足利高氏の倒幕挙兵地として知られる篠村八幡宮へ
王子神社から車を走らせて5分もかからず次の目的地・・・と言うより、こちらが本日の本命・・・でした。ここは室町幕府初代将軍・足利尊氏・・・当時は足利高氏が六波羅探題(鎌倉幕府)打倒のため挙兵した地として知られている篠村八幡宮に8時12分に着きました。
この神社の存在は、友人に教えてもらいました。知ってたら以前、亀岡を散策した時に寄ってました。
ここの大鳥居は南向きに立っています。その鳥居の右横に細い道がありますが、軽自動車がやっと通れるぐらいでしょう。私は鳥居前に車を止めました。
鳥居をくぐると暫く北向きに長い表参道が続きます。そのあと、西へ大きく曲がると・・・ようやく社殿が見えてきました。
社殿に行く前に・・・元の大鳥居に戻ります。前途したとおり、入口は大変道幅が狭いです。それを抜けると・・・。
道幅は急に広くなり、車は止められそう・・・でも駐車禁止です。神社の案内では、境内には東側から入り、直ぐの「八幡会館駐車場」に止めるように書いてありました。
“八幡会館”を過ぎると手水舎が見えてきます。ここのは水は豊富にありました。
その手水舎の側にあったのが「祓戸(はらえど)社」で、御祭神が瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)とありました。
今度は向かいに移動して「社務所」です。不在でしたので、朱印の有無は不明ですが、“由緒書き”は置いてあったのでいただきました。
御祭神 誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后
1071年(延久3年)後三条天皇の勅宣によって、奥州鎮守府将軍・河内守源頼義が、河内国応神天皇陵に鎮座の誉田八幡宮から御祭神を勧請し創建したのが始まり。1072年(延久4年)5月13日付の源頼義の社領寄進状も現存する。藤原氏によって開かれた篠村の荘園であったが何時の頃から源氏が相伝する所となり、頼義が河内国守となった縁で自身の荘園内の当八幡宮の原初の祠に誉田八幡宮の御分霊を勧請したものでしょう。源頼義から10代末裔の足利高氏は、1333年(元弘3年)4月29日、当社に戦勝祈願の願文を奉じて10日間滞在の後、首尾良く六波羅探題を滅ぼし建武中興のきっかけを掴みました。また、後醍醐天皇と決別後の1336年(建武3年)1月30日、一旦占拠した攻防戦で敗れ、2月1日まで当社で敗残の見方の兵を集めるとともに社領を寄進、再起を祈願して九州へ逃がれるとともに、敗走後一ヶ月で九州全土を平定、5月の“湊川の合戦”で決定的な勝利を得て室町幕府開幕のきっかけを掴むことになりました。尊氏にとって二度目の重大な岐路で当社に祈願を込めて大願が成就しており、尊氏自身1349年(貞和5年)8月10日に当社にお礼に参拝しています。尊氏を始め歴代将軍家から多くの荘園の寄進を受け、室町時代を通じて当社は大いに栄え、最盛期には社域は東西両村に及ぶほどでした。後に応仁の乱や明智光秀の丹波平定の戦火によって社殿や社領の多くを焼失してしまいます。寛永年間に亀山城主・菅沼定芳によって本殿改修がなされ、以来、源姓亀山城主の直轄神社として歴代藩主による庇護を受けました。
大鳥居の横にあった“駒札”を書きましたが、所々の記述があるんですが・・・調べても分からないので、そのまま書きました。早い話、足利尊氏とゆかりが深いのは分かりました。
1923年(大正12年)秋に建造それた拝殿です。昭和初期まで奉納謡曲や能舞などが行われていたようです。
本殿前には「足利高氏旗揚げの地」と書かれた大きな石標が立っています。尊氏と書かず高氏と書いてある所が“ミソ”でしょう。
由緒書きにあったように、六波羅探題を滅ぼしたあと、幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱(いみな)・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏(たかうじ)名を尊氏(たかうじ)に改めました。
本殿の左奥に目をやると赤い・・・少し色褪せていますが「稲荷神社」です。稲荷大神を祀り、伏見稲荷大社から分霊を勧請されたそうです。
さらに奥に進むと「矢塚」と書かれた大きな石碑があったので行ってみました。
高氏以下の諸将が戦勝祈願に際して、神前に玉串代わりの鏑矢(かぶらや)を奉納したと言われ史蹟に指定されています。
さらに奥にある大木は「亀岡名木」に指定されてる「篠村八幡宮のツブラジイ」で、幹周りが4.5㍍、樹高が27㍍もあります。
その大木の右横の小さな祠は「祖霊社」です。当社歴代の神職や、この地から出征され戦死された英霊が祀られています。
次に本殿の裏側を通って、小さな社殿の方に行きます。ここに来たときから気がついてましが、現在工事中なんですよね、近づくの憚りましたが近づいて写真だけ撮りました。
こちはら「乾疫神社(いぬいやくじんじゃ)」で、御祭神が建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)です。
こちらは「小宮社(こみやしゃ)」です。近隣に祀られた祠を明治以降に遷されたものだそうです。向かって右から「秋葉神社・愛宕神社」「住吉神社・春日神社・日吉神社」「皇大神宮・豊受大神」「天満宮」だそうです。
そこかにさらに奥に行くと「旗立楊(はたたてやなぎ)」と書かれた大きな看板があります。50㍍先と書かれているので行ってみます。
看板のとおり進むと“旧山陰街道”に出ます。そのまま進むと「尊氏公旗立楊」の石碑が立っているので、ここなんでしょう・・・源氏の白旗を揚げたのは・・・。
高氏が4月27日から5月7日までの間、味方に賭け寄せる武将に本営の所在を知らせるため足利家の家紋である“二引両”入り源氏の白旗を揚げたといわれる所です。
帰りは旧山陰街道から裏参道の表にある石鳥居をくぐり境内に入って拝殿前に出て表参道から出ました。
ここには8時30分頃に出ました。約20分ぐらい散策してたことになります。ここは確かに足利高氏の足跡がありました。歴史好きに必見の神社ですよね、次は現在の南丹市、昔の園部町に向かいます。
【篠村八幡宮】
この神社の存在は、友人に教えてもらいました。知ってたら以前、亀岡を散策した時に寄ってました。
ここの大鳥居は南向きに立っています。その鳥居の右横に細い道がありますが、軽自動車がやっと通れるぐらいでしょう。私は鳥居前に車を止めました。
鳥居をくぐると暫く北向きに長い表参道が続きます。そのあと、西へ大きく曲がると・・・ようやく社殿が見えてきました。
社殿に行く前に・・・元の大鳥居に戻ります。前途したとおり、入口は大変道幅が狭いです。それを抜けると・・・。
道幅は急に広くなり、車は止められそう・・・でも駐車禁止です。神社の案内では、境内には東側から入り、直ぐの「八幡会館駐車場」に止めるように書いてありました。
“八幡会館”を過ぎると手水舎が見えてきます。ここのは水は豊富にありました。
その手水舎の側にあったのが「祓戸(はらえど)社」で、御祭神が瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)とありました。
今度は向かいに移動して「社務所」です。不在でしたので、朱印の有無は不明ですが、“由緒書き”は置いてあったのでいただきました。
御祭神 誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后
1071年(延久3年)後三条天皇の勅宣によって、奥州鎮守府将軍・河内守源頼義が、河内国応神天皇陵に鎮座の誉田八幡宮から御祭神を勧請し創建したのが始まり。1072年(延久4年)5月13日付の源頼義の社領寄進状も現存する。藤原氏によって開かれた篠村の荘園であったが何時の頃から源氏が相伝する所となり、頼義が河内国守となった縁で自身の荘園内の当八幡宮の原初の祠に誉田八幡宮の御分霊を勧請したものでしょう。源頼義から10代末裔の足利高氏は、1333年(元弘3年)4月29日、当社に戦勝祈願の願文を奉じて10日間滞在の後、首尾良く六波羅探題を滅ぼし建武中興のきっかけを掴みました。また、後醍醐天皇と決別後の1336年(建武3年)1月30日、一旦占拠した攻防戦で敗れ、2月1日まで当社で敗残の見方の兵を集めるとともに社領を寄進、再起を祈願して九州へ逃がれるとともに、敗走後一ヶ月で九州全土を平定、5月の“湊川の合戦”で決定的な勝利を得て室町幕府開幕のきっかけを掴むことになりました。尊氏にとって二度目の重大な岐路で当社に祈願を込めて大願が成就しており、尊氏自身1349年(貞和5年)8月10日に当社にお礼に参拝しています。尊氏を始め歴代将軍家から多くの荘園の寄進を受け、室町時代を通じて当社は大いに栄え、最盛期には社域は東西両村に及ぶほどでした。後に応仁の乱や明智光秀の丹波平定の戦火によって社殿や社領の多くを焼失してしまいます。寛永年間に亀山城主・菅沼定芳によって本殿改修がなされ、以来、源姓亀山城主の直轄神社として歴代藩主による庇護を受けました。
大鳥居の横にあった“駒札”を書きましたが、所々の記述があるんですが・・・調べても分からないので、そのまま書きました。早い話、足利尊氏とゆかりが深いのは分かりました。
1923年(大正12年)秋に建造それた拝殿です。昭和初期まで奉納謡曲や能舞などが行われていたようです。
本殿前には「足利高氏旗揚げの地」と書かれた大きな石標が立っています。尊氏と書かず高氏と書いてある所が“ミソ”でしょう。
由緒書きにあったように、六波羅探題を滅ぼしたあと、幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱(いみな)・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏(たかうじ)名を尊氏(たかうじ)に改めました。
本殿の左奥に目をやると赤い・・・少し色褪せていますが「稲荷神社」です。稲荷大神を祀り、伏見稲荷大社から分霊を勧請されたそうです。
さらに奥に進むと「矢塚」と書かれた大きな石碑があったので行ってみました。
高氏以下の諸将が戦勝祈願に際して、神前に玉串代わりの鏑矢(かぶらや)を奉納したと言われ史蹟に指定されています。
さらに奥にある大木は「亀岡名木」に指定されてる「篠村八幡宮のツブラジイ」で、幹周りが4.5㍍、樹高が27㍍もあります。
その大木の右横の小さな祠は「祖霊社」です。当社歴代の神職や、この地から出征され戦死された英霊が祀られています。
次に本殿の裏側を通って、小さな社殿の方に行きます。ここに来たときから気がついてましが、現在工事中なんですよね、近づくの憚りましたが近づいて写真だけ撮りました。
こちはら「乾疫神社(いぬいやくじんじゃ)」で、御祭神が建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)です。
こちらは「小宮社(こみやしゃ)」です。近隣に祀られた祠を明治以降に遷されたものだそうです。向かって右から「秋葉神社・愛宕神社」「住吉神社・春日神社・日吉神社」「皇大神宮・豊受大神」「天満宮」だそうです。
そこかにさらに奥に行くと「旗立楊(はたたてやなぎ)」と書かれた大きな看板があります。50㍍先と書かれているので行ってみます。
看板のとおり進むと“旧山陰街道”に出ます。そのまま進むと「尊氏公旗立楊」の石碑が立っているので、ここなんでしょう・・・源氏の白旗を揚げたのは・・・。
高氏が4月27日から5月7日までの間、味方に賭け寄せる武将に本営の所在を知らせるため足利家の家紋である“二引両”入り源氏の白旗を揚げたといわれる所です。
帰りは旧山陰街道から裏参道の表にある石鳥居をくぐり境内に入って拝殿前に出て表参道から出ました。
ここには8時30分頃に出ました。約20分ぐらい散策してたことになります。ここは確かに足利高氏の足跡がありました。歴史好きに必見の神社ですよね、次は現在の南丹市、昔の園部町に向かいます。
【篠村八幡宮】