海の舞鶴市を行く 朝代神社へ

舞鶴公園で、田辺城跡や田辺城資料などを見学し、次に向かったのが西に数百㍍の所にある朝代神社(あさしろじんじゃ)です。

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ここには14時37分に着きました。土地勘があれば、もっと早く着けたでしょうけ、ここの駐車場に車を入れました。

朝代神社は舞鶴の産土神として伊弉冉尊(いざなみのみこと)が祀られています。創建は673年(天武天皇2年)に淡路島の「日の少宮(ひのわかみや)」を遷したのが始まりだと伝わります。近世に入り田辺藩の氏神として歴代藩主の信仰篤く、年貢米の供進、神輿、鳥居、太刀の奉献が続き、藩主は城内にて神輿巡幸奉迎の慣わしで、秋の祭礼は大いに賑わったと言います。1928年(昭和3年)氏子の熱望が叶って「府社」に昇格、「朝の参りは朝代さま・・・」「日ごと夜ごとの朝代参り・・・」など民謡「舞鶴小唄」など広く歌われています。

石造りの一の鳥居の右には「府社 朝代神社」と書かれた大きな社号標があって、その一の鳥居をくぐると少し石段を上がると、今度は朱塗りの二の鳥居があります。

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二の鳥居をくぐると左手(南側)に参道が続き、少し登っています。そこからは少しばかり舞鶴市街地も見えました。

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階段を上がると、正面(南向)に本殿がありすが、その前に左手(西側)に「手水舎」があります。

私は写真を撮っているので出遅れました。友人2人は先にお参りを済ませて、本殿の奥へ、また我々以外にもうお一人も参拝に来られてました。

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本殿は、この「拝殿」の裏にありますが、ここで参拝です。御祭神は、前途したように伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。

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本殿」は江戸期の大火に類焼し、1739年(元文4年)に再建され、1993年(平成5年)には舞鶴市の文化財に指定されました。

本殿は、「檜皮葺一間社軒唐破風付き流造り」で、正面から見えないので横から見てみました。次は境内社を巡ります。

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拝殿の右側から回ります。社殿が並んでいますが、中を覗いてみると、そこには“白馬”が。「神馬舎」が2つ並んでました。

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境内社は本殿の裏側に並んでいました。先ずは右側の「奥姫稲荷神社」から。廃藩置県により、田辺城内から遷座されたようです。

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こちらは右から「工匠神社」(江戸時代に城下の大工仲間祀る)、中の社殿が「多賀神社」「恵比寿神社」。左が「須賀神社」です。

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右の一つだけの社殿が「稲荷神社」(宇迦之御霊神)。次に右から「疫神社」(江戸時代に疫病が蔓延した時に祀られる)「祇園神社」(元文年間に手代町が勧請)「松尾神社(元文年間に城下の酒造家有志が勧請)・梅宮神社」「大国神社」と並んでいます。

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そして左端が「天満宮」(1843年(天保14年)に城下の寺子屋中が勧請)で、祭神は菅原道真公でしょう。

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最後は手水舎の右側にあった「秋葉神社」で、防火・防災に御利益とありました。

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足早に境内を回りました。先の2人はとっくに出て行って・・・すると何か文字が書いてある石碑を見付けましたが読めません。社務所もありましたが“朱印”は下で貰います。

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ここから階段を降りて駐車場に向かいますが、途中で右にお隣の“寺”に入れます。私も帰りに寄るつもりでしたが、先に行った2人もそちらに行ってました

それでお隣の隣接する“寺”を3人で散策したあと再び朝代神社の参道に戻って下に降りました。行きには気がつかなかった一の鳥居横に歌碑があって読んでみると・・・。

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「三日月の おぼろの夜や 梟は 今年はじめて 森番をなす」(西村尚・昭和10年舞鶴市生まれ、國學院大学院に学ぶ。白峯神宮名誉宮司・朝代神社宮司)

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最後は“朱印”です。駐車場の横に社務所があって、そこで御朱印をいただきました。由緒書きも尋ねるとコピーですが貰えました

ここから帰路に着きましたが、お隣の“寺”に寄ってます。次回は、その模様をアップして、帰路の模様を紹介します。

【朝代神社 本殿】



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