてありました。

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境内を南側から全景を見ています。中央には拝殿が見えていますし、ここまで来たら安心している自分が居ました

最後に摂社「蛭子神社」です。最初に入った二の鳥居の右側に石段がありましたが、最後に回しました。

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かつては岩倉村(大字)長谷(小字)上ノ町に鎮座していたそうです。御祭神は 蛭子尊(ひるこのみこと)です。

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境内を出る時に二の鳥居を見上げて、ここを出ることにしました。境内を出てからもう一度、カサカサカサカサと音がした山を見ましたが・・・何も出て来なかったです。

やっぱり風かなぁ・・・と思い、ここを10時31分に出発しました。ここの土地勘が無いので、来た道を引き返し、再び白川通りを南下、北山通りを西に進み次の目的地を目指しました。

【長谷八幡宮】



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