海の舞鶴市を行く 大川神社へ
大庄屋上野家を出て、次に向かったのが由良川沿いに鎮座する“丹後の名神大社”である大川神社です。
ここには9時46分に着きました。田園風景が広がるのどか地に大きな石鳥居が見えてきますし、駐車場も広かったです。
この神社の存在は知らなかったです。軍艦マニアの友人が最近、神社の朱印巡りを始めたらしく、この神社をリクエストしたらしいです。
一の鳥居と二の鳥居の間には社務所があります。「先に朱印貰う」と尋ねると「お参りするのが先」と。基本を心得ている。
二の鳥居をくぐると、その先の石段を登ると中門があります。1790年(寛政2年)建立の舞鶴市指定文化財です。
中門入って右手には社務所がありますが、ここは常駐されてないようです。朱印は前途したとおり、こちら見て一の鳥居の手前にあります。
社務所を過ぎると、今度は左手にを見ると“石碑”と手水舎があり、ここで手と口を清めます。
こちらは御神木の“ケキヤ”です。樹齢は約400年、1984年(昭和59年)に舞鶴市の木「小結」に認定されました。
次に石段を上がると、もうずく本殿ですが、その前に割拝殿があります。1820年(文政3年)の建立で、ここも舞鶴市指定文化財です。
実は、ここに来るまで、本殿が賑やかでした・・・と言うのも、10名ぐらいでしょうか“お宮参り”に来られたんです。その団体さんが本殿の裏に回られた隙に撮った写真が・・・これです。ただ、この一枚だけでしたね本殿の写真は・・・。
本殿は、1872年(明治5年)の建立で、舞鶴市指定文化財で、御祭神は保食神(うけもちのかみ)、相殿に、句句廼馳神(くくのもちのかみ・木神)、軻遇突智神(かぐつちのかみ・火神)、埴山姫神(はにやまひめのかみ・土神)、金山彦神(かねやまひこのかみ・金神)、罔象水神(みずはのめのかみ・水神)です。
485年(顕宗天皇元年)3月、金色の鮭に乗った神が左手に五穀の種、右手に蚕種を携えて現れ、由良川の左岸にそびえる徹光山(200㍍)の東側山腹に地に鎮座したという託宣を由良の漁師・野々四郎が受け、翌9月に社殿を造営したことに始まります。江戸時代には、田辺藩主であった細川氏の保護を受けて境内が整備されましたように、由良川のほとりに建つ社殿は精密な彫刻が施されているように威厳があり、名神大社の社格にふさわしい立派なものです。
お宮参りの方が本殿を時計回りで行かれたので、私らも続きます。本殿周りには境内社が多数あるので見て行きます。先ずは「興和(こうわ)神社」から。
1951年(昭和26年)創建。地元出身者で日清戦争戦争以降の英霊が祀られています。
「病除(やみよけ)神社」で、御祭神が健速須男命(たけはやすさのおのみこと)で、健康の神様だそうです。
「醫祖神社(くすしのおやじんじゃ)」で、御祭神が少彦名神(すくなひこなのかみ)。御利益が、心身健康、子授け、商売繁盛、縁結びと書いてありました。
本殿は東向きに建てっています。その本殿の裏側(西側)は山深い中腹に建てっていることが分かります。そして北側に出ると「さざれ石」がありました。
北側に境内社があります。先ずは「竈神社」から。御祭神は、澳津彦神(おきつひこのかみ)と澳津姫神(おきつひめのかみ)。食物の神だそうです。
さらに右へ進むと、「神馬(しんめ)神社」があって、中には白馬が居ますが・・・本物じゃないです。御利益は、交通安全だそうです。
こちらは「神饌所」・・・神様へのお供えを調理する所ですね。御祭神が大川明神荒魂(荒神)で、御利益が食物調和だそうです。
“お宮参り”の先客は、本殿前で記念撮影中・・・その間に下ります。下る手前には「授与所」がありますが・・・不在です。
どんどん下に降りて行くと、行きには気がつかなかった石碑がありました。「櫻(はな)に遊ひ 生かされて また 人と会ふ 神の恵みと 永遠に歩まむ」(禰宜 高田祐子)とありました。
下ると途中にあった“大川神社会館”を通過し、二の鳥居を過ぎると社務所があって、ここで朱印と由緒書きをいただきました。
うっかり「社務所」を撮りそこねてました。最近、朱印を集め出した友人も、同じくゲット、喜んでましたが、ここを教えてくれたので私も感謝です。
ここには10時6分に出ました。ここは来るまで知らなかったので予備知識無しでした・・・が朱印もあって由緒ある古社で感激しました。
次から、いよいよ“海の舞鶴”です。日本海は、もう直ぐで、軍艦も見えてくるでしょう。次は私が行きたかった所でリクエストしました。
【大川神社】
ここには9時46分に着きました。田園風景が広がるのどか地に大きな石鳥居が見えてきますし、駐車場も広かったです。
この神社の存在は知らなかったです。軍艦マニアの友人が最近、神社の朱印巡りを始めたらしく、この神社をリクエストしたらしいです。
一の鳥居と二の鳥居の間には社務所があります。「先に朱印貰う」と尋ねると「お参りするのが先」と。基本を心得ている。
二の鳥居をくぐると、その先の石段を登ると中門があります。1790年(寛政2年)建立の舞鶴市指定文化財です。
中門入って右手には社務所がありますが、ここは常駐されてないようです。朱印は前途したとおり、こちら見て一の鳥居の手前にあります。
社務所を過ぎると、今度は左手にを見ると“石碑”と手水舎があり、ここで手と口を清めます。
こちらは御神木の“ケキヤ”です。樹齢は約400年、1984年(昭和59年)に舞鶴市の木「小結」に認定されました。
次に石段を上がると、もうずく本殿ですが、その前に割拝殿があります。1820年(文政3年)の建立で、ここも舞鶴市指定文化財です。
実は、ここに来るまで、本殿が賑やかでした・・・と言うのも、10名ぐらいでしょうか“お宮参り”に来られたんです。その団体さんが本殿の裏に回られた隙に撮った写真が・・・これです。ただ、この一枚だけでしたね本殿の写真は・・・。
本殿は、1872年(明治5年)の建立で、舞鶴市指定文化財で、御祭神は保食神(うけもちのかみ)、相殿に、句句廼馳神(くくのもちのかみ・木神)、軻遇突智神(かぐつちのかみ・火神)、埴山姫神(はにやまひめのかみ・土神)、金山彦神(かねやまひこのかみ・金神)、罔象水神(みずはのめのかみ・水神)です。
485年(顕宗天皇元年)3月、金色の鮭に乗った神が左手に五穀の種、右手に蚕種を携えて現れ、由良川の左岸にそびえる徹光山(200㍍)の東側山腹に地に鎮座したという託宣を由良の漁師・野々四郎が受け、翌9月に社殿を造営したことに始まります。江戸時代には、田辺藩主であった細川氏の保護を受けて境内が整備されましたように、由良川のほとりに建つ社殿は精密な彫刻が施されているように威厳があり、名神大社の社格にふさわしい立派なものです。
お宮参りの方が本殿を時計回りで行かれたので、私らも続きます。本殿周りには境内社が多数あるので見て行きます。先ずは「興和(こうわ)神社」から。
1951年(昭和26年)創建。地元出身者で日清戦争戦争以降の英霊が祀られています。
「病除(やみよけ)神社」で、御祭神が健速須男命(たけはやすさのおのみこと)で、健康の神様だそうです。
「醫祖神社(くすしのおやじんじゃ)」で、御祭神が少彦名神(すくなひこなのかみ)。御利益が、心身健康、子授け、商売繁盛、縁結びと書いてありました。
本殿は東向きに建てっています。その本殿の裏側(西側)は山深い中腹に建てっていることが分かります。そして北側に出ると「さざれ石」がありました。
北側に境内社があります。先ずは「竈神社」から。御祭神は、澳津彦神(おきつひこのかみ)と澳津姫神(おきつひめのかみ)。食物の神だそうです。
さらに右へ進むと、「神馬(しんめ)神社」があって、中には白馬が居ますが・・・本物じゃないです。御利益は、交通安全だそうです。
こちらは「神饌所」・・・神様へのお供えを調理する所ですね。御祭神が大川明神荒魂(荒神)で、御利益が食物調和だそうです。
“お宮参り”の先客は、本殿前で記念撮影中・・・その間に下ります。下る手前には「授与所」がありますが・・・不在です。
どんどん下に降りて行くと、行きには気がつかなかった石碑がありました。「櫻(はな)に遊ひ 生かされて また 人と会ふ 神の恵みと 永遠に歩まむ」(禰宜 高田祐子)とありました。
下ると途中にあった“大川神社会館”を通過し、二の鳥居を過ぎると社務所があって、ここで朱印と由緒書きをいただきました。
うっかり「社務所」を撮りそこねてました。最近、朱印を集め出した友人も、同じくゲット、喜んでましたが、ここを教えてくれたので私も感謝です。
ここには10時6分に出ました。ここは来るまで知らなかったので予備知識無しでした・・・が朱印もあって由緒ある古社で感激しました。
次から、いよいよ“海の舞鶴”です。日本海は、もう直ぐで、軍艦も見えてくるでしょう。次は私が行きたかった所でリクエストしました。
【大川神社】