松永貞徳花咲亭址に建つへ

1月2日(水)は、最初に神明神社により、そのあと“大福まいり”の六波羅蜜寺に行き、そこから“京都十六社朱印めぐり”の豊国神社へ。そのあと“京都十六社朱印めぐり”の市比賣神社によってから、この日から初売りの「大丸 京都店」に向かって歩いていると、またまた小さな社を見つけました。

ここは、全く知らなかったですし、帰ってから調べてようやく分かりました。そこは松永貞徳花咲亭址に建つ花咲稲荷神社でした。

画像
南行き一方通行の間之町通りに面して朱塗りの鳥居が建っています。車が一台通れるほど狭い通りです。

画像
画像

豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ)を務め、その後、俳諧の祖と言われる松永貞徳(まつながていと)の邸内に祀られていた鎮守社花咲稲荷神社です。御祭神が宇迦之御霊神、素戔嗚尊、大市比売命(おおいちひめのみこと)、大己貴神(おおあなむちのかみ)、猿田彦命の五柱でありご神像五体が祀られていました(現在は京都国立博物館にて保管保存)。1715年(正徳5年)霊元上皇皇女八十宮(やそのみや)吉子が徳川幕府7代将軍・徳川家継に降嫁される時、また、1861年(文久元年)孝明天皇皇女妹和宮親子内親王が徳川幕府14代将軍・徳川家茂に降嫁される時のいずれも、玉體安寧のご祈祷が当神社にて於いて斎行されました。

画像
この鳥居の横に「松永貞徳花咲亭址」の石標が建っています。松永貞徳の名は、知らなかったです。この神社の由緒を見て知りました。

松永貞徳(まつながていとく)(1571年~1653年)は、京都出身の俳人。和歌を細川幽斎(ほそかわゆうさい)に,連歌を里村紹巴((さとむらじょうは)に学び,和学・歌学を一般の人に教えた。晩年,俳諧の指導者となり,その俳諧を貞門俳諧と称した。60歳代半ばで隠居し,この地の花咲亭に移った。この石標は松永貞徳の花咲亭跡を示すものである。 (案内版より)

ここから東洞院通りに出て北上し、四条高倉にある大丸 京都店に行きました。店内は大変混雑してて人に酔ってしまいました。目的の物を買ったら早々に出て四条烏丸からバスに乗って帰りました。

【花咲稲荷神社】



この記事へのトラックバック