2018年(平成30年)秋期堺文化財特別公開 開口神社へ

方違神社から車のナビの誘導で、次に秋期堺文化財特別公開 開口神社(あぐちじんじゃ)に12時18分に着きました。

ここも仁徳天皇陵でいただいたパンフを見て決めました・・・しかし、この神社・・・読み方が分からなかったです。今回、いただいたパンフには、建物内や建物外(庭園など)の写真撮影の有無が記載されてました。当初行ってみたいと思ってた寺院が、建物内も外も撮影禁止と書いてあったので、このパンフを見てそこを断念し、開口神社に変更した次第です

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車は北門から入って境内の南側に止めました。そして正門かどうか知りませんが「東門の大鳥居」を撮影し再び境内に入りました。

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ここにはガードマンさんが居て駐車の場所を指示しますが少々“ウザい”です。どうでも良いことを細かすぎ・・・珍しく友人も怒ってました。お昼時間もあって、着いた頃は空いてましたが・・・。

東大鳥居から入ると手水舎が無いんですね、これは後で案内しますが、先ずは空いている「本殿」へお参りです。

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御祭神は、素盞嗚神(すさのおのかみ)、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)、生国魂神(いくたまのかみ)でした。ここは通称“大寺さん”と呼ばれるようです。

行基が建立した念仏寺にちなんで“大寺さん”の愛称で知られており、堺市神社の中でも歴史は古く、神功皇后の勅祭により創建されたと伝わります。戦国時代には武野紹鴎(たけのじょうおう、堺の豪商)や千利休が築地塀の修理のため寄進したことでも知られています。また、与謝野晶子の生家が、この近くにあって晶子が幼い頃、境内で遊んでいたといいます。

ここで私は社務所に朱印帳を出して御朱印をお願いし、友人は西にある「商店街を散策してくる」と言って出かけたので、境内社を見て行くことにしました。

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最初は、東大鳥居の南角にある「豊竹稲荷神社」から。御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。

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次に鳥居を挟んだ北側にあるのが「三宝荒神社(竈神社)」で、御祭神が庭津日命(にわつひのみこと)です。

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次に左側に移動すると「歌塚」と書かれた石碑が、その横に「影向石」で、開口大神が行基菩薩と法談されるときに腰かけられたとも弘法大師とお会いになられたとき座られた石とも伝えられるものです。

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また左側に移動し「扇塚」で芸能の神様です。また石灯籠で見えませんが「白一龍神社」があって、全国でも珍しい歯の神様だそうです。

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その左に小さな社殿が三つ並んでいます。右から「白鬚神社・寒神社」「舳松(へのまつ)神社・松風神社」「菅原神社・岩室神社」です。

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この石碑は「大阪府立泉陽高等学校発祥之地」と書かれており、1900年(明治33年)創立から2000年(平成12年)の創立100周年記念として建立されました。

その右側を拡大すると堺市出身の「与謝野晶子歌碑」であることが直ぐに分かりました。晶子が幼少時代遊んだ開口神社の境内にあった樟を見て詠んだ歌が書かれています。

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「少女(おとめ)たち開口(あぐち)の神の樟の木きの若枝(わかえ)さすごとのびて行けかし」と書いてありました。

次が茶室「無礙庵(むげあん)です。ここの前を通ると黄色のジャンパーを着られたガイドさんが、「この茶室は、普段閉まってて中は見られませが、今日は特別に公開しているので見て行ってください」と。喜んで行きました

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武野紹鴎(たけのじょうおう)好みの茶室と伝えられた八窓の席とも称せられた茶室でしたが、1945年(昭和20年7月に空襲により焼失。1989年平成元年に再建されました。

再建されたのは帰ってからHPで知りましたが、茶室を覗いてみて新しさは感じてました。そのあとガイドさんに「ここの家紋が変わっているので、来てください」と「手水舎」まで連れて行かれ・・・

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手水舎は西門近くにありました。そこの屋根に“家紋”があって、茄子の形をしています。“三ツ茄子”と案内されました。

ここから西門が見えているので、そちらに行きます。その前に「大阪府立三国丘高等学校発祥之地」と書かれた石碑を見つけたので撮りました。

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1895年(明治28年)開校の大阪府第二尋常中学校が大阪府立三国丘高等学校がその前身らしいですね。それより土地勘が無いので分かりませんが、この近くにあるのでしょうか

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西門には「狛犬」が鎮座しています。こちらには“手水舎”もあるので、開口神社の正門なんでしょう。1863年(文久3年)に奉納されたと伝わる巨大な狛犬でした。

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こちらが西門の「西大鳥居」です。こちら側に商店街があって多くの人が行き交ってますし、友人も散策しに行きました

ここから社務所まで戻って朱印帳を受取り、カラー版の由緒書きもいただいて、最初に車を入れて「北門」までやって来ました。

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北門を入った先には「堺の幼稚園教育発祥の地」と書かれた石碑があって、1886年(明治19年)に私立の幼稚園が当神社境内に設立されたのを記念するものだそうです。

北門を入った北側には、ここにも境内摂末社が並んでいます。向かって左から見て行きます。

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楠本神社・舟玉神社・少彦名神社・恵美須神社・大国魂神社・北辰神社・産霊神社」「豊受神社・神明神社・琴平神社・三宅八幡神社・兜神社・厳島神社・熊野神社」と並んでいました。

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こちらはお寺のお堂のようで見ると「薬師社」とありまりした。明治の廃仏毀釈や戦災からの被害にも遭わず奇跡的に残った神仏習合ですね。

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境内の南には「針塚」古い針を納める針供養は、2月8日だそうです。また「神馬像」もありましたし、“三ツ茄子”の家紋も確認できます。

ここで車に乗り込むつもりが、次の寺院がここから近いので、土地勘の無い二人は、ここから歩いて行くことにしました。それが12時33分のことです。

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そして、再び戻って来たのが13時前。東大鳥居には「扇塚建立の地」と書かれた看板がありました。境内には“扇塚”ありましたね。

かつて三村坊という天狗が住んでいたと伝わる境内には、22もの摂社や末社が建ち並んでおり、見所が多かったです。ここには13時前に車に乗り込み、一路京都府南部の南山城に向け出発しました。

【開口神社】



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