第38代・天智天皇を祀る近江神宮へ
西教寺を出て、車は南下します。直ぐは“日吉大社”がありますが、ここは境内が大変広いので、半日程度時間を要します。それで、この日はスルーして、ひたすら南下すると次に“穴太”を通ります。城好きの方ならお分かりかと思いますが、石積みで知られる“穴太衆”が有名です。大津市に勤めてた時の上司は、ここから通われていました。それで“あのう”と呼び方を教えてもらったんです。
それからほどなくして、第38代・天智天皇を祀る近江神宮に16時20分頃に着きました。
写真は「一の鳥居」ですが、車は鳥居の左側を通って奥に進んで行くと、結構広い駐車場に着きます。
一の鳥居前で写真だけ撮って、車は奥へと進みます。この時はまだ見てませんが二の鳥居を超えた所に、結構広い駐車場がありました。雪は、この時間ぐらいから止んでくれたのは良かったです。
駐車場から境内に入ると、このときは分かりませんでしたが、外拝殿に通じる朱塗りの回廊があります。
横幅約9㍍、高さ約5.4㍍、入母屋造りの「外拝殿」に着きました。近江神宮では、ここから参拝するようで、これ以上は進めません。
外拝殿の正面から本殿が見えていると思いましたが調べると「内拝殿」でした。ここで祭典や祈祷が行われるそうです。
ここから、どう頑張っても「本殿」は見えなかったです。祭神は天智天皇、またの御名を天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)でした。
学生の時、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)での“大化の改新”で習った遠い記憶があります。中大兄皇子が後の第38代・天智天皇に。中臣鎌足が藤原鎌足になって、最大氏族「藤原氏」の始祖になるわけです。
ここから見ると、「本殿」の屋根が見えています。1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝い新営されました。
近江神宮は、1940年(昭和15年)に創建され、御祭神の天智天皇の近江における業績から、滋賀県大津市に創建されました。
16時20分を過ぎると、天気も悪かったので暗くなりかけてきました。高い位置にある外拝殿から楼門を見ています。帰りに、そこには寄る予定です。
外拝殿の東側から回廊を進み、下に降りていきます。上には「参拝順路」と案内も出ているので、そちらに向かいます。
回廊を出ると「栖松(せいしょう)遙拝殿」があります。かつて高松宮家の邸宅社・御霊殿を高松宮宣仁親王は日々礼拝されてました。親王が薨去されたあと、ここに移築されました。
境内の東側から西側を見ています。前途のとおり暗くなってきましたが、ここで授与所を探すと、楼門横にあったので、そこで御朱印をいただきました。
まだ朱印をいただく前ですが、東から西に移動しながら撮りました。あとで由緒書きを見て分かったことですが、松尾芭蕉の句碑が、この前にあったみたいです。
近江神宮の祭神・天智天皇が初めて時計を用いて時を知らせたと故事に因んで、ここには「時計 宝物館」がありますが、時間が遅く入れませんでした。ただ境内には面白いものがあるので見て行きます。
こちらは「古代火時計」で、ロレックス社が奉納されたものです。古代中国(約4000年前)で使用されたと伝わるもので、おもに夜間の時計を計るものとして用いられました。
こちらは時計業界団体から寄贈された「精密日時計」(下)です。上は矢橋徳太郎氏が考案した「矢橋式日時計」です。
こちらは「漏刻(ろうこく)」です。671年(天智10年)に設けられたと伝わります。1964年(昭和39年)オメガ社が奉納されしまた。
その先に見えているのが「自動車清祓所」です。1890年(明治23年)建築の大津地方裁判所の玄関車寄せが移築され、自動車清祓所として使われています。
次に「楼門」から出ていきます。この朱塗りの楼門から外回廊とともに外院を構成しています。
楼門から降りてくると右手に「手水舎」がありました。1940年(昭和15年)造営で、当初は檜皮葺の屋根でしたが、現在は銅板葺の切妻屋根が設けてあります。
手水舎の前には「二の鳥居」があったので、少しだけ降りてみました。この先には最初に見た“一の鳥居”がありますが行きません。再び階段をあがり駐車場に向かいました。
二の鳥居から駐車場までの間には、多くの「歌碑・句碑」がありました。それらを一つ一つ見て行きます。
(右)が「湖ほとに息づき比そめと波はいひは留けく可奈志と波はまたいふ」(香川進)、(左)が「湖に音なき音を韻かせて比良ゆ流るる夕茜雲」(山村金三郎)
右の歌碑が「楽浪乃国都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛」。左の歌碑が「さざなみのくにつみかみのうらさびてあれたるみやこみればかなしも」(高市黒人)
16時34分に駐車場に戻りました。日没が17時20分頃・・・まだ時間はありましたが、天気が悪かったので薄暗くなってきました。
近江神宮から少し北に上がって、山中越えから京都市内に入りました。峠越えの途中には“比叡山ドライブウェー”の入口である“田の谷峠”あたりの温度計は0℃をさしてて・・・道路は雪が少し積もっている状態で、車はノロノロと下って行きます。スタッドレスタイヤを履いてても少々怖かったですね。京都市内に入り、御蔭通りから下鴨神社の前を通って、河原町通りから今出川通りに出て西に向かいます。京都市内は積雪は0㌢でしたが、家の近くで既に積もり始めてました。友人には家の近くまで送ってもらいましたが、暗い中、雪を踏みつけ帰った次第です。翌日には約3㌢ほど積もったかと思います・・・が、10時頃には跡形も無く溶けました。
【近江神宮】
それからほどなくして、第38代・天智天皇を祀る近江神宮に16時20分頃に着きました。
写真は「一の鳥居」ですが、車は鳥居の左側を通って奥に進んで行くと、結構広い駐車場に着きます。
一の鳥居前で写真だけ撮って、車は奥へと進みます。この時はまだ見てませんが二の鳥居を超えた所に、結構広い駐車場がありました。雪は、この時間ぐらいから止んでくれたのは良かったです。
駐車場から境内に入ると、このときは分かりませんでしたが、外拝殿に通じる朱塗りの回廊があります。
横幅約9㍍、高さ約5.4㍍、入母屋造りの「外拝殿」に着きました。近江神宮では、ここから参拝するようで、これ以上は進めません。
外拝殿の正面から本殿が見えていると思いましたが調べると「内拝殿」でした。ここで祭典や祈祷が行われるそうです。
ここから、どう頑張っても「本殿」は見えなかったです。祭神は天智天皇、またの御名を天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)でした。
学生の時、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)での“大化の改新”で習った遠い記憶があります。中大兄皇子が後の第38代・天智天皇に。中臣鎌足が藤原鎌足になって、最大氏族「藤原氏」の始祖になるわけです。
ここから見ると、「本殿」の屋根が見えています。1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝い新営されました。
近江神宮は、1940年(昭和15年)に創建され、御祭神の天智天皇の近江における業績から、滋賀県大津市に創建されました。
16時20分を過ぎると、天気も悪かったので暗くなりかけてきました。高い位置にある外拝殿から楼門を見ています。帰りに、そこには寄る予定です。
外拝殿の東側から回廊を進み、下に降りていきます。上には「参拝順路」と案内も出ているので、そちらに向かいます。
回廊を出ると「栖松(せいしょう)遙拝殿」があります。かつて高松宮家の邸宅社・御霊殿を高松宮宣仁親王は日々礼拝されてました。親王が薨去されたあと、ここに移築されました。
境内の東側から西側を見ています。前途のとおり暗くなってきましたが、ここで授与所を探すと、楼門横にあったので、そこで御朱印をいただきました。
まだ朱印をいただく前ですが、東から西に移動しながら撮りました。あとで由緒書きを見て分かったことですが、松尾芭蕉の句碑が、この前にあったみたいです。
近江神宮の祭神・天智天皇が初めて時計を用いて時を知らせたと故事に因んで、ここには「時計 宝物館」がありますが、時間が遅く入れませんでした。ただ境内には面白いものがあるので見て行きます。
こちらは「古代火時計」で、ロレックス社が奉納されたものです。古代中国(約4000年前)で使用されたと伝わるもので、おもに夜間の時計を計るものとして用いられました。
こちらは時計業界団体から寄贈された「精密日時計」(下)です。上は矢橋徳太郎氏が考案した「矢橋式日時計」です。
こちらは「漏刻(ろうこく)」です。671年(天智10年)に設けられたと伝わります。1964年(昭和39年)オメガ社が奉納されしまた。
その先に見えているのが「自動車清祓所」です。1890年(明治23年)建築の大津地方裁判所の玄関車寄せが移築され、自動車清祓所として使われています。
次に「楼門」から出ていきます。この朱塗りの楼門から外回廊とともに外院を構成しています。
楼門から降りてくると右手に「手水舎」がありました。1940年(昭和15年)造営で、当初は檜皮葺の屋根でしたが、現在は銅板葺の切妻屋根が設けてあります。
手水舎の前には「二の鳥居」があったので、少しだけ降りてみました。この先には最初に見た“一の鳥居”がありますが行きません。再び階段をあがり駐車場に向かいました。
二の鳥居から駐車場までの間には、多くの「歌碑・句碑」がありました。それらを一つ一つ見て行きます。
(右)が「湖ほとに息づき比そめと波はいひは留けく可奈志と波はまたいふ」(香川進)、(左)が「湖に音なき音を韻かせて比良ゆ流るる夕茜雲」(山村金三郎)
「さざなみのしがの山路の春にまよひひとり眺めし花盛りかな」(保田與重郎)
「人間の智恵のはじめよひそひそと秘色の水に刻まあたらし」(春日真木子)
「漏刻の音とこしへに初日影」(桂樟蹊子)
「楼門に湖脈打てる望の月」(伊藤香舟女)
「人間の智恵のはじめよひそひそと秘色の水に刻まあたらし」(春日真木子)
「漏刻の音とこしへに初日影」(桂樟蹊子)
「楼門に湖脈打てる望の月」(伊藤香舟女)
右の歌碑が「楽浪乃国都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛」。左の歌碑が「さざなみのくにつみかみのうらさびてあれたるみやこみればかなしも」(高市黒人)
16時34分に駐車場に戻りました。日没が17時20分頃・・・まだ時間はありましたが、天気が悪かったので薄暗くなってきました。
近江神宮から少し北に上がって、山中越えから京都市内に入りました。峠越えの途中には“比叡山ドライブウェー”の入口である“田の谷峠”あたりの温度計は0℃をさしてて・・・道路は雪が少し積もっている状態で、車はノロノロと下って行きます。スタッドレスタイヤを履いてても少々怖かったですね。京都市内に入り、御蔭通りから下鴨神社の前を通って、河原町通りから今出川通りに出て西に向かいます。京都市内は積雪は0㌢でしたが、家の近くで既に積もり始めてました。友人には家の近くまで送ってもらいましたが、暗い中、雪を踏みつけ帰った次第です。翌日には約3㌢ほど積もったかと思います・・・が、10時頃には跡形も無く溶けました。
【近江神宮】