海の舞鶴市を行く 舞鶴公園 (田辺城跡・田辺城資料館)へ
海軍記念館や北吸桟橋、赤れんがパークなどは東舞鶴にあって、JRなら「東舞鶴駅」を利用します。次に同じ舞鶴市ですが、西舞鶴に移動です。同じ舞鶴市内でも約15分ほどかかりしました。着いた所は、JR西日本や京都丹後鉄道の「西舞鶴駅」から徒歩7分にある舞鶴公園 (田辺城跡・田辺城資料館)で、14時11分に着きました。
1992年(平成4年)に立派な城門が造られました。ここから城内に入城、ここは初めて来ましたが、お城の訪問は久しぶり、気持ちはワクワクです
。
この城門(大手門)の2階は「田辺城資料館」となっています。後ほど入ってみますが、先ずは隅櫓を目指します。
1940年(昭和15年)に、舞鶴公園入口に「彰古館」と呼ばれる隅櫓が復元して建てられてます。その彰古館では「糸井文庫」の錦絵資料を展示しており無料で入れます。
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人である細川藤孝(幽斎)は、織田信長の命により明智光秀と協力し丹後を平定し田辺の地に新しく築いたのが田辺城(別名舞鶴城)です。関ヶ原合戦の前哨戦として石田三成方の1万5千の兵に城を囲まれた幽斎は僅か500人の兵で、約2ヶ月もの間、田辺城に籠城します。この時、第107代・後陽成天皇の勅命で包囲が解かれたというのは有名な話で、これは幽斎が「古今伝授」を伝える唯一の人物であったからだと伝わっています。現在この城の本丸跡は、美しい「舞鶴公園」となり市民の憩いの場となっています。
そんなに詳しく調べて来なかったので、ここが“田辺城資料館”だと思い込んでて・・・2階へ上がってみます。
上がると「田辺城」の模型が展示されていました。ここには元々天守閣は存在しなかったようですね。
この隅櫓は2階建てですが、少し高い所にあるので、あまり期待してなかった眺望が良かったです。ただ土地勘が無いので東西南北・・・分かりません
。
次に、本来
の“田辺城資料館”に向かいます。隅櫓から下におりずに城門の2階から内部に入ります。
資料館の内部は冷房されてて汗だくの体には助かります。入ると早速“細川藤孝像”がお出迎え
。
日曜日の14時過ぎですので、内部は子供連れが多かったので、少々賑やかです。ここも無料で入れました。
ここの壁には狭間(さま)も造られているので覗いて見ました。舞鶴の市街地が見えます。この後せっかく舞鶴市まで来たので、城内(本丸跡)を散策します。
城内の城らしい・・・石垣でも探しながら東へ移動します。ここが城跡だと思うのは所々ありましたが、見た目は綺麗な公園ですし、市民の憩いの場になっているようでした。
さらに奥に進むと「古今伝授遺跡」が残っています。また、手前には、細川幽斎が秘伝書を渡す際に詠んだという歌碑も建っています。
「古も今も変わらぬ世の中に 心の種を 残す ことの葉」(昔のまま変わりのないこの世に、心のよりどころとなる、この和歌の道を後世に伝えようと思う。)
細川幽斎は、数多くの学術芸能に精通した当代随一の文化人でした。田辺城に籠城した幽斎が万一討ち死にすれば、歌道の奥義が廃絶することを憂慮した後陽成天皇が勅使を派遣し開城を勧めますが固辞します。その勅使に上記和歌を託しました。
その歌碑の句にちなんだ「心種園」があり、碑が立っています。その名は、徳川時代の城主牧野家の時に付けられたものです。
本日同行した友人は、この池の石橋をスイスイと渡っていきましたが、私は・・・無理です。ここから城門に戻る途中にあった「慰霊碑」です。
城内の東側から西側を見ると、広々とした芝生が広がります。“くつろぎ広場”と“ステージ広場”と呼ばれてるようですね。
こちらは「天守台」です。前途のとおり、ここには天守閣はありません。天守台といっても台だけ造られたのでしょう。でも、あまりに小さかったので帰ってから分かりました。
最後に、奥に見えているのが「牧野家紀恩碑」です。初代藩主・牧野 親成(まきの ちかしげ)から幕末まで牧野家が城主を務めました。
他の2人、興味あったかどうか分かりませんが、城内を好きなだけ散策してました。ここには14時30分頃に城門を出て行きました。
次が最後の訪問です。15時頃には舞鶴を出たかったので、あと一カ所ですが、ここから歩いてでも行ける距離です。
【舞鶴公園 (田辺城跡・田辺城資料館) 城門】

1992年(平成4年)に立派な城門が造られました。ここから城内に入城、ここは初めて来ましたが、お城の訪問は久しぶり、気持ちはワクワクです

この城門(大手門)の2階は「田辺城資料館」となっています。後ほど入ってみますが、先ずは隅櫓を目指します。
1940年(昭和15年)に、舞鶴公園入口に「彰古館」と呼ばれる隅櫓が復元して建てられてます。その彰古館では「糸井文庫」の錦絵資料を展示しており無料で入れます。
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人である細川藤孝(幽斎)は、織田信長の命により明智光秀と協力し丹後を平定し田辺の地に新しく築いたのが田辺城(別名舞鶴城)です。関ヶ原合戦の前哨戦として石田三成方の1万5千の兵に城を囲まれた幽斎は僅か500人の兵で、約2ヶ月もの間、田辺城に籠城します。この時、第107代・後陽成天皇の勅命で包囲が解かれたというのは有名な話で、これは幽斎が「古今伝授」を伝える唯一の人物であったからだと伝わっています。現在この城の本丸跡は、美しい「舞鶴公園」となり市民の憩いの場となっています。
そんなに詳しく調べて来なかったので、ここが“田辺城資料館”だと思い込んでて・・・2階へ上がってみます。
上がると「田辺城」の模型が展示されていました。ここには元々天守閣は存在しなかったようですね。
この隅櫓は2階建てですが、少し高い所にあるので、あまり期待してなかった眺望が良かったです。ただ土地勘が無いので東西南北・・・分かりません

次に、本来

資料館の内部は冷房されてて汗だくの体には助かります。入ると早速“細川藤孝像”がお出迎え

日曜日の14時過ぎですので、内部は子供連れが多かったので、少々賑やかです。ここも無料で入れました。
ここの壁には狭間(さま)も造られているので覗いて見ました。舞鶴の市街地が見えます。この後せっかく舞鶴市まで来たので、城内(本丸跡)を散策します。
城内の城らしい・・・石垣でも探しながら東へ移動します。ここが城跡だと思うのは所々ありましたが、見た目は綺麗な公園ですし、市民の憩いの場になっているようでした。
さらに奥に進むと「古今伝授遺跡」が残っています。また、手前には、細川幽斎が秘伝書を渡す際に詠んだという歌碑も建っています。
「古も今も変わらぬ世の中に 心の種を 残す ことの葉」(昔のまま変わりのないこの世に、心のよりどころとなる、この和歌の道を後世に伝えようと思う。)
細川幽斎は、数多くの学術芸能に精通した当代随一の文化人でした。田辺城に籠城した幽斎が万一討ち死にすれば、歌道の奥義が廃絶することを憂慮した後陽成天皇が勅使を派遣し開城を勧めますが固辞します。その勅使に上記和歌を託しました。
その歌碑の句にちなんだ「心種園」があり、碑が立っています。その名は、徳川時代の城主牧野家の時に付けられたものです。
本日同行した友人は、この池の石橋をスイスイと渡っていきましたが、私は・・・無理です。ここから城門に戻る途中にあった「慰霊碑」です。
城内の東側から西側を見ると、広々とした芝生が広がります。“くつろぎ広場”と“ステージ広場”と呼ばれてるようですね。
こちらは「天守台」です。前途のとおり、ここには天守閣はありません。天守台といっても台だけ造られたのでしょう。でも、あまりに小さかったので帰ってから分かりました。
最後に、奥に見えているのが「牧野家紀恩碑」です。初代藩主・牧野 親成(まきの ちかしげ)から幕末まで牧野家が城主を務めました。
他の2人、興味あったかどうか分かりませんが、城内を好きなだけ散策してました。ここには14時30分頃に城門を出て行きました。
次が最後の訪問です。15時頃には舞鶴を出たかったので、あと一カ所ですが、ここから歩いてでも行ける距離です。
【舞鶴公園 (田辺城跡・田辺城資料館) 城門】