和倉・七尾観光旅行 日本五大山城 難攻不落の七尾城跡へ

和倉温泉駅でタクシー運転手さんと合流し、早速目的地に向かうところ、最初に運転手さんと確認です。最初の目的地は上杉謙信も攻め苦しんだ難攻不落の七尾城跡で、日本100名城に指定されています。

この七尾市付近は、9月7日から10日にかけて記録的な大雨が降り、至る所で浸水したことは、私もニュース映像で知ってました。ただ七尾城本丸北駐車場に至る県道城山線が土砂崩れのため通行止めになっていることは、タクシー会社から連絡をもらうまで知りませんでした。そして当日、運転手さんに「通行止めは解除になってますか」聞いてみると、「路肩が約500㍍ほど崩落しているので、まだ手つかずの状態。工事も入っていない。」と。やっぱり通行止めは解除になっていないそうで、私も諦めかけた所、運転手さんから予想外の提案をいただきました。「タクシー会社の同僚から県道花園藤野線から林道城石線、市道南大呑1号線を通って七尾城本丸北駐車場まで、約30分で行けるルートがあって、所々に赤い矢印標識の案内が出ている、と聞いたので私は行ったことがないけど、七尾城を目当てに来られたのでしょう、是非行ってみましょう」と。

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運転手さんも初めて来られたみたいで、慎重に運転され13時3分に“七尾城本丸北駐車場”に着きました。ここから見る眺望も素晴らしいものでしたが、本丸跡はもっと綺麗です

七尾市が出されたチラシには、約25分と書いてありましたが・・・やっぱりそのぐらいかかりました。(県道城山線なら10分もかからず)歩いて登ると60分ぐらい急な山道を登ることになるので、ここまで車で登って来られたのは運転手さんのおかげです

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運転手さんは付いて来られないので、2人で登城します。天気は絶好の快晴で、これなら眺望も期待できそうです

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本丸北駐車場から城内に入ると、下は木材のチップのようなものが敷かれてて、大変歩きやすくされてました。そして奥に進み本丸へと向かいます。

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本丸を目指しますが、最初に見る石垣は「調度丸跡」です。ここは“弓矢などの武器”をととのえた場所と伝わります。

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その“調度丸”の石段を、どんどん登って行くと、平面な地に出ます。標識が出ていて“本丸”まで、あと80㍍です。

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この本丸西側の曲輪は「遊佐屋敷跡」と呼ばれています。七尾城の中心部にあることから城主に次ぐ地位にあった遊佐氏の屋敷であったと伝わるものです。

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さらに本丸に向かって歩いて行くと、雄大な本丸の石垣が見えて来ます。いよいよ登り切ると本丸に到着です。

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階段を登り切ると広々とした「本丸跡」に出ます。中央には“七尾城址”と書かれた大きな石標が。また、ここから七尾湾を一望できます

具体的には、能登島・・・ここは明日訪れます、能登島大橋、JR七尾駅、小丸山城公園・・・ここは、これから訪れます、私は見えませんでしたが和倉温泉も見えるみたいです。今日の宿は、ここにあります。

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ここの看板に「能登畠山氏の優れた戦略眼に、戦国武将・上杉謙信も絶賛!!加賀藩祖・前田利家も見た能登半島を一望する七尾城の絶景」と書いてありました。

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“本丸跡”には1942年(昭和17年)建立の「城山神社」が建っています。手前の鳥居は1973年(昭和48年)に建てられました。

七尾城は、正長年間(1428~1429)に能登国守護であった畠山満慶(みつのり)がその本拠として築城した山城です。石動山脈の北端にあたる標高約300㍍の本丸を中心に、複雑な地形を利用して二の丸、三の丸が構えられています。難攻不落といわれた七尾城ですが、1577年(天正5年)、上杉謙信の手によって落城し、能登畠山氏は滅亡しました。1578年(天正6年)に上杉謙信が死去すると七尾城代の鯵坂長実(あじさかながざね)は旧畠山氏家臣団によって追放され、その旧畠山家臣団も七尾城代として派遣された菅屋長頼(すがやながのり)よって滅ぼされます。そして1581年(天正9年)織田信長より命じられて配下の前田利家が入城し城主となりますが、利家は入城早々七尾城より港に近い小丸山に平山城を築城すると、七尾城は廃城となりました。

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本丸は東西の長さが50㍍、南北の長さが40㍍もあり、石垣は戦国時代の山城に多い“野面積み”工法を用いています。

ここをじっくり攻略するのに約50分はかかるそうですが、私には時間がありません。欲張りの私は、ここから何カ所も回りたいからです。でも、取り急ぎ“桜の馬場”まで行ってみるつもりです。

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本丸から二の丸まで、約10分で行けるみたいですが・・・その、本丸の出口には外枡形の石垣が見えます。

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本丸を出て“桜馬場”まで行ってみました。かつて軍馬を訓練した馬場とは思えないほど、木立が聳え立っています。

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せめて“二の丸”まで行けば良かったと・・・でも鬱蒼とした山の中を入っていく勇気もないので引き換えし、本丸跡まで戻りました。

そして石碑があったので読んでみと「1960年(昭和35年)3月29日七尾城主末裔の登山記念碑」と書いてありました。

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本丸の石垣から思い切って覗いてみると、三段に組まれた石垣が見えます。前途した野面済み工法の石垣ですよね。

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人工的に三段に切り込まれたことが横から見れば良く分かります。その野面済みの石垣を見ながら、行きと同じ道を通って降りて行くと・・・。

「本丸跡(80㍍)・遊佐屋敷跡」「九尺石(120㍍)」と案内が出ています。既に、本丸と遊佐屋敷跡は見てきました。それで“九尺石”ですが、その名前に興味を持ちましたが・・・。

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九尺石は120㍍も先にあるので行きませんでした。この広い曲輪は、七尾城でも最大の曲輪「桜馬場」で、石塁は「調度丸」のものです。

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駐車場で運転手が待っているのと、4時間のフリープランでお願いしているので時間がありません。急いででもないけど桜馬場から調度丸へ下っていきます。

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行きに来た道を駐車場に向かって戻って行きます。会社には七尾市出身の人が居て、いつも結構な人で賑わってる七尾城だと聞いてましたが・・・。

駐車場には13時30分前に戻ってきました。私らが利用しているタクシーの他、もう一台・・・レンタカーが止まっていました。この七尾城跡で出会った一組2名の方が乗ってこられたのでしょう。

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タクシーの運転手さんに教えてもらいましたが、この“七尾城復元イラスト”の下に、パンフレットの箱があります。これを持って城内を散策すれば良いでしょう。

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ここを出て、右手に行けば七尾城資料館に出られますが、前途したとおり9月上旬の大雨により通行不可です。そのためタクシーは左手に進みます。

今日は家を出るときから諦めていた七尾城を登城できて良かったです。無理して行ってくれた運転手さんに感謝するしかないですね

【七尾城址】



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