後醍醐天皇が自ら鎌倉倒幕に備えた城跡 笠置寺へ
海住山寺の駐車場を出て、急な坂道を下ります。道が狭いので対向車が来ない事を願いつつ下まで降りてこられました。車は国道163号線を木津川沿いに東に進むとこと約10㌔ぐらいで笠置大橋を渡ると、ここから今度も急な坂道を登ります。ここから約2㌔、海住山寺ほどではありませんが、ここも道が狭いし登りも急な坂道が続きますが、対向車は来なかったです。そして15時23分に笠置寺の駐車場に着きました。
駐車場には誰も居ないので、“無料”です。私らの前に家族連れ(5名ぐらい)が先に歩かれてて、この「山門」前で抜いたら、まだ先に2名の家族連れが、ガラガラだと思って来たのにね。
山門を入ると左手か正面か忘れましたが「拝観受付所」があって拝観料300円を納めます。そして、その先にある“鐘”に注目です。
「解脱鐘(重要文化財)」といい、1196年(建久7年)に鋳造され、東大寺の重源和尚から解脱上人に寄進されたものです。
次に「収蔵庫」ですが、先の家族ずれなど入られたので、私も入りましたが、ゆっくり見たいので帰りに寄るつもりで直ぐに出ました・・・これが大失敗・・・になることは、この時には分かりませんでした。そして収蔵庫を出てお隣の「鎮守社」に寄りました。
ここは椿本護王宮といい、笠置寺の総鎮守社です。桃山時代の建築様式から豊臣氏の再興と考えられています。
その左横の社殿は「春日明神社」があって、2016年(平成28年)奈良春日大社の式年遷替に際し再興されたものです。
以前、笠置寺を紹介された・・・多分、テレビだと思いますが見たことがあって、岩肌に刻まれた磨崖仏、いよいよ見られるのかと思うとドキドキしてきます
。
まだ、この時はこれからまさかの“山岳修行”になるとは思わなかったです。本当の“山岳修行”は、こんなもんじゃないのは分かってますが、とにかくキツかった・・・です。そして15時29分に行場に入って行きました。
ここは笠置城跡に建つ笠置寺ですが、ここから巨石がゴロゴロ。私らは案内に従って奥へ奥へと進みます。その前の階段を上がると“大師堂”があります。
帰りは、この階段を降りてきます。まさか一周して、ここに戻ってくるとは、この時は知る由もなかったです。
歩き始めて直ぐ、正面に「正月堂」が見えて来て、左手に高さ15㍍もある岩肌も見えて来ました。
その正月堂の手前に、国の重要文化財に指定されている「十三重石塔」(鎌倉時代)が建っています。
この石塔は、元弘の乱における戦死者の供養塔とも、貞慶上人が母のために建て供養塔とも伝えられています。ここは15時31分に通過しました。
そして次が、笠置寺で一番見たかった「弥勒磨崖仏」です。正月堂を背にし、笠置寺の本尊である高さ15㍍の弥勒菩薩立像が刻まれていました。
残念ながら、ご覧のようにお姿は分かりません。長年の風雨に晒されたためでしょうか、元弘の乱の戦火によってでしょうか分かりませんが、そのお姿は正月堂で見られます。
創建当時は、弥勒磨崖仏を礼拝するための礼堂として建立されましたが、今は内部に、デジタル技術により復元された弥勒磨崖仏が掲示パネルで見られます。
正月堂を過ぎると、今度は下ります。足場の悪い石段をどんどん下りますが、下ったら何処かで登ることになる訳です。今日は千早城に登っているので相当足は疲れています・・・このまま戻れるかなぁ・・・と、ちょっと不安になりました。
下りきると、正月堂の足場が、まるで清水の舞台のように思えました。そして巨石が聳える下には「千手窟」と呼ばれる祠がありました。案内版には以下のようにありました。
東大寺大仏殿建立の用材を木津川を利用し奈良へ送る計画をたてていましたが、日照り続きで水量が少なく、計画どうり大仏殿の建立が危やぶくなったとき、実忠和尚が、この場で雨乞いの修法を行い大雨を降らせ予定どおり大仏殿を完成させたと云う。
そして、その先に見えるのが「伝虚空蔵磨崖仏」です。こちらは“元弘の乱”の戦火でも炎から守られ、仏様の姿が分かります。ここは15時34分に通過しました。
先程まで下って来ましたが、今度は登ります。下った分だけ登るのは当たり前ですが、足場の悪い岩場では疲れます。そして今度は“山岳修行”でお馴染みの・・・。
ここは「胎内くぐり」で、狭い岩盤の隙間を潜っていきます。普通、行場入りする前、滝で身を清めますが、ここには滝が無いので岩をくぐり抜けることで身を清めた訳です。ここは15時35分に通過しました。
“胎内くぐり”を出ると、もううんざりの急な階段を登って行きます。まだまだ行場は前半で、この先は続きます。
結構な登りでしたが頑張りました。そして平坦な道になった先に「太鼓石」があって、ここは15時37分に通過しました。
この“太鼓石”叩けば太鼓のような音が鳴るらしい・・・やってみましたが分からなかったです。ここを出ると少し眺望が見えました。
再び、少しだけ登った先にあったのが後醍醐天皇ゆかりの「ゆるぎ石」で、ここには15時41分に着きました。
この“ゆるぎ石”は1331年(元弘元年)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府の奇襲をうけたところで、この石は奇襲に備えるための武器としてここに運ばれましたが、使用されませんでした。
眺望は、ここからが最も綺麗でした。眼下に木津川が見えており、その先が南山城村、そして三重県と続くわけです。
その先に進むと15時43分に着いたのが「平等石」です。あまりの巨石に驚きですが登ってみます。
“平等石”の上からも眺望が見えました。ここから遙か先の三重県まで見えそう・・・実際は分かりません
。私は下から、友人は上から降りましたが、友人曰く、「上からはお勧めできません」と。
そこからずっと登って行き、たどり着いた先に「二の丸跡」があって、15時47分に着きました。
笠置城は、後醍醐天皇の仮皇居であって正式な築城はされませんでしたが、室町時代以降、山頂行在跡を本丸とみたてたのか、この辺りの広場を“二の丸跡”と呼ばれるようになりました。
そこから少しづつ登っていく道を歩いて行くと、「貝吹き岩」に15時51分に着きました。
1331年(元弘元年)の「元弘の戦」の折り、勤王軍の武士の士気をたかめるため、この岩上より盛んに“ホラ貝”が吹かれたと云われています。
先の広場から階段を下って行くと、「もみじ公園」があって少し色づき始めた紅葉を楽しめました。ここには15時53分に通過し先を急ぎます。
この公園から上に登る階段があって、少し躊躇しましたが頑張って登ると「後醍醐天皇行在所」がありました。後醍醐天皇は、この地に三種の神器とともに行幸され、この地が南朝の皇居となりました。
ここで後醍醐天皇は、「うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山のもみじを見る」と詠まれました。
ここから結界で行けませんでしたが、ここから「弥勒磨崖仏」の上に出るようです。“山岳修行”では、上から覗くらしい・・・です・・・友人曰く。
ここから先を急いで歩いていると16時を回りました。すると遠くで扉が閉まる音がします。後で知ったことですが、ここの拝観は16時まで収蔵庫も閉められ帰りに行く予定が入れなくなった訳です。
“山岳修行”も最終地点が「大師堂」で、16時過ぎに戻ってきました。写真は行きに撮ったので扉は開いていますが、帰りは閉められてました。
16時5分に笠置寺の駐車場を出て、山を下ります。その途中で、山を下ってる2人を見かけました。その人らは私らが山門から入ると出て来られた人でした。多分、山を下りた頃には真っ暗になるはずです。そんな事を思いながら車は、国道163号線を木津川沿いに西に進みますが、日も傾いて西日が眩しいです。京奈和自動車には山田川から入ると、ひたすら京都に向け車を走らせます。途中、17時を過ぎると外はすっかり暗くなりました。そして電光掲示板で分かっていたことですが、田辺西料金所にて事故車両による約2㌔の渋滞に巻き込まれるハプニングはありました。その後は、さほど渋滞もせず城陽JCTから新名神高速道路に入り西に進み、次に京都田辺松井JCTから第二京阪道路に入り、今度は北に進むと、久御山JCTから京滋バイパスに乗換え、大山崎JCTから京都縦貫道路に入りました。やっぱり京都縦貫道は空いてます。ほほガラガラの状態でした。帰りは沓掛ICには降口が無いので、手前の大原野ICで高速を降りました。洛西ニュータウンから国道9号線に入り、千代原口から物集街道に入り、松尾橋を渡って罧原堤に入って嵐山に向かいますが、南行きの渋滞に驚きました。今日は11月3日の土曜日です、そろそろ休日での嵐山の渋滞が酷くなってきました。そして家には18時40分頃に着きました。大変疲れましたが楽しい一日で、運転してくれた友人には感謝しかないです。
【笠置寺】

駐車場には誰も居ないので、“無料”です。私らの前に家族連れ(5名ぐらい)が先に歩かれてて、この「山門」前で抜いたら、まだ先に2名の家族連れが、ガラガラだと思って来たのにね。
山門を入ると左手か正面か忘れましたが「拝観受付所」があって拝観料300円を納めます。そして、その先にある“鐘”に注目です。
「解脱鐘(重要文化財)」といい、1196年(建久7年)に鋳造され、東大寺の重源和尚から解脱上人に寄進されたものです。
次に「収蔵庫」ですが、先の家族ずれなど入られたので、私も入りましたが、ゆっくり見たいので帰りに寄るつもりで直ぐに出ました・・・これが大失敗・・・になることは、この時には分かりませんでした。そして収蔵庫を出てお隣の「鎮守社」に寄りました。
ここは椿本護王宮といい、笠置寺の総鎮守社です。桃山時代の建築様式から豊臣氏の再興と考えられています。
その左横の社殿は「春日明神社」があって、2016年(平成28年)奈良春日大社の式年遷替に際し再興されたものです。
以前、笠置寺を紹介された・・・多分、テレビだと思いますが見たことがあって、岩肌に刻まれた磨崖仏、いよいよ見られるのかと思うとドキドキしてきます

まだ、この時はこれからまさかの“山岳修行”になるとは思わなかったです。本当の“山岳修行”は、こんなもんじゃないのは分かってますが、とにかくキツかった・・・です。そして15時29分に行場に入って行きました。
ここは笠置城跡に建つ笠置寺ですが、ここから巨石がゴロゴロ。私らは案内に従って奥へ奥へと進みます。その前の階段を上がると“大師堂”があります。
帰りは、この階段を降りてきます。まさか一周して、ここに戻ってくるとは、この時は知る由もなかったです。
歩き始めて直ぐ、正面に「正月堂」が見えて来て、左手に高さ15㍍もある岩肌も見えて来ました。
その正月堂の手前に、国の重要文化財に指定されている「十三重石塔」(鎌倉時代)が建っています。
この石塔は、元弘の乱における戦死者の供養塔とも、貞慶上人が母のために建て供養塔とも伝えられています。ここは15時31分に通過しました。
そして次が、笠置寺で一番見たかった「弥勒磨崖仏」です。正月堂を背にし、笠置寺の本尊である高さ15㍍の弥勒菩薩立像が刻まれていました。
残念ながら、ご覧のようにお姿は分かりません。長年の風雨に晒されたためでしょうか、元弘の乱の戦火によってでしょうか分かりませんが、そのお姿は正月堂で見られます。
創建当時は、弥勒磨崖仏を礼拝するための礼堂として建立されましたが、今は内部に、デジタル技術により復元された弥勒磨崖仏が掲示パネルで見られます。
正月堂を過ぎると、今度は下ります。足場の悪い石段をどんどん下りますが、下ったら何処かで登ることになる訳です。今日は千早城に登っているので相当足は疲れています・・・このまま戻れるかなぁ・・・と、ちょっと不安になりました。
下りきると、正月堂の足場が、まるで清水の舞台のように思えました。そして巨石が聳える下には「千手窟」と呼ばれる祠がありました。案内版には以下のようにありました。
東大寺大仏殿建立の用材を木津川を利用し奈良へ送る計画をたてていましたが、日照り続きで水量が少なく、計画どうり大仏殿の建立が危やぶくなったとき、実忠和尚が、この場で雨乞いの修法を行い大雨を降らせ予定どおり大仏殿を完成させたと云う。
そして、その先に見えるのが「伝虚空蔵磨崖仏」です。こちらは“元弘の乱”の戦火でも炎から守られ、仏様の姿が分かります。ここは15時34分に通過しました。
先程まで下って来ましたが、今度は登ります。下った分だけ登るのは当たり前ですが、足場の悪い岩場では疲れます。そして今度は“山岳修行”でお馴染みの・・・。
ここは「胎内くぐり」で、狭い岩盤の隙間を潜っていきます。普通、行場入りする前、滝で身を清めますが、ここには滝が無いので岩をくぐり抜けることで身を清めた訳です。ここは15時35分に通過しました。
“胎内くぐり”を出ると、もううんざりの急な階段を登って行きます。まだまだ行場は前半で、この先は続きます。
結構な登りでしたが頑張りました。そして平坦な道になった先に「太鼓石」があって、ここは15時37分に通過しました。
この“太鼓石”叩けば太鼓のような音が鳴るらしい・・・やってみましたが分からなかったです。ここを出ると少し眺望が見えました。
再び、少しだけ登った先にあったのが後醍醐天皇ゆかりの「ゆるぎ石」で、ここには15時41分に着きました。
この“ゆるぎ石”は1331年(元弘元年)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府の奇襲をうけたところで、この石は奇襲に備えるための武器としてここに運ばれましたが、使用されませんでした。
眺望は、ここからが最も綺麗でした。眼下に木津川が見えており、その先が南山城村、そして三重県と続くわけです。
その先に進むと15時43分に着いたのが「平等石」です。あまりの巨石に驚きですが登ってみます。
“平等石”の上からも眺望が見えました。ここから遙か先の三重県まで見えそう・・・実際は分かりません

そこからずっと登って行き、たどり着いた先に「二の丸跡」があって、15時47分に着きました。
笠置城は、後醍醐天皇の仮皇居であって正式な築城はされませんでしたが、室町時代以降、山頂行在跡を本丸とみたてたのか、この辺りの広場を“二の丸跡”と呼ばれるようになりました。
そこから少しづつ登っていく道を歩いて行くと、「貝吹き岩」に15時51分に着きました。
1331年(元弘元年)の「元弘の戦」の折り、勤王軍の武士の士気をたかめるため、この岩上より盛んに“ホラ貝”が吹かれたと云われています。
先の広場から階段を下って行くと、「もみじ公園」があって少し色づき始めた紅葉を楽しめました。ここには15時53分に通過し先を急ぎます。
この公園から上に登る階段があって、少し躊躇しましたが頑張って登ると「後醍醐天皇行在所」がありました。後醍醐天皇は、この地に三種の神器とともに行幸され、この地が南朝の皇居となりました。
ここで後醍醐天皇は、「うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山のもみじを見る」と詠まれました。
ここから結界で行けませんでしたが、ここから「弥勒磨崖仏」の上に出るようです。“山岳修行”では、上から覗くらしい・・・です・・・友人曰く。
ここから先を急いで歩いていると16時を回りました。すると遠くで扉が閉まる音がします。後で知ったことですが、ここの拝観は16時まで収蔵庫も閉められ帰りに行く予定が入れなくなった訳です。
“山岳修行”も最終地点が「大師堂」で、16時過ぎに戻ってきました。写真は行きに撮ったので扉は開いていますが、帰りは閉められてました。
16時5分に笠置寺の駐車場を出て、山を下ります。その途中で、山を下ってる2人を見かけました。その人らは私らが山門から入ると出て来られた人でした。多分、山を下りた頃には真っ暗になるはずです。そんな事を思いながら車は、国道163号線を木津川沿いに西に進みますが、日も傾いて西日が眩しいです。京奈和自動車には山田川から入ると、ひたすら京都に向け車を走らせます。途中、17時を過ぎると外はすっかり暗くなりました。そして電光掲示板で分かっていたことですが、田辺西料金所にて事故車両による約2㌔の渋滞に巻き込まれるハプニングはありました。その後は、さほど渋滞もせず城陽JCTから新名神高速道路に入り西に進み、次に京都田辺松井JCTから第二京阪道路に入り、今度は北に進むと、久御山JCTから京滋バイパスに乗換え、大山崎JCTから京都縦貫道路に入りました。やっぱり京都縦貫道は空いてます。ほほガラガラの状態でした。帰りは沓掛ICには降口が無いので、手前の大原野ICで高速を降りました。洛西ニュータウンから国道9号線に入り、千代原口から物集街道に入り、松尾橋を渡って罧原堤に入って嵐山に向かいますが、南行きの渋滞に驚きました。今日は11月3日の土曜日です、そろそろ休日での嵐山の渋滞が酷くなってきました。そして家には18時40分頃に着きました。大変疲れましたが楽しい一日で、運転してくれた友人には感謝しかないです。
【笠置寺】