第53回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 善想寺へ
今年の年始めの1月4日に、四条大宮にある善想寺を訪れました。通常は非公開ですが、正月期間中には本堂や地蔵堂に入れるので、“京都十六社朱印めぐり”の途中に寄ってみたんです。そして今回の第53回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開で初公開されたこともあって、1月24日(木)に再訪してきました。
会社からバスに乗って、私の故郷四条大宮で下車。そこから歩いて大宮通りを北上すると15時40分・・・団体さんが六角通りを東から西へ大宮通りを横断していかれます。仕事の都合で夕方からしか行かれなかったんですが、受付時間終了の16時前に行けば空いていると思いきや、まさかの団体さんと出会すとは・・・ついてないなぁ・・・と。
六角通りに面して「山門」が1月4日には閉まってましたが、この日は開いています(当然ですよね)。本堂前の下駄箱には団体さんの靴でしょうか、一杯置いてあります。
バスガイドさんの制服で、京都定期観光バスの団体さんと分かりました。ざっと20名から30名ぐらいでしょう、平日でも多くの方が来られていますね。15時44分に着きましたが、入りませんでした。ここには16時までに入れば良いので、三条通り商店街を散策してから、ここに15時55分に戻って来ました。
写真は「地蔵堂」ですが、ここには15時55分に戻ってくると、まだ団体さんは本堂に居ますが、拝観受付所で“招待券”を差し出し、スタンプラリーの用紙の判子を押したもらいました。
これでスタンプから3個貯まったので、“ちょっと一服”の特典を受けることができるので、こちらは後日かならず行きます。受付を済ませると本堂に行くように案内されますが、下駄箱には靴が一杯これでは入れないので、先に「石仏阿弥陀如来」(平安時代後期建立)を見ることにしました。
1月4日も見てますが、案内がきけるかなぁ・・・と思い墓地の方に向かうと、数名の方が出て来られます。
約800年前には四条後院(ごいん)であって後院(上皇の御所)内に祀られていたそうですが、「元弘・建武の戦い」の折りに地中に埋められたようです。
また、「石仏阿弥陀如来」の左隣には華道池坊の歴代家元の“墓碑”があって、入口で案内図をもらったので行ってみました。
1658年(万治元年)に、池坊32世二代目専好師が当墓地にまつられてから、1908年(明治41年)の42世専正師までの歴代家元がまつられています。
それで本堂に戻ると、まだ団体さんは出て来られません。外は寒いので堂内に入りたいと思いつつ、本来なら最後に案内がある「地蔵堂」に行きました。
比叡山延暦寺の開祖、最澄自らが彫ったものと言われ、坂本村に祀られていましたが、1587年(天正15年)に善想寺にお迎えし地蔵堂を建立され現在に至っています。
地蔵堂の内部は、1月4日の訪問時に比べて室内のレイアウトが変更されてます。室内は狭いので沢山の人が入れないからでしょう。この前でガイドさんが案内してくれたため、由緒書きでは知らなかった事を教えてもらいました。このお地蔵さんには逸話が2話あって・・・。
滋賀県坂本村に百姓の作兵衛が居ました。日照りが続いたため作兵衛は、雨が降るように地蔵尊に祈念するとと大雨が降りました。が、作兵衛は急病になり田植えができなくなりました。しかし翌朝になって、心配した百姓たちが様子を見に行くと、なぜか作兵衛の田んぼの田植えがすでに終わっています。そこで“お地蔵さん”を見に行くと、腰から足にかけて一面泥にまみれになっていたことから「泥足地蔵尊」とも呼ばれるようになりました。
また、妻の難産に際した堺町の勘兵衛が、お地蔵さんにお祈りをしていたところ、家から安産の知らせがありました。その時、お礼にお地蔵さんに行ったところ地蔵尊が玉のような汗が流して妊婦の苦しみを引き受けてくれたことから「身代わり地蔵尊」と呼ばれるようになりました。
この案内を聞いていると本堂から団体さんが出て来られました。16時5分でしたが、ここの出発が16時10分しかないそうで、ガイドさんも私ら夫婦だけ聞いていたので、ゆっくりお話されてましたが、2話目は団体さんが待たれているので、少し急いで案内されました。そして私らは、団体さんが去った本堂にやっと入れました。
団体さんの人数が多いので、本堂に入るとき多くの人とすれ違います。そして入ってみると堂内には誰も居ないので独占で話を聞きました。
内部は、当然のことながら1月4日と同じです。なお、堂内は撮影禁止にされてました。
入った右手に住職さんがスタンバイされてて、朱印の受付をされていたようです。私は1月4日にいただいているので、ここはスルーです。なお、案内を聞いたので、前回の記事の間違いに気づいたので訂正します。
本堂の中央には阿弥陀如来立像をそして左右に脇侍を配置。左に勢至菩薩、右に観音菩薩を安置。ともに前屈みの体制を取られています。勢至菩薩は合掌をし、観音菩薩は手を差し伸べられているのは、亡くなった方を娯楽浄土にお迎えするという意味です。
堂内内陣中央の右側にも阿弥陀三尊があって、こちらも脇侍を配置右側の観音菩薩、左に勢至菩薩が蓮台を持っています。また、左の厨子には法然上人像、右の厨子には善導大師像が祀られています。
そして、堂内内陣の左側に移動します。ここにも「阿弥陀三尊像」が祀られていますが、こちらには特徴があって・・・。
こちらも「阿弥陀三尊像」ですが、中尊と脇侍の背後を1枚の「船形光背(ふながたこうはい)」が覆う「一光三尊」形式で、宝冠をいただく脇侍は両掌を胸前で水平に重ねる独特の印を結ぶ脇侍が特徴の「善光寺式阿弥陀三尊」が安置されています。
写真は1月4日のものですが、この日も拝観者は私らだけでしたので、こんな雰囲気でした。ここには16時20分頃には出る必要があったので、次に寺宝の案内です。
写真は1月4日の時のもので、まだ“寺宝”は架かってませんでしたが、準備はされてました。そして寺宝は、2点。
「七難図」(円山応挙筆)1773年(安永2年)応挙40歳の時に画かれたもので、経典に説かれる「七難」(地震・洪水・火災・暴風海難・盗賊・追い剥ぎなど)をリアルに描くことで、仏への信仰心と善行を促す目的で作成されたもの。
「勅修御伝(ちょくしゅうごでん)」(法然上人絵伝)1870年(明治3年)に檀家さんから寄贈されたもので4幅あるのか2幅目を展示。
案内は、約10分弱・・・丁寧に説明していただきました。寒い中、外で待った甲斐がありました。本堂を出ると、すっかり後片付けの準備をされてました。
帰りに山門を見ると「本日の拝観は終了しました」の看板も架かってて、予定どおり16時20分に、ここを出て行きました。
ここから子供の頃から慣れ親しんだ大宮通りを南下し、阪急「大宮駅」まで行き、通勤で利用していた「河原町駅」まで阪急に乗って次へと向かいました。
【善想寺 本堂】
会社からバスに乗って、私の故郷四条大宮で下車。そこから歩いて大宮通りを北上すると15時40分・・・団体さんが六角通りを東から西へ大宮通りを横断していかれます。仕事の都合で夕方からしか行かれなかったんですが、受付時間終了の16時前に行けば空いていると思いきや、まさかの団体さんと出会すとは・・・ついてないなぁ・・・と。
六角通りに面して「山門」が1月4日には閉まってましたが、この日は開いています(当然ですよね)。本堂前の下駄箱には団体さんの靴でしょうか、一杯置いてあります。
バスガイドさんの制服で、京都定期観光バスの団体さんと分かりました。ざっと20名から30名ぐらいでしょう、平日でも多くの方が来られていますね。15時44分に着きましたが、入りませんでした。ここには16時までに入れば良いので、三条通り商店街を散策してから、ここに15時55分に戻って来ました。
写真は「地蔵堂」ですが、ここには15時55分に戻ってくると、まだ団体さんは本堂に居ますが、拝観受付所で“招待券”を差し出し、スタンプラリーの用紙の判子を押したもらいました。
これでスタンプから3個貯まったので、“ちょっと一服”の特典を受けることができるので、こちらは後日かならず行きます。受付を済ませると本堂に行くように案内されますが、下駄箱には靴が一杯これでは入れないので、先に「石仏阿弥陀如来」(平安時代後期建立)を見ることにしました。
1月4日も見てますが、案内がきけるかなぁ・・・と思い墓地の方に向かうと、数名の方が出て来られます。
約800年前には四条後院(ごいん)であって後院(上皇の御所)内に祀られていたそうですが、「元弘・建武の戦い」の折りに地中に埋められたようです。
また、「石仏阿弥陀如来」の左隣には華道池坊の歴代家元の“墓碑”があって、入口で案内図をもらったので行ってみました。
1658年(万治元年)に、池坊32世二代目専好師が当墓地にまつられてから、1908年(明治41年)の42世専正師までの歴代家元がまつられています。
それで本堂に戻ると、まだ団体さんは出て来られません。外は寒いので堂内に入りたいと思いつつ、本来なら最後に案内がある「地蔵堂」に行きました。
比叡山延暦寺の開祖、最澄自らが彫ったものと言われ、坂本村に祀られていましたが、1587年(天正15年)に善想寺にお迎えし地蔵堂を建立され現在に至っています。
地蔵堂の内部は、1月4日の訪問時に比べて室内のレイアウトが変更されてます。室内は狭いので沢山の人が入れないからでしょう。この前でガイドさんが案内してくれたため、由緒書きでは知らなかった事を教えてもらいました。このお地蔵さんには逸話が2話あって・・・。
滋賀県坂本村に百姓の作兵衛が居ました。日照りが続いたため作兵衛は、雨が降るように地蔵尊に祈念するとと大雨が降りました。が、作兵衛は急病になり田植えができなくなりました。しかし翌朝になって、心配した百姓たちが様子を見に行くと、なぜか作兵衛の田んぼの田植えがすでに終わっています。そこで“お地蔵さん”を見に行くと、腰から足にかけて一面泥にまみれになっていたことから「泥足地蔵尊」とも呼ばれるようになりました。
また、妻の難産に際した堺町の勘兵衛が、お地蔵さんにお祈りをしていたところ、家から安産の知らせがありました。その時、お礼にお地蔵さんに行ったところ地蔵尊が玉のような汗が流して妊婦の苦しみを引き受けてくれたことから「身代わり地蔵尊」と呼ばれるようになりました。
この案内を聞いていると本堂から団体さんが出て来られました。16時5分でしたが、ここの出発が16時10分しかないそうで、ガイドさんも私ら夫婦だけ聞いていたので、ゆっくりお話されてましたが、2話目は団体さんが待たれているので、少し急いで案内されました。そして私らは、団体さんが去った本堂にやっと入れました。
団体さんの人数が多いので、本堂に入るとき多くの人とすれ違います。そして入ってみると堂内には誰も居ないので独占で話を聞きました。
内部は、当然のことながら1月4日と同じです。なお、堂内は撮影禁止にされてました。
入った右手に住職さんがスタンバイされてて、朱印の受付をされていたようです。私は1月4日にいただいているので、ここはスルーです。なお、案内を聞いたので、前回の記事の間違いに気づいたので訂正します。
本堂の中央には阿弥陀如来立像をそして左右に脇侍を配置。左に勢至菩薩、右に観音菩薩を安置。ともに前屈みの体制を取られています。勢至菩薩は合掌をし、観音菩薩は手を差し伸べられているのは、亡くなった方を娯楽浄土にお迎えするという意味です。
堂内内陣中央の右側にも阿弥陀三尊があって、こちらも脇侍を配置右側の観音菩薩、左に勢至菩薩が蓮台を持っています。また、左の厨子には法然上人像、右の厨子には善導大師像が祀られています。
そして、堂内内陣の左側に移動します。ここにも「阿弥陀三尊像」が祀られていますが、こちらには特徴があって・・・。
こちらも「阿弥陀三尊像」ですが、中尊と脇侍の背後を1枚の「船形光背(ふながたこうはい)」が覆う「一光三尊」形式で、宝冠をいただく脇侍は両掌を胸前で水平に重ねる独特の印を結ぶ脇侍が特徴の「善光寺式阿弥陀三尊」が安置されています。
写真は1月4日のものですが、この日も拝観者は私らだけでしたので、こんな雰囲気でした。ここには16時20分頃には出る必要があったので、次に寺宝の案内です。
写真は1月4日の時のもので、まだ“寺宝”は架かってませんでしたが、準備はされてました。そして寺宝は、2点。
「七難図」(円山応挙筆)1773年(安永2年)応挙40歳の時に画かれたもので、経典に説かれる「七難」(地震・洪水・火災・暴風海難・盗賊・追い剥ぎなど)をリアルに描くことで、仏への信仰心と善行を促す目的で作成されたもの。
「勅修御伝(ちょくしゅうごでん)」(法然上人絵伝)1870年(明治3年)に檀家さんから寄贈されたもので4幅あるのか2幅目を展示。
案内は、約10分弱・・・丁寧に説明していただきました。寒い中、外で待った甲斐がありました。本堂を出ると、すっかり後片付けの準備をされてました。
帰りに山門を見ると「本日の拝観は終了しました」の看板も架かってて、予定どおり16時20分に、ここを出て行きました。
ここから子供の頃から慣れ親しんだ大宮通りを南下し、阪急「大宮駅」まで行き、通勤で利用していた「河原町駅」まで阪急に乗って次へと向かいました。
【善想寺 本堂】